「うそをついてはなりません
ともだちをうらぎってはなりません
ひとのものをほしがってはなりません
いつもあかるくまえをむいてくよくよせずにわらいましょう」
雪が降っていた。ねずみ色の空は低く陰鬱に広がり、もう日はほとんど沈みかけていた。冷気が雪駄の足にしみる。
−−早くかえって、風呂を炊かねぇと。いくら頑丈な近藤さんでも、この寒さで稽古の汗が冷えりゃ風邪をひく。
足を速めて霜枯れの道を辿りながら、土方十四郎はそんなことを考えていた。すっかり冷たくなった鼻先を襟巻きにうずめ、受け取ってきた荷物を小脇に抱えなおす。頭を振ると、束ねた長い髪から雪のかけらが襟首に飛び込んできて、ぶるりと身震いがでた。
右も左も、冬仕度の済んだ田んぼの平たい景色だ。ぽつんぽつんと散らばった民家の他に、たまに濁った煙を上げているのは炭焼き小屋だ。東は川に、西は山に区切られた、なんの変哲もない小さな里だった。山のふもとにはちんまりとした鳥居があり、普段穏やかな川は数年に一度、気まぐれに暴れて橋を流す。子供たちは山でどんぐりを拾い、川では小魚を捕って遊んだ。村人はほとんどが百姓で、鶏や山羊を飼っている。誰もさして豊かな暮らしなどできないかわりに、なにか困ったことがあればお互い様と手を貸しあうから、貧しさで娘が売られたり死人が出たりすることもなかった。
こういう鄙の暮らしもいい、と、居着いてしばらくは思ったものだった。土にまみれて土に生き、やがて静かに土に還る。きちんと完結した、単純で美しい循環。その環に組み込まれて幸せに生きられるような気がしたこともある。だが−−
「?……なんだ、あれ」
土方は足をとめた。すぐ先で、道はみつまたに別れる。左はたちまち雑木林に、まっすぐ進めば庄屋の屋敷に行き当たる。土方は右に折れてもう少し歩けば、道場に帰りつく。そのみつまたをまっすぐ進みかけた道端には、小さな古びたお稲荷さんの祠がある。気楽な神様であるだけに村人には大事にされている。が、
−−拝んでるわけじゃ、なさそうだ。
襟巻きから顎をあげ、土方はまじまじとそれを眺めた。白い人影が、稲荷にひれ伏すような位置で、からだを地面に投げ出していた。お稲荷さんを拝むのに五体倒地というのは聞かないし、人影は動く気配もない。ゆっくり近寄って、それが、汚れてはいるが白い羽織袴を着けた男らしいと見当がついた。年よりなのか、豊かな髪も白かった。
−−行き倒れか?
土方は辺りを見回し、ため息をついた。左手の雑木林はそのまま山越えの獣道に繋がる。男はそちらから来たのではないかと土方は思った。見覚えのない風体だし、おそらく山を越えてきたよそ者だろう。
「おい−−」
土方はしゃがみ、男の肩をつついて声をかけた。覗きこむと、意外に若々しい横顔だった。下手をすると自分と同じ年ごろではないか、と思った。おい、と重ねて呼ぶと、閉じた目許がぴくりと動いた。あ、生きてんのか。目許に次いで唇が動いて、白い息が微かに漏れた。ざわざわと雑木林がざわめいて、風が出てきたことを教えた。
「……おにいさん」
目の前の行き倒れに不意にしっかりした声で呼びかけられて、土方は驚いた。眼下の男はうっすらと目を開けていた。辺りはすっかり暗くなっていたが、男の瞳がまるで血のように赤いのがわかって、土方は背すじがぞくりとした。場所が場所だけに、稲荷の狐に憑かれでもしたのか、と、馬鹿げたことまで考えた。
「おにいさん、うしろ、うしろ」
男はそそのかすように囁いた。目線で背後を指しているようだ。次の瞬間、土方も、無粋に入り乱れる足音を背骨で聞いた。振り向くと、林に隠れていたのだろう、下手くそな頬かむりで顔を隠した賊が三人。てんでに刀や手槍を構えていたが、ひどいことに一人は土のついた鍬だ。どこの納屋からかっぱらってきたものか。
「またかよ」
思わずうんざりした声になった。土方が生まれる前からこの国で続いてきた戦争は、なしくずしに終わりつつある。それに伴って、食いつめた敗残兵のたかりや押し込み、暴行などが目立ちはじめたのだ。つい何日か前、近くの農家でも着物が盗まれ、飯櫃が空になっていたそうだ。家人の老夫婦は納屋で仕事をしており、出くわして居直られるようなことにならなかったから笑い話のうちで済んだが、これが若い女が留守番をしていたらそんな暢気なことは言っていられなかっただろう、と近藤は渋い顔をしたし、土方も頷いた。その時ひとりの女の顔が頭に浮かんだのだが、土方がなにも言わぬうちに近藤が続けた。−−ミツバ殿も総悟とふたりきりの暮らしだ、心配だな。
「物騒だなオイ」
そろそろと中腰になりながら土方は呟いた。すぐそこが道場なのに、と舌打ちしたい気分だった。道場なら近藤もいるし、竹刀なり心張り棒なり、武器があるのだが、この道端には棒っきれ一本見当たらない。目つぶしにはなるかと手で砂利をまさぐる土方に、賊のひとりがじりじりと間合いを詰めながらおう、と胴間声を張り上げた。
「兄ちゃん、痛い目に遭いたくなきゃ、金目のもん置いていきな」
土方は鼻で笑った。
「俺のフトコロがあったかそうに見える、か、」
途中でハッとなり、言葉が途切れた。抱えていた風呂敷包みを思わず庇うようなしぐさをしてしまい、一瞬うろたえた。
−−いけね、
包みには仕立て直しに出していた近藤の着物と、間の悪いことにちょっとまとまった金が入っていた。近藤が思いきって、古い掛け軸だの茶器だのを手離した、その代金が今日支払われたのだ。
−−これは、絶対に渡せねぇ。
土方は身体を固くした。この金で、近藤は念願の刀を買うのだ。いずれは侍として正式に帯刀を許された身になって、国のために奉公したいと夢を語る時の近藤の目は、子供のようにキラキラしている。お前も一緒に来てくれるかトシ、そうかそうか、と嬉しそうに土方の背中をばんばん叩いて笑う近藤の底抜けに明るい笑顔が浮かんで消えた。
「よこせ」
賊は土方の動きを見逃してくれなかったらしい。摺り足で近づいてきながら、刀をギラリと光らせた。たいした業物には見えないが、あの刀はいくらくらいするのだろうかと、土方は賊をにらみつけた目を離さずにちらりとそんなことを思いながら、包みをきつく抱えこんで後ずさった。かさ張る物だからとっさに懐に押し込むこともできない。金ははじめから帯の中にでも入れておくべきだった、と今さらながら悔やんだ。
「やめとけよぉ」
うしろから、のんびりとした声がした。目だけで振り向くと、行き倒れが身体を起こし、あぐらをかいて腿に肘をつくところだった。暗がりにほんのりと浮かぶその白い姿を、幽霊のようだと土方は思った。頭から足まで色がなくて、温度が感じられない。ひらひらとはためいた鉢巻きの白布が、やがて風がやんだのか男の右肩に落ち着いた。彼は半分目を閉じたまま、言った。
「やめとけって。なあ、おとなしくその物騒なモン引っ込めてくれりゃあ、あんたらはよけいな怪我をしなくて済むし、俺は」
彼はそこで言葉を切り、しかめっ面をして腹をおさえた。
「これ以上腹ぁ減らさなくて済むんだけど。あんたらも食いつめてるんだろうけど、俺昨日からなぁんも食ってなくてさ」
はぁ、とため息をついて、彼は土方にちょっと笑いかけた。土方はどきりとした。ほんの微かな、照れ隠しのような、目を細めて唇の端を緩める、その笑いかたが、土方の印象にくっきりと刻まれ、焼きついた。
「てっ、てめえら、なにをごちゃごちゃ」
痺れを切らしたか、へたな間合いで刀を振りかぶって飛び込んできた男の腹を、とっさに土方は蹴り上げた。倒れかけたのを踏みつける。もう一人がわっと声を上げて手槍を振り回したが、いつの間にか土方の前に出た白い男が難なくその手首を掴み、柿でももぐようにくるりとひねった。骨の折れる音がして、男は悲鳴を上げた。奪った手槍をさらにもう一人に向けながら、白い男は穏やかに言った。
「ね、やめようや。もう、終わるんだよ、こんなもん振り回す時代は。あんたらもたいへんだろうけど、もう……」
ほぼ真円の月が雲から顔をだして、白々と彼を照らし、雪を輝かせていた。凍るように冷たい空気の中で、乱れた長めの銀髪も、鉢巻きも、羽織も、彼のすべてが夜風を孕んでふわふわと揺れて、彼はなんだかそのまま重力から自由になって地面を飛び立ってしまいそうに見えた。
「もう、自由になろうぜ」
まるで土方の心を読んだように、彼はぽつりとそう呟いた。
「うめえ、これ、うめえ」
彼がガツガツと芋にかじりつくのを、土方は呆気にとられて眺めた。さっきまでの余裕や穏やかさなどどこかに吹っ飛ばして、彼は道に座ったままひたすら無心に芋を咀嚼している。帰りがけに買って懐に突っ込んだ焼きいもは、少し端が欠けてしまっていたが、残りはすべて速やかに彼の胃に消えつつあった。手を出したら噛まれそうだ。
「っ、」
喉が詰まったらしく、胸をどんどん叩く。
「おい、落ち着いて食えよ」
「っ、だって、ほんっとーに腹が減って減って、もう」
喘ぐ背中をさすってやると、浮き上がった背骨の感触があった。見れば見るほど、羽織も戦袴もずいぶん汚れて綻びていた。恐らくはこの男も、落ち延びてきた志士のひとりに違いなかったが、帯刀していないのに、土方は気づいていた。
「お稲荷さんみっけて、油揚げの一枚でもいいからと思ったけど、ありゃしねえんだもん、もう、がっかりして、」
「それでぶっ倒れてたのか」
彼はせわしなく頷き、芋の最後のかけらを口に押し込んだ。それを見て、土方は立ち上がった。もぐもぐと口を動かしながら、彼が見上げる。その瞳は青みがかった灰色で、赤くはなかった。土方は言った。
「来いよ。それじゃ足りねぇだろ。飯と味噌汁くらいなら食わしてやる」
男はぱっと目を見開いて、飛び上がるように立った。
「え、ほんと?ほんと?いいの?」
嬉しそうに笑う顔は、やっぱり、自分と変わらぬ年ごろにしか見えなかった。土方は尋ねた。
「……名前は」
彼は指を舐めながら、ちらりと土方を見た。
「ひとに聞くならまず自分から」
「……」
かわいくねぇ、と思った。
「土方、十四郎」
「へー、かっこいー」
「なんで棒読みだよ!オラ、お前の名前」
「名無しのごんべ、」
「嘘はナシだ」
あはは、と、彼は喉を反らして笑った。寒いのか照れたのか、頬がうっすら赤かった。
――春の匂いがする。
土方があくびをこらえつつ井戸から水をくんでいると、諸肌脱ぎになった体から湯気をたてて、近藤が姿をあらわした。肩にかけた手拭いをはずし、おう、と明るい声をだした。
「早いな、トシ」
「朝飯、今日は俺が当番だから」
「味噌汁、こないだみたいにからくしないでくれよぉ。いくらおかずがないからってさあ」
太い眉を下げて近藤は言い、汗を拭きはじめた。土方は苦笑いした。
「毎朝うまい味噌汁が飲みてぇなら、あっちにやらせた方がいい」
適当な方向に顎をしゃくる。近藤は豪快に笑った。
「それもそうだなあ。まだ、寝てんのか」
「聞くまでもねぇだろ」
「たまに朝稽古に顔だしてくれりゃあなぁ」
「無理無理。あんな寝汚い野郎、見たことねぇぜ。ったく」
土方はぼやき、近藤を残して土間に戻った。ついこの間までは、朝の寒さが耐えがたくて竈にしがみつきたくなるほどだったが、今朝は湯が沸きはじめると暑いと感じた。開け放した勝手口から見える裏庭にも、若々しい緑色が目立つようになってきた。
土方が厄介になっている近藤の家は代々道場を営んでいる。実入りは薄く立派な看板も傾いて見えてしかたないが、敷地と屋敷は広い。土方は雨戸を開けがてら、奥まった小座敷の襖を蹴り開けた。
「飯だ、起きろ」
微かに甘い匂いがする。その部屋はいつもそうだった。若い男ひとりの居室だというのに。なにもない殺風景な部屋の真ん中に敷かれた布団の中のかたまりが少し動き、うう、と呻いた。もぞもぞと、鳥の巣になった銀髪が枕にはみ出してくる。
「起きろ、銀時」
季節がひとつ変わる前に、土方は彼をそう呼ぶようになっていた。
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