梅雨も明けましたね、という誰かの言葉に、上の空で相槌をうった。しばらくして、自分がらしくもなくぼんやり空を仰いでいたから、隊士の誰かが気にして声をかけたのだろうと気づいた。土方は舌打ちしてパトカーの屋根から手を離し、煙草をくわえて火をつけた。見上げた空はまるでこの世には何の憂いもないとでも言うように青く高く、平和なかたちの雲を浮かべており、自分が見ていいものではないような気さえした。

「潮の匂いがしますねぇ」

ぶらぶら近づいてきた総悟が、ポケットに手を突っ込んだまま、あさっての方を眺めて、言った。そうか?と反射的に返事をした。

「ああ、土方さんはヤニで鼻やられてっから」

総悟は馬鹿にしたように言い、首を傾げて土方をじろじろと見た。

「なんだ」

「血、拭いたらどうです。その顔でテレビに映るとうるさいですぜ、世間さまが、また」

言われて土方は頬に手をやり、指先についた誰のものとも分からぬ血を眺めた。先ほど刀を振るった際の、肉を断ち割る手応えを思い出す。

「……映らねぇようにするさ。それより、何人生きてる?」

「三人。うち一人はちょっと死にそうなんで、このまましょっぴけんのは二人。ったくびびってんじゃねぇよ土方、見境なく斬りやがって」

「てめぇもだろうが」

煙と共に吐き捨てると、総悟は整った顔をしかめた。彼もいいだけ暴れていたはずだが、要領よく返り血は避けたらしい。

「ちょっとイライラしてたんで」

「生理か」

「セクハラじじい」

疲れたようにパトカーに凭れた総悟の細い身体は、朝の太陽を受けて、いつもより少年めいて見える。

「……とっとと旦那の様子見てこいよ、土方」

総悟は巨大なパズルのように並んだコンテナ群を見ていた。海なんてしばらく見ていないな、と土方は思った。





着任当時と比べると、薬物や売春斡旋、盗品売買に手を出す浪士どもが爆発的に増えた。ほとんどヤクザと変わらない。そんな危ない商売をせざるを得ないほど資金繰りがおぼつかなくなったという意味では、真選組の締め付けが功を奏したと言えなくもない。だが敵がなりふり構わず凶悪な犯罪に手を染め、警察にも素直に降伏せず歯向かってくる傾向が強まったことは、新たな頭痛の種になっていた。

チンピラ警察、下品な成り上がり、野暮で粗暴な田舎侍、ろくでなしの集団。まあありとあらゆる悪口を言われてきた真選組だが、凶暴化の進む相手を力ずくでねじ伏せて、なにがなんでも結果を出さねばならないこっちの身にもなってくれ、と思わないではない。隊士を増やせども殉職率は下がらず、組織強化をしようにも横や斜め上から茶々が入り、なかなか思うようにはいかない。

今回のこれはどんな難癖をつけられることか。傷を拡げないためにはとっとと自供を取って組織を末端まで潰すことだ。だが銀時が怪我をしたと聞かされて、みな必要以上に頭に血が昇ったのは否めない。斬り過ぎ、殺し過ぎた、と自省しかけた気持ちをぐいと脇に押しやり、なんとかなると思い直した。

土方は、重い肩を上げ下げしながら、立ち入り禁止の帯を潜り、今日の現場となった倉庫のひとつへと足を踏み入れた。急に光が遮断され、目眩を起こしたような錯覚があった。そこらじゅうにひっくり返った積み荷や什器が散乱し、血だまりや脱げた草履や、割れた眼鏡や食い物の残骸までが混沌と散らばっている。隊士たちが現場写真を撮るために札を置き、動き回っている。邪魔をしないよう端を歩いた。

銀時は奥の暗がりで、伏せた酒箱に座っていた。伸ばした右腕に、ひとりの隊士がありあわせの包帯を巻いている。血の気のない横顔がぼんやりと虚空を見ていた。近づいた土方の影が落ちると、横顔は物憂げに目を上げた。左手で適当な敬礼をしてみせる。

「……お勤め、ご苦労さんでござんす」

「阿呆」

「名誉の負傷者に阿呆はないでしょうよ」

土方はくわえ煙草のまま、ふわふわと纏まりの悪い銀髪を睨んだ。睨まれた本人は恐れ入ることもなく平然とそっぽを向いたが、手当てをしている隊士は動揺し、目が合うと素早く逸らされた。

「土方くん顔が恐い恐い。みんなが凍りついちゃうからやめて」

「誰のせいだ」

噛みつくように言うと、銀時はすいませんと頭を下げる真似をした。土方は深呼吸した。

「……病院、行け」

「えー、いいよ、めんどくさい」

銀時は唇を尖らせ、包帯を巻き終えた隊士に軽い口調で礼を言った。汚れのついた長着の膝を払い、「あー疲れた」と呟いて腰を上げる。

「こんなの寝てりゃ治るって。皮一枚切っただけ」

「皮一枚でも、てめぇが怪我したとなるとあちこちに支障が出るんだ。自覚しろ」

土方は言った。銀時が顔をしかめるのを横目で見ながら、続けた。

「無駄な死人を出さねぇのもいいが、こっちが無駄な怪我をするんじゃ意味がねぇ」

銀時は不服そうに頬を膨らませたが、促すとおとなしく立った。目もとがくぼみ、薄くくまができている。恐らくこの数日ろくに寝ていないんだろう、と土方は思った。銀時は口に出さず顔にも出さないが、仕事に入るといつもこうだ。潜入や偵察という役割柄によるのだろう、と当初土方は考えたし、近藤にもそう報告したことがあったが、現在は考えを改めている。

銀時はたぶん、無意識に自分を罰しているのだ。

「送る。とりあえずあんまり人目につかねぇようにしてろ」

「……コンビニ寄ってお菓子買ってく」

「ガキか」

「あとジャンプー」

「今日は土曜だ」

「土方くん甘いね。ジャンプは時々土曜に出るのだよ」

煙に顔をしかめながら、土方はだらだらとついてくる銀時を横目で見た。いつも飄々としている。掴みどころがない。こんなに長いこと一緒にいるのに、たまに素顔がわからなくなる。−−こんなに近くて、こんなに遠い。

土方の視線に気づいた銀時がちょっと笑い、それから遠慮なく口を開けてあくびをしてみせた。

「……眠いねぇ」

「そうだな。お前がへた踏まなきゃ、昼に踏み込む予定だったからな」

「悪かったよ。……まさかさぁ、こんなあっさり身元がバレるとは思ってなくて」

−−応援願いますぅ!旦那の素性がバレましたぁ!応援願いますぅ!

山崎というやつは、切羽詰まっていても間抜けな声を出しやがる。先刻連絡を受けた時は、パトカーの無線機をダッシュボードに叩きつけたい衝動に駆られた。

「まあそろそろ、お前が内偵に入るのは限界だってことだ。そう言ったろ、こないだも。元々無理があんだよ、お前は目立つんだから」

「んー」

銀時は頭を掻いた。

「困ったねぇ、お仕事できなくなっちまう」

「しばらくおとなしく書類仕事でもしてみやがれ。幹部らしくよ」

「やなこった、っと」

憎まれ口を叩きながら銀時は軽くふらつき、土方は反射的に彼の腕を取った。わりぃわりぃ、と笑って、銀時はさりげなく体を離し、ほんとだ、俺、療養したほうがいいみてぇ、と照れ隠しのように続けた。





「旦那も相変わらずお優しいこって」

助手席に土方、後部座席に銀時を乗せた車を見送りながら、沖田は呟いた。山崎が聞き咎めて「なんか言いました?」と振り向いた。

「なんでもねぇ、とっとと片づけて帰ろうぜぃ」

「はぁ。しかしどうして旦那の身元バレたのかなぁ。面は絶対割れてないはずだったんだけどなぁ」

山崎はぶつぶつ言いながら、押収した証拠品を箱に詰め込み始めた。

「絶対なんてねぇってこったろ。事実バレてんだ」

そうなんですけどお、と山崎はかわいくもない口元を尖らせて言った。

「ここにいた連中は、元々田舎で暴れてたのが、やり過ぎていられなくなったんでこないだ江戸に出てきたばっかりっていうシロウトですよ。俺も色々喋りましたけど、言っちゃ悪いですがあんまり頭のいい奴らじゃなかったです。ただ馬鹿なだけに早速クスリに手ぇ出したからこっちも目をつけたわけで。そんな奴らだから、真選組のこと自体ろくすっぽ知りゃしなかったですよ。俺もそこそこ経験積んでますからそのあたりの感覚はわかりますって」

しゃがんで作業をしつつだらだらと喋り続ける山崎の背中を、沖田は一発蹴った。ぐえ、と潰れたカエルみたいな声を出した山崎は、「何するんですかひどいです沖田さん」と喚いた。

「話がなげぇ。要領を得ねぇ。結局、てめぇの内偵が浅かっただけだろうが」

沖田は事実、山崎の話が長いことに苛だってそう言っただけだったのだが、山崎は腰をさすりながら、真顔で首を傾げた。

「そう……なんですかねぇ」





車が動き出すと、銀時は座席に体を倒して寝てしまった。恐らく狸寝入りだろう、と思いながら土方は窓を半分ほど下ろし、新しい煙草に火をつけた。副長ふたりを乗せて運転手を務める隊士は緊張した面持ちでハンドルを握っており、車内は少し重たい沈黙に包まれていた。警戒していたマスコミは立ち入り禁止を敷いた埠頭の入口にチラホラうろついている程度で、車を覗きこまれることもなく済んだ。

局長の近藤が見たら、兄弟喧嘩を宥める親のように、どっちも拗ねてないで仲良くしなさい!と叱るかも知れない、と土方はぼんやり考える。そうしたらふたりとも、別に喧嘩なんてしてねぇよ、と答えるのだろう。ガキじゃあるまいし。

いつからぎくしゃくし始めたかと聞かれれば、ミツバが死んだことは間違いなくくっきりとしたきっかけだった。幸せを祈って突き放した彼女は、一年前、病で亡くなった。以来−−銀時と腹を割って話をした記憶はない。

いや、違うか。土方は煙を吐き出した。土曜の朝の道は空いていて、車は快調に転がっていく。寝不足の目に、朝日が染みた。

武州にいた頃を思い出す。くだらない冗談を言い合ってじゃれ、火鉢で手を炙りながらふたりでひそひそ話し込んで総悟にやっかまれ、スルメの切れはしを噛みながら安い酒を飲んで潰れた、もう擦りきれたはずのそれらの思い出が最近やけに鮮やかに甦り、記憶の底に押し込もうとしても、喉に刺さった小骨のように、引っ掛かって消えない。

そう。小骨だらけだ。銀時というやつは、丸呑みして腹に納めるには小骨が多すぎる。上っ面はなめらかで口当たりが良さそうなのに、よく味わおうと歯を立てたらとたんにこちらが傷だらけになる。

−−銀時が江戸に出る直前、自分が道場を空けた日、銀時とミツバの間に何があったのか、土方は今も知らない。どちらかの口をこじ開けるほどの勇気がなかったのだ。強いれば、銀時は口は閉ざしたまま消えるような気がしたし、ミツバを板挟みの立場に置いて苦しませることもできなかった。

だが俺は結局、棚上げにしただけだったのだろう。

土方は指先で燃える煙草をぼんやりと見つめた。疲れが溜まっているのはわかっていた。昨日今日の話ではない。真選組を立ち上げてからここに至るまで、脇目も振らずにただ道なき道を闇雲に進んできた、その数年の疲れが次第に蓄積して背骨が軋むような、そういう疲労感だった。−−だから振り返ってしまうのだ。進む途中に振り落としてしまったものや、戻れないとわかっている過去を。

「くそ」

腹の中で呟いたつもりが、思わず低く声に出ていたらしい。隣で、運転手が肩をビクッと上げたので、そうと気付いた。

「……お前に言ったんじゃない。気にすんな」

「はっ、失礼しました」

銀時が息を深く吸ったのを背中で聞いた。まったく、付き合いが長くなると便利だ、と土方は少し投げやりに思った。いま銀時は、言いたいことがあるなら言えよ、まあでもやっぱりめんどうだな、と声には出さずに言ってよこしたのだ。土方はただ煙草を吸い、知らん顔をした。





歌舞伎町の近くまで来た頃、気配もなく、不意にヘッドレストに圧力がかかり、柔らかい髪が首筋を撫でた。銀時の声がすぐそばでした。

「コンビニで停めて」

「……要るもんがあるなら、後で届けさせる。怪我人は寄り道しねぇで帰って寝ろ」

「やだ」

やだじゃねぇよ、と土方は呟き、横目で睨んだのだが、それは隊士には有効であっても、あいにく銀時は睨まれたくらいで怖じ気づいたりはしない。それどころか彼はへらへらと笑った。

「うちの奴らに新発売の夏限定スイーツ頼んで、間違わずに買って来られるわけないじゃん。ジャンプ頼んだのに赤マルジャンプ買って来るなんていうお母さんみたいな間違いすらするじゃん、お前がマガジン派なせいで」

「……たく、口の減らねぇ」

まるで口上でも述べるようにさらさらと喋るのは昔からだが、土方に対しては殊更だ。−−寡黙な鬼と饒舌な夜叉。松平が、二人の副長を紹介する時に、冗談混じりにそう言ったことがあった。

「あと電気代も払わねぇとやばいの、だから下ろして」

ため息が出た。

「おい、コンビニ寄ってやれ」

「えー、コンビニにパトカーで乗りつけるなんてやだよ。もうその辺で停めて。銀さんひとりで帰れるから。怪我人はちゃんと帰るから」

結局、銀時は歌舞伎町の入り口近くで車を降りた。じゃあなと言って、振り向きもせずに街並みに紛れていく白い後ろ姿を見ながら、土方は電話をかけた。短い通話を終えて目をやると、銀時の姿はもう見えなかった。煤けた街が、ぬるい朝日を受けて眠りにつく時間だった。





ドアを押して店内に入ると、うっすらと冷房が効いていた。やる気のない店員のいらっしゃいませを聞きながら、右手にある雑誌コーナーに歩み寄る。男がひとり、銀時のお目当てのジャンプを立ち読みしていた。

「よぉ」

「無事みてぇだな」

「お陰さまで、って言いたいとこだけど、さぁ」

「ああ、聞いた」

男はジャンプから目を上げてこちらを見た、−−のだろう。男の目は、長く厚い髪に覆われてほとんど見えない。

銀時は並んでジャンプを開いた。

「……どうなってるの、お前の情報」

「間違ってはいなかっただろうが。言っとくが俺はタレ込んでなんかいねぇし、さっき話を聞いてびっくりしたんだぜ。こりゃいよいよ、白夜叉殿もケツに火がついてきたんじゃねぇの」

男はケケケと笑った。ムカッとして、銀時は男の尻に膝蹴りを入れた。とたんに男は小さな悲鳴を上げ、うずくまった。

「ケツに火がついてんのはてめぇだろ、痔持ち忍者が」

男の名は服部全蔵というが、銀時はすぐにはその名前を思い出せなかった。これもいつものことだ。

名は思い出せなくても、男から得られる情報には価値がある。低い声で幾つかやり取りをした後、男はジャンプを買って店を出ていった。しばらく立ち読みを続けながら、銀時はぼんやりと考えを巡らせていた。右腕の傷がじわりと痛んだ。












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