人波をすり抜け、並ぶ屋台の裏側を足早に歩いた。少し離れれば辺りは嘘のように静かになり、熱気が消えて闇に包まれる。素足に夏草が触れ、土の冷たさが伝わってくる。ほっとしてため息がもれた。
ちょっと、やっちまったな。
頭を掻きながら、肩のちからを抜くために、わざと小さな声を出して笑ってみた。本堂を横目に見ながら草むらをゆっくり進んで、さわさわと葉が揺れる音に誘われるまま、一本の木の下に腰をおろした。
「誰だ……?」
「!」
腰を落ち着けたとたん、背後から酔っ払ったような声がして、思わず飛び上がりかけた。よほど散漫になっていたらしい。こんなに近くの他人の気配に気づかなかったなんて、かつての自分にはあり得ないことだ。
「……なんだ、あんた道場の」
草の中から半分からだを起こして、男がひとり、こっちを見ていた。その頬のこけた馬面と窪んだ目に見覚えがあった。庄屋の次男坊だか三男坊だかで、歳は銀時よりはだいぶ上だが、長いことふらふら放浪したあげくからだを壊して戻ってきたとかで未だ独り身だ。庄屋の離れで療養中で、気候のいいいま時期、たまにぶらぶら散歩しているのを見かける程度だった。本人もそれなりにわだかまりがあるのだろう、卑屈そうに上目づかいで他人を見るようなところがあって、銀時はあまり好きではなかった。
「どうも」
それでも一応緩い笑顔をつくって頭をさげた。彼の父親には、ここに住まうにあたって、なにくれとなく世話になっている。頭をさげながら腰を上げかけた。
「邪魔しちまって、すみません。よそ、行きます」
「別に邪魔じゃねえよ、女と寝てるようにでも見えっかよ」
男は口をへの字に曲げた。銀時は笑った。土方が「へらへらすんな」と嫌がる笑い方だ。
「いやぁそんなつもりじゃ」
「ちっと悪酔いしたからよ、冷ましてただけよ。あんたもか」
「まあそんなとこです」
フン、と鼻で嗤って、男は祭りの明かりに目をやった。
「人にあたったんだな」
とぼそぼそ続ける。
「こう人が集まると酔う」
ああそれはわかると、銀時は心の中でこの男に共感した。ふだん人目を避けるように暮らしている彼が、あんな笑顔と好意のただ中に迷いこんだら、そりゃあ戸惑うだろう。自分だってそうだ。
「俺も人にあたっちまって。ここからも花火、見えますかね」
へらへらを崩さずに尋ねると、男は銀時の顔を見た。上目づかいではなかった。
「ああ、見えるぜ。かえって見やすいぐれぇだ。川が真正面だからな」
「ああ、なるほど」
草むらは緩やかな傾斜になっている。明るい境内を越えた向こう、真っ暗な田んぼのさらに奥に見える川で花火を上げるのだ、と男はぼそぼそ語った。銀時が愛想よく相槌を打つので興が乗ったか、昔はもっと祭りも派手だったが戦争だなんだでずいぶん変わっただの、親の世代の時分は祭りの後といえば男女入り乱れてやり放題だっただのと、だらだらと喋り続けた。
「やり放題ってのはつまり、あれ?」
「そうそう。年寄りどもに聞いてみな」
「へえ、いい時代だったんだなあ」
へらへらににやにやを加えて、銀時は適当に相手をしていた。男は自分もにやにやしながら、袂から何かの箱を出した。
「やるか?」
差し出してくる。覗き込んで、紙巻き煙草の箱だとわかった。この辺りではまだあまり見かけない。戦友に新し物好きがいて、たまにどこからか似たような煙草を仕入れてきたのを思い出し、ちょっと気を惹かれた。
「珍しいですね」
「友達から送ってきたんだ」
振り出して薦められ、じゃあ遠慮なくと抜いた。マッチを擦ってくれた男の手から火を貰って、なんの気なしに吸い込んだ。
くらりと、目が回った。
「土方コノヤロー、旦那はどこだよ」
つまらなそうに声をかけられ、振り向いた。片手に紙袋を抱え、頭には横っちょにお面を引っかけた総悟が、もぐもぐと口を動かしながら立っていた。紙袋から菓子を掴みだしては食べている。
「……ずいぶん買い込んだなオイ」
「射的で当てたんでぃ。旦那は?」
「その辺で甘いもんでも食ってんだろ、見てねぇが」
言いながら見回したが、目立つはずの銀色頭は見えなかった。
「なんだよそろそろ花火なのに。あ、かき氷買ってくだせぇ土方」
「腹壊すぞ」
「すいませーん、イチゴひとつ」
「チッ」
袂から財布を出して、ふと、そういや銀時もかき氷を楽しみにしていたな、と思い出した。
「銀時は、氷買いにきたっすか?」
氷を削る横で洗い物をしていた村の女に尋ねた。女は首を横に振ったが、そういえば、と言った。
「でもさっきあっちで見たわよ。銀さん具合でもよくないの?青い顔してふらついてた」
「……そうすか」
調子よく飲みすぎたんじゃねえのか、あいつ。やり取りを聞いていた総悟もえー、と声をあげる。
「旦那、どうしたのかな」
「立ちくらみって言ってたけどね。そこらで休んでるか、帰ったかじゃないのかねぇ」
気のいい女にどうも、と軽く会釈した。
「ちぇ、旦那もだらしないでさ。土方これ持って、氷食えないから」
紙袋を持たせようとしてくる総悟を無視した。歩き出しかけた土方の背中に「十四郎さん?」と柔らかい声がかかった。振り返り、急いで来たのだろう、胸を弾ませ、たすきをはずしながら無邪気に微笑んでいるミツバの姿を見て、土方はためらった。総悟が嬉しそうにぴょんと跳ねる。
「姉上!」
「総ちゃんもいたのね。まあまあこんなにお菓子!あら、銀さんは?一緒じゃないの?」
ミツバが銀時の名前を出したことが、土方の背を押した。
「ちょっと、待ってろ」土方は早口に言った。「すぐ戻る」
「ん……」
頭がくらくらして、軽い吐き気がする。何度も瞬きしてやっと、夏の空に華やかに散らばった星が見えた。
じっとりとした男の唇が、はだけた胸に吸い付いている。汗ばんだ手が銀時の両手首を掴んで地面に押しつけていた。
−−めんどくせぇな。
草と土の匂いで詰まりそうになる息を意識して整えながら、銀時はただそう思った。煙草に何が−−よろしくない薬物のたぐいだろうが−−入っていたのか知らないが、それでも、その気になればたぶん男を振り払って逃げることはできるだろう。のしかかられているが、男のからだはさほど重くはない。
だが面倒だった。男を押しのけるのも、そんなんじゃないからこんなことはよせと言うのも、ひたすら面倒だった。このままずるずるやられちまってもまあそれはそれでいいか、とも、ぼんやりと思った。
男が首筋に歯を立てて、銀時は小さな声をあげた。からだに触れられるのは久しぶりだった。名前も知らない相手だと思うとおかしくなったが、それでも、しだいに体が疼き熱くなるのは止めようがなかった。汚い手を使われたとは言え、男が自分を蔑んでいるわけではなさそうなところが、なんとなく銀時を安心させていた。実際、男はおどおどしているようだった。首や鎖骨に口をつけ、そのたびに顔を上げて銀時を窺う。銀時が抵抗しないでいると少し大胆になったのか、銀時の浴衣の裾を跳ね、脚の間にからだを入れてきた。
−−あー、スネ毛。
空を見上げたまま、銀時は眉をしかめた。−−いや俺もあるし、構わないんだけどね、知らない相手とこういうことをするならあんまりそういうの感じたくないよね。さっさと出すだけ出して終わらせてくれないかな。
だが男の愛撫は生ぬるく続けられ、乱暴ではないかわりに、銀時を現実から自由にもしなかった。どうせならめちゃくちゃにしろよ、というような気持ちで、銀時は掴まれたままの手で男の頭を自分の胸に押しつけた。乳首を吸われてやっと、背中に弱い電流が走った。ささやかに喘ぐと、男が息を荒くした。だがその他に聞こえる音がある。
−−足音、が、
伝えるのもなんだか面倒で、銀時はもぞもぞと手指を動かしたが、もちろん男には通じなかった。
「なにしてんだてめぇ」
−−ああ、最悪だ。
一瞬目を閉じて、開けた。ひっと叫んだ男が飛びのいて視界が開け、土方の凶悪な顔つきが見えた。
「な、なにも、」
男があわてて言いかけたが、土方のひとにらみで黙った。
「行け」
土方が顎をしゃくった。男はさらに何か言おうとしたが、結局口を閉じてのろのろと立ち上がり、悔しげに唾を吐いて、斜面を下って行った。
「……なに、おとなしくやられてんだよてめぇは!」
男の姿が消えるなり、土方は低く怒鳴った。それでも銀時の腕を引いて起こし、乱暴に背を払ってくれた。銀時は苦笑いした。
「すみません」
「ああ?すみませんじゃねえよ!いったいなんだってんだよ!?」
「んー、なりゆき、で」
「ああ!?」
土方は呆気にとられたように銀時を見た。銀時は笑った。へらへらすんな、と言って欲しかったのに、土方は険しい表情を変えずにじっと目を覗きこんでくる。
「……」
衝動的に土方の手を掴み、自分の頬に押しあてた。土方はびくっと一度手を引っ込めようとし、だが思い直したように力を抜いた。てのひらは熱いが乾いていて、新しいタコができていた。土方の息づかいが近くで聞こえた。
「……なに、考えてんだ。わかんねぇ」
やがて土方がそう呟いた。固い親指の腹が、目の下の薄い皮膚を軽く撫でる。銀時は目を閉じてその感触を味わった。さっきの男にされた全部より、こっちの方が響く、と思った。
「うん」
「うん、じゃねえ。自分のことだろうが」
腹立たしげに、土方の手が顔を押しやり、離れていく。その温度を惜しみつつ、苦笑いした。
「酔ったかな」
「酒の匂い、しねぇぞ」
「……」
頭を掻くと、ちぎれた草がひらりと落ちた。尻の下の土の冷たさが染みてくる。
「流されてほにゃらら、ってこともあるでしょうがあ、男ならあ」
「男相手にか」
間髪入れずに返ってきたことばをそうだよねえと受け流すと、土方がふて腐れた気配が伝わってきた。
「俺はねぇ、けっこう長いこと戦場を転々としてたの」
「……それがどうした」
「男しかいないからねぇ」
「……」
「そういうこともあるんですよ、お互い普通じゃなくなってるしねぇ」
土方の浴衣の裾が、目の前で風に揺れるのを見ていた。そのまま視線をずらして境内を眺める。きれいな夢のように明るく光っている。
−−俺たちが地を這いずり回っていた日々など、なかったことのようだ。
「……!」
銀時は茫然と光を眺めた。俺はいま何を考えた?いやだ。そんなことを思うはずがないのに。
こんな、恨むような、こんな気持ちは、
「おい、どうした」
土方の声が聞こえた。訝るように顔を近づけてくるのが見えた。銀時が土方に目を戻した時、ヒュルル、ドン、と音と光が弾けた。花火が始まったのだった。土方の顔半分がその光に照らされ、一瞬ののち、また闇に溶ける。
−−腹の奥が熱い。怒りなのか悲しみなのかわからないどす黒い何かが暴れている。
衝動的に銀時は土方の浴衣を掴み、引き寄せて唇を合わせた。
−−助けて。
唇を押しつけたままそう念じた。土方に押しやられるまでの、ほんの短いあいだ。
みな、夢中で花火を見上げている。その中に、細い見慣れた背中を探した。白いうなじを傾けて弟に話しかける姿を見つけた時、安堵して、こめかみに汗が噴き出すのを感じた。それを拭いながら、そっと彼女の肩に触れた。あら、と振り向いて目をみはる彼女をただ抱きしめたかった。
「十四郎さん?どうかしたの?銀さんはいた?」
優しい声、夜風にそよぐ髪。自分を信頼して素直に笑ってくれる。そんな女に出逢ったのは、初めてだった。
彼女の手を引いて、人混みから抜け出した。総悟は花火を見ていたが、土方が姉を連れ出したことに気づかないほど鈍くはないだろう、情け深くも見逃してくれたらしい。
「どうしたの」
ミツバは笑っていた。古い小さな社の陰で、土方が彼女を抱きしめ、初めて口づけするあいだ、ずっと微笑んでいた。だが、土方が顔を離すと少し不安そうな表情を浮かべた。花火が何度かその顔を照らした。
「……何かあったの?」
ミツバは土方の前髪に触れて、聞いた。土方は首を振った。
「なんでも、ねえよ」
ただこうしたかった、と囁いて、ほっそりとした首筋に顔をうずめた。ミツバの手が、今度は背中を撫でてくれるのを感じながら、土方は銀時の顔を思い出していた。自分からあんなことをしてきたくせに、途方に暮れた、親とはぐれた子供みたいな顔をしていた。あの顔を見ていると、おかしな気分になりそうだった。優しくしたいような、ひどく傷つけてやりたいような、相反する、今まで感じたことのない感情が込み上げてきて、土方はうろたえていた。
ミツバは安全だ。
そんなふうに思う自分が情けなかった。だが事実だ。腕を回せばすっぽりと自分の胸の中に収まる細い体躯も、柔らかい唇も、逃げ込むのにちょうど良かった。それを確かめたくて、ミツバの頭に頬を擦り寄せた。
ドォンとひときわ大きな音がして、みながどよめいた。もう一度口づけして抱き寄せたら、十四郎さん子供みたい、とミツバが囁いた。どこがだ。なんだか困って拗ねた、子供みたいな顔をしてる。ふふ。
手を口に当てて笑う彼女を、心から愛しいと思った。その想いは、引き裂かれるような痛みを伴っていたが、土方はそれには気づかなかった振りをして、ミツバの指先に口づけた。
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