−−どこかで、三味線が鳴っている。
浅い眠りから目覚めた時、土方が最初に感じたのはそれだった。遠い座敷から微かにぽろりぽろりと漏れ聞こえる音色に少しのあいだ耳を傾けていたが、やがてうつぶせになって枕元から煙草を取り、くわえた。隣の女が身じろぎ、「寝られませんの?」と聞いた。
「いや。よく寝た」
そうですか、と言いながら、女はどこか寂しげに、土方の裸の背に手を這わせたが、すぐに離れた。土方が触れられるのをあまり好まないのを、女は知っている。
「汗をお拭きしましょうか」
「いや、いい」
土方は素っ気なく答えた。その素っ気なさを少し悔いて、「暑くなったな」と取り繕うように言い足した。
「ほんとに」
女はほっとしたように相槌を打ち、煙草を消して土方が体を起こすと自分も襦袢姿で起き上がり、甲斐甲斐しく衣桁から着物を下ろし、着せかけた。柔らかいお白粉と香の匂いが漂い、女のほつれた髪が土方のうなじをくすぐった。
土方は女に背を向けて襟を合わせ、黙って帯を締めた。女は静かに団扇を使って風を送っている。どことなく恨みがましいような責めるような視線が、背中に張りついていたが、気づかない振りをした。
女は西の出だった。戦争で体を悪くして酒浸りになった元志士の父と、歳の離れた弟がいる。父に吉原に売られる時、女は弟を学校にやるよう父に約束させた。土方は不定期にだがもう一年近くここに通っているが、女の笑い声を聞いたことはない。顔立ちがよく、肌もきれいな女だが、地味でいつも沈んだ目をしている。
「誰かの話を聞いていないか」
帯を直し、土方は女に向き直った。女は目を伏せ、後れ毛に手をやった。土方は女の肩を抱き寄せて、耳のあたりを撫でた。小さなため息が聞こえた。
「……鬼兵隊のどなたかが、おとつい、見えたようですよ」
女は言った。土方はそうか、と頷き、さらに近く女を抱き寄せた。細い骨の手触りがあった。
「夏祭りを見にきた、とおっしゃっていたそうですけど。サングラスをかけた、背ぇの高いお人だとか。高瀬姐さんを指名なさって、姐さんは前にもお相手をしたんですって」
女はたまに出る西の訛りを滲ませて、言った。だが土方はそれに気づかず、心臓が高鳴るのを感じていた。−−河上万斎か。
下っ端浪人ならともかく、高杉や河上といった鬼兵隊の幹部は、短い逗留では吉原に顔を出したりしない。馴染みの女に会いにくるのは、それなりの期間、江戸に滞在するつもりだということだ。
「ほかには」
「……さあ」
女は投げ出すような口調になった。
「江戸の空気は美味いて窓を開けておっしゃってたそうですけど、そんなん嫌みに決まってますわ」
土方は思わず笑い、女の顎を持ち上げて目を覗きこんだ。暗く据わった二つの瞳が、瞬きもせずに見返してくる。
「お前も、ここは嫌いか」
「嫌いです」
女は即答して、ため息をつきながら土方の肩に顔を押しあてた。
「こんな−−日の差さない、ごみごみした街は嫌い」
「……そうか」
土方はそっと女を押しやった。襦袢の緋色がぶるりと震え、女は夏だというのに寒そうに自分の肩を抱いた。鎖骨の窪みに、濃い陰が溜まっている。
「ご苦労だったな、……夕霧」
呼ぶのに間が空いたのは、一瞬名前を思い出せなかったからだと気づいたに違いないが、女はまた寂しげに微笑んだだけだった。
だが、土方が腰をあげようとすると、息を吸ってわずかに身を乗りだした。
「土方さま」
「ん」
「次はいつ、来てくださいます」
土方は眉をひそめて見下ろした。女は肩をこわばらせ、膝の上の手をぎゅっと拳にして襦袢を掴んだ。俺の袖なり首なりを掴みたいのだろうか、と土方はぼんやり考えた。唇からこぼれた声は冷えていた。
「……約束はできねぇが、そのうちな」
「……」
女は食い入るように土方を見つめたが、すぐに逸らして俯いた。そうですよね、と気が抜けた声で言った。
吉原を歩くたび、土方は、ここは夜の底だ、と思う。鉄の蓋で天井を塞がれたこの街は昼間を嫌い、かわりに常にけばけばしし人口光で満たされている。どこを歩いても女の匂いがした。
いい女だったな、と土方は思った。肌や顔の美しさではなく、ひっそりと苦痛を耐えるような風情が、土方は嫌いではなかった。我ながら、趣味が悪いという自覚はある。
−−でも、今夜で終わりだ。
袂から煙草の箱を出し、振り出してくわえる。ライターの火をともすために足を止めた時、背に気配を感じた。
「……ちっ」
土方は舌打ちした。このような事態は、慣れてはいるが楽しくはない。ちょうど空き地の脇で、人気の少ないところだったが、土方は馴染みの女を抱いてちょっとしたネタも得て、気分がよかったのだ。せっかくのいい気分が台無しだ。
「……不粋だな、どいつもこいつも」
腰に手をやり、刀を確かめる。深く吸い込んでから煙草を吐き捨てた。小さな、瀕死の蛍のような光が、斜めに流されながら落ちていく。後ろから調子っぱずれの奇声と共に、荒々しく駆ける足音が迫る。土方は振り向きざま刀を抜き、その勢いを使って斬りさげた。肩を裂かれた浪人が、顔を歪めながら、それでも必死に切っ先を伸ばして突いてくるのをかわし、横手からあらわれた次の男の腹を蹴り飛ばす。通りがかった女がきゃあと悲鳴をあげて逃げた。それに一瞬気を取られて、袖を切られた。
「何人がかりだ、こら……っ」
脇腹のすぐ横を刀が掠めていった。さらに背後からの一刃を刀で受け止めて向き直った土方は、刺客の姿を認めて目を見開いた。
「てめぇら……っ」
見覚えのある顔がふたつ、青ざめて並んでいた。どんなに増減があろうと、隊士の顔と名前は頭に叩きこんである。いま目を興奮にぎらつかせ、そのくせ少しばかり及び腰で刀を構えているふたりは、一番隊の隊員に間違いなかった。
「てめぇら、そうか……」
草履が片方脱げていた。もう片方も脱いでしまえと足を持ち上げた時、横ざまに白い影がものすごい早さで飛び込んできた。
短い怒号のあと、男たちの首が折れる音を、土方は確かに聞いた。ふたつの身体が折り重なるように倒れて、低いが通る声が、「逃がすな、できたら生け捕り」とややめんどうそうに命じた。見慣れた隊服が数人、はっと答えて駆けていく。
「銀時」
「土方くん、怪我してる」
ちらりとこちらを見るなり、銀時はそう言って顔をしかめた。
「してねぇぞ」
「してる」
銀時の白い手が伸びて、土方の頬に触れた。チリッと痛みが走って、そこが切れていたのを知る。
「……なんでもねぇ」
「うん」銀時は笑った。「よかった」
山崎が素早く寄ってきて、銀時に目配せした。銀時は頷いた。
「見られないうちに運んで。よろしくね」
「はい」
山崎は答え、足元のふたりを険しい顔で見た。すぐに山崎の指示で遺体袋や規制テープが運びこまれ、隊士たちが動き始める。土方は煙草を出した。
「……こいつら」
「うん」
銀時は物憂げに頷いた。いつもの片肌脱ぎの着流しが、僅かな返り血を受けて、模様のような血痕が散っていた。
「スパイ、兼、鉄砲玉だったみたいね。気になって尾行つけといてよかったよ」
銀時は木刀を腰に戻し、山崎に何か耳打ちしてから、既にちらほら集まっている野次馬を避けるように、土方を促して暗がりに導いた。そして小声で聞いた。
「……土方、お前が今夜ここに来るの、事前に誰か知ってた?」
「あ?……いや、別に。……わざわざ女やりに行くなんて宣伝したりしねぇよ」
「そっか」
銀時は困ったように目を伏せた。土方は煙を吐きながら睨んだ。
「なんだよ」
「あいつら、お前をつけてたわけじゃないんだよ」
「……あ?」
土方は救い出してきた草履を履こうとしていたところだったが、思わず裸足のまま顔をあげた。銀時はいつの間にか飴を舐めており、頬が片方ずつ膨らんだり戻ったりしていた。
「お前が店にあがって間もなく、あいつらが雁首揃えてあらわれたのよ。ジミーも断言したけど、お前は絶対つけられてなかった」
土方はゆっくりと草履に足を入れ、煙草を吸った。横で銀時は腕を組み、あらぬ方を眺めている。ふたりの裏切り者の遺体はもう黒い袋に収められ、担架に乗っていた。
「……なにが言いてぇ」
「うん」
「うんじゃねぇ」
「……うん」
銀時はしかたなさそうに笑った。眉が下がり、情けない表情になる。土方は刀の柄を握り締めた。
「……見てくる」
「うん」銀時は目を閉じた。「……ジミーも行かせたから、殴らないでやってね」
土方は走って妓楼へ戻った。慌てる下駄番を無視して二階へと駆け上がると、部屋から出てきた山崎と目が合った。山崎は白っぽい顔をしていた。
「剃刀で」山崎は囁くように言った。「喉を切ったようです」
向かいの部屋の襖から顔を覗かせていた遊女が、それを聞いて小さな悲鳴をあげた。土方は山崎の肩を押しのけ、部屋に入った。白い布団の上に緋色が広がっていた。どこまでが襦袢でどこからが血の色か、よくわからなかった。疲れた、と土方は思いながら、乱れた裾から伸びた白い脚を見つめていた。
女の身体を知ったのは十四の頃だ。適当で荒んだ暮らしぶりに似合いの、適当で荒んだ初体験だったが、相手の女は歳上でさばさばしていて、よく笑った。もう顔はよく思い出せないが、腕の中でのけ反りながら明るく笑ったその声は、いまも覚えている。
−−あんた、顔も身体もいいからもてるだろうね。だけどそんな仏頂面じゃあ、幸せが逃げるよ。
そんなことを言っていたような気がする。適当とはいえ初めて自分のものにした女の肉体に土方は夢中で、ことの後も離れがたく柔らかな身体を抱いていたのだが、やがて女は土方の髪をするすると撫でながら言った。
−−いつか本当に惚れた誰かとこうする時に、思い出してちょうだい。あああのろくでもない女より百倍気持ちいいなって、きっとそう思って、笑ってちょうだい。
−−つまんないこと、言うなよ。
凝った乳首を噛むと、女は笑いながら喘いで、土方の頭を抱いた。熱い肌から、湿った匂いがたちのぼった。
屯所に戻ったのは、深夜三時に近い頃だった。珍しく顔も腫らさず酒の匂いもさせずに近藤が待っていたので、土方は昔馴染みのその気遣いに頭を下げた。暇な夜はたいてい好きな女が勤める『スナックすまいる』に入り浸って、ついでに当の女から何発か手酷いパンチなりビンタなりを食らって帰るのが常なものだから、土方も時おり危うく忘れそうになるのだが、近藤は今もやはり頼りになる上司であり、友人だった。
「トシ、たいへんだったな」
近藤はまずそう言って土方を労った。土方がすまねぇ、と謝ると、意外そうに目を見開いた。
「何を言うんだ、お前のせいじゃない」
「いや」土方は首を振った。「俺の監督不行き届きだ。申し訳ねぇ」
馬鹿を言うな、と近藤は頬を膨らませた。そして熱い茶をいれてくれた。
「……総悟も、まあ、顔には出さないが、あいつなりにへこんでいた。たぶん」
銀時が討ったふたりは、一番隊の隊士だった。近藤の「たぶん」が自信なさそうで、土方はようやく少し笑った。
「そりゃあ、俺をやるのは自分だって思ってるからだ。先を越されるところだったもんで、へこんだんじゃねぇのか」
「ばぁか」
近藤は浴衣姿だったが、あぐらをかいて脛を掻きながらにやっとした。
「心にもないことを。……総悟が不満に思ってるとすりゃあ、お前と銀時の、普段はお互いそっぽ向いてるくせにいざとなりゃ阿吽の呼吸で動ける、そういう信頼関係に、じゃねぇのかな。『結局旦那は土方さんに甘い』って、羨ましそうに言ってやがった」
お茶を啜っていた手を止めて、土方は眉を寄せた。
「今回のことにかけちゃ、銀時に全部持っていかれたよ。……俺はなんにも気づいていなかった。情けないことに」
「気にするな」近藤は息をついた。「銀時はそうやってずっと裏側で動いてくれてる。それを表で受け止めるのが、俺やお前の役目だろう。−−銀時がさっきからお前の部屋で待ってるぞ、それ飲んだら行ってやれ」
土方は驚いた。
「銀時が?」
「ああ」近藤は今度は顎を掻いた。「……馴染みの女を死なせちまった、としょげていたからなあ」
夕霧の暗い瞳の幻影がよぎって、消えた。土方は強いて首を振った。
「別に『死なせた』わけじゃないさ。あの女はやつらを手引きし、その裏切りが失敗したから喉を切った。それだけだ」
「ああ、わかってる。だが銀時は先に女を押さえておけばよかったと思っているようだ。むざむざ死なせることはなかった、と言っていた」
近藤は言った。
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