夜遅く、屯所に戻った土方が自室に入ろうとしたところを、呼びとめる者があった。振り返りながら、土方は自然と不機嫌な顔になったが、開いた襖から半身を覗かせた相手もそれに気づいて、応じるように薄笑いを浮かべた。

「そんなに嫌な顔をすることはないだろう、土方くん」

「すまねぇな。これが地なもんで」

「聞いたよ。朝早くからご活躍だったそうだね。……坂田くんが負傷したというが、だいじょうぶか」

銀時の話になると薄笑いを引っ込め、気遣わしげな表情になるのが、なぜか土方には気に障った。

「伊東先生にご心配いただくほどの怪我じゃねぇ」

先生、に力を入れて言ってやった。相手は眼鏡の奥の目を細め、ややあってふっと笑った。

「まあ、そう毛を逆立てずに。坂田くんに関して、ちょっと君の耳に入れておきたい件がある」

「……なんだ」

ふたりは同時に、ふたりの立つ真ん中にある閉じられた襖に目をやった。ここは屯所の一番奥まった場所で、長い廊下を折れて手前が伊東、奥が土方の部屋で、その中間が銀時の部屋だった。めったに使われないその部屋だが、山崎あたりが時々空気の入れ換えだけはやっているらしい。局長の近藤の居室はこの更に奥、短い渡り廊下の先にあるが、近藤は静か過ぎて落ち着かないと、大部屋や客間にいることが多かった。

土方はしんと閉じた襖から目を離し、室内からの光を受けて眼鏡を光らせている男を見た。その男、伊東鴨太郎は参謀待遇であり、副長よりひとつ頭の低い地位にあるはずだが、土方と並べてどちらが組織の幹部らしいかと聞けば、七割は伊東と答えるかも知れない。色白の伊東はいつも端然としていて、眼鏡にも隊服にも汚れひとつない。土方に対する際は酷薄そうな口元に、癖のような歪んだ笑みを浮かべる。−−気にくわない男だ。

土方はなんとなく、両手をポケットに突っ込んだ。

「あいつが、どうかしたか」

伊東はすぐには答えず、眼鏡を指で押し上げる素振りをした。この男にしては珍しく、焦らすというよりは言い淀んでいるようだった。

「……いい話じゃないんだが」

「前置きはいい」

「聞いた話では、坂田くんはこのところ頻繁に、とある船宿に出向いているそうだ。もとよりああいう場所は人の出入りが激しいが、坂田くんが贔屓にしている船宿の休み処には、過激な連中の影がチラチラしている。例えば、高杉某とかね」

土方はポケットから手と一緒に煙草の箱を出した。振り出して口にくわえ、火をつける。

「まあこのくらいのことは、君も先刻承知しているんだろう?……坂田くんに内偵がついているのは僕だって気づいているさ」

吐き出した煙が、生ぬるい夜の空気に溶けていくのを、土方は眺めた。

「坂田くんの前身は僕も知っているし、君の危惧ももっともだと思う。実際、あの船宿に出入りしているというだけで、坂田くんは、黒とされてもしかたがないだろう。君がどこまで内々に済ませようとしているかは知らんし、そこに口を挟む気はない。僕の役割じゃないからね」

「……要点を」

伊東がため息をついた。

「実はね、ある人から連絡があった。白夜叉をあまり高杉に近づけないよう手を打て、とね。なんだか本末転倒な警告で僕も笑ってしまったが、要は、彼らも現時点で大将の暴走を望んじゃいないし、坂田くんをきっかけにして真選組が介入するような事態を招きたくないんだろう」

「……つなぎをつけてきたのは高杉の手の者か」

「ああ。僕は多少連中と付き合いがあるからね。睨まんでくれ、僕に後ろ暗いところはないよ」

伊東は軽く手を広げる身ぶりをし、いなすように言った。

一時期、高杉が伊東に接近していたことは、土方も知っている。真選組の政治的な活動を担っている伊東はある程度の裁量権を持ち、かつ組本体を離れる機会も多い。外部が接触しやすく、しばしば誘惑もある。芋侍だ成り上がりだと蔑みながら、つけ込んでおこぼれに預かろう、あるいは自分たちの利益のために利用しようと、てぐすね引いて狙っている輩は決して少なくないのだ。

幸いというべきか、高杉が近づいてきたのは真選組が他にも分裂や内紛の火種を抱えていた時期で、それだけに伊東はじっくり誘いに耳を傾ける暇もなく、−−これは土方の邪推ではなく、本人が悪びれずに口にしたことだ−−逮捕を見送るかわりに高杉たちと対立関係にある浪士組織の情報を受け取って手打ちにした。−−そう聞いている。

土方は正直、伊東が裏切って叛乱を起こしてもかまわないと思っている。少なくとも、そうなれば、嫌いな相手を討つ大義名分を得られる。ついでに隊内に残る不満分子を一掃できれば言うことはない。先般の内紛騒ぎを考えても、真選組はそろそろそういう時期にあるのだと割り切っていた。

−−だが、割り切れないものも存在する。

「君に任せるが、できることがあったら言ってくれたまえ。僕はできれば坂田くんを排したくはない。彼に関することなら協力は惜しまないつもりだ」

伊東はそう言って部屋に引き取った。土方はしばらく、煙草を吸いながら銀時の部屋の襖を睨んでいた。





高杉晋助。

その名前は、真選組の歴史に、深い傷と多くの血で刻印されている。鬼兵隊と称される私軍を率いる高杉は、普段は手の届かない京都に身を潜め、こちらが消耗したタイミングを狙ってテロや策謀を仕掛けてくる。京都での幕臣殺傷や、江戸では爆破テロ、それほど派手ではなくとも、一見無関係に見える事件事故が、手繰っていくと裏に高杉の影がちらつく、というような件まで含めて数えたら、手足の指全部でも足りるかどうか。しかも、やつのそれらの所業を、自分たちがすべて把握できているとはとても思えない。

−−高杉本人は最近は空を飛んでることが多いはずだが。

自室の座卓の前であぐらをかき、土方は古い書類入れをかき回した。今や鬼兵隊は春雨と協定を組んで、宇宙からこの地球を威嚇している。高杉が真選組に手を出そうとしたのも、どうやら春雨絡みの目くらましだったのだと今ならわかる。京都でも管轄外でややこしいことになるのに、宇宙となるともはやこちらは手も足も出ない。

−−と、白旗掲げると思ってんなら大間違いだぜ、高杉よ。

土方は火のついていない煙草の端を噛んだ。開国を機に宇宙へ飛び出し、貿易や冒険や研究に打ち込み、故郷に寄りつかない人間も増えたと聞くが、高杉はどうやら長いこと地面から浮いて生きられるたちではないらしく、折々地球に戻っているところを目撃されている。−−その気持ちはわからないではない。

書類をめくっていた手が止まった。「秘」の朱印を押された書類と一緒に、監察が隠し撮りした写真が挟んである。土蔵のような壁を背に、高杉は紫色の地の派手な着物をだらりと着付けて羽織を肩に引っかけ、片手には煙管を持ち、もう片方の手は懐から覗かせて立っている。高杉の特徴としてつとに有名な、左目から後頭部を覆う大げさな包帯のせいで表情はよくわからないが、口元が僅かに緩んでいるのは見える。彼は曖昧な微笑を浮かべて隣の人物になにか話しかけようとしているようだ。その人物の方が背が高いので、高杉の顔は斜めに傾ぎ、ひとつきりの目は細められている。隣の男は地味な揃いで商家の若旦那に化けているらしいが、目立つ髪はごまかしようがないし、本人も隠すつもりもないのだろう。堂々と腕組みをして壁にもたれ、撮られていることを承知しているかのようにこっちに目線を合わせて薄く笑っている。

銀時は−−俺の知らない顔をしている、とこの写真を見るたびに土方は思う。肩にも腕にも力の入っていない、柔らかく、そして少し疲れたような、年よりが昼寝をする猫を見るような目をしている。土方が思うに、人間はなにかを懐かしむ時、こんな目つきをするのだ。上の空で優しい目だ。

土方はライターを鳴らし、煙草にやっと火をつけた。くわえていたせいで吸いつきが悪く、苛々と続けざまに吸いこんだ。白い煙が写真に霞をかける。土方は書類を繰って、他の写真を見つけた。一見、流しの三味線ひきか、粋な夜鷹にでも見えるすらりとした女が、女装した銀時となにか話している。女は柳眉を立て、対する銀時は眠いようなうんざりしているような、気だるい顔だ。ふたりの背丈はあまり違わない。要するに謎の女も女装した男なのだ。まったく、最近の攘夷浪士とやらはどうなってんのかね、と土方は女装するとやたらに退廃的な色気の出る銀時のことは棚に上げて呟いた。これほど女装が上手けりゃ捕まらないわけだ。

桂小太郎。高杉と並ぶ大物だが、ここしばらくはおとなしい。かつて過激派だったのが穏健派に転んだとも言われる。市井に馴染み、市民に溶け込んで身を隠すうちに桂の心境に変化が生じたのではないかと見られるが、それでも支持者は順調に増やしているようだ。

高杉晋助、桂小太郎。

かつて、ふたりが既に末期的状況を呈していた攘夷戦争の混乱に颯爽とあらわれ、幾つかの重要な戦を勝ち、天人に憎まれながら畏れられ、だがやがて、彼らの力ではどうしようもない時代の終焉の混沌に沈んでいったことは、よく知られている。そしてそのふたりとそれぞれ写真に収まっている銀時は−−

「……白夜叉」

土方は口の端で呟き、長くなった灰を叩き落とした。

坂田銀時という名では、さほど人の記憶には残らなかったようだ。高杉や桂のように大将を務めたわけではなく、どうやら遊撃隊の位置にあったらしいし、書状や協定に名前を記す機会もなかったと思われる。

だが−−白夜叉という異名には今も、伝説的な力がまとわりついている。当時の記録、特に天人にとって不都合や不名誉をもたらす記録は開示されていないものが多く、いくら幕臣でも土方ごときには辿り着けないものばかりだが、それでもなんとかかき集めた資料や伝聞によれば、白夜叉はまるで、軍神の生まれ変わりかと思われるような存在である。誇張や装飾をできるだけ取り除いても、なお。

−−白夜叉は風のように戦場を駆けた。駆けたあとには天人の屍体の山が残され、その刀の一閃は目にもとまらず、ただ白い残像のみが焼きついた。

−−兵営ではおとなしくて、よく寝ていた。桂さんや高杉さんとは仲がよいようだったが、一般の兵にはあまり馴染まなかった。味方の中にも、畏れている者も多かったから、遠慮していたのかも知れぬ。……だが、あの、なんといったか、そう、坂本さんは親しくしていた。いやあ、あの人は誰にでも気さくだったから。

−−白夜叉の強さは人間のそれとはとても思われず。風貌は銀の髪に赤き瞳を持ち、異国の血を引く者か、あるいは天人が化けているのかも知れぬとまことしやかに噂する者もあり。しかしながら桂、高杉など、大将格が白夜叉と近しくしており、誰も表立っては怪しまず。

−−白夜叉がいなくなる少し前に、ちょっと変な噂があったんは覚えとる。……いやまあ、ああいう時にああいうところにいたんだから、そういうものかも知れんけど。……白夜叉が珍しく誰かと大声でやりあっとって、ちょっと心配したんだけども、年よった兵が、あれぁ犬も食わん痴話喧嘩だって言って笑っとった。相手は知らん。けど、仲ようしとったのは大将連中だったから、なんとなく、なぁ。

−−本日、は−弐地点より進軍し、山越えの途上、奇襲にて後方隊ひとつが壊滅せしめられ、物資を奪われる。指揮を執るが白夜叉との一報に、兵どもの動揺激しく、失態を晒した由、追って隊長を処断し、綱紀粛正を図る所存である。

土方はため息をつき、疲れた眉間を押さえた。畳に仰向けに倒れ、やや乱暴に書類挟みを閉じたのだが、そのせいで、また別の写真が一枚、ふわりとはみ出した。土方は手にとり、眺めた。

それは監察が撮ったものではない。誰が撮ったか土方は知らないが、いつ頃撮られたものかは言える。銀時は古びた長着に前掛けを着け、脇に桶を抱えて、歩き出そうとしながら誰かに笑いかけていた。昼の光に目を細めている。写りこんだ緑の褪せた色合いから、季節は秋と思われた。銀時が笑いかけている相手も、体の半分くらいを写真に収められている。黒い着物の袖が風になびいている。−−この写真が回りまわって手もとに届いた時、土方はそれが撮られた位置をぼんやり推理した。……裏向かいの家には納屋があった。粗末な竹垣も。納屋に隠れていて、銀時があらわれたところで生け垣の隙間から狙えば、ちょうどこの角度と距離で撮影できるのではないか。

それは武州の、近藤の道場にいる銀時をとらえた、いわくありげな一枚だった。土方は銀時の屈託なさげな笑顔を眺め、それから、切り取られた自分を眺めた。たぶんこの時自分も笑っていたんだろうな、と思うと、どこかうら寂しい気持ちに襲われ、写真の端を掴む指先に力が籠った。

−−逸話や武勇伝なんぞ、知ったこっちゃねぇ。だがきっと、俺は銀時のことを、あいつのほんとうのことを、なにも知らねぇ。それが−−

「むかつくんだよ」

土方は言い、目を閉じた。












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