絹糸のような柔らかく細い雨が、しとしととすべてのものを濡らしていた。

雨は夜半からずっと続いているが、寒くはない。季節は初夏、もうすぐこの梅雨も明ける頃合いだ。だが、真選組監察山崎退は、薄暗い空を見て少し感傷的になり、こんな日はせめて晴れたらよかったのに、と恨み言を呟いた。

「山崎様」

寺の小男にそっと声をかけられて我にかえり、振り返った。板張りの廊下は、坊主の頭と同じくらいつるつるに磨き上げられ、へたをすると滑りそうだ。

「どうも、お世話になりまして」

「いえいえこちらこそ、またいやな雨で」

お互い頭を下げあってから、事務的な打ち合わせをいくつかした。その間も、読経の声が低く朗々と聞こえていた。

「では、よろしくお願いします」

「承りました」

また頭を下げあい、小男と別れて、山崎は一度靴を履き、傘をさして外に出た。帰りの車の手配を確かめに出たのである。当初の予定よりいくぶん列席者が増え、このあとの会食に参加する幹部らの数も含め、山崎は細々と調整に追われていた。

寺の庭にはお決まりの草木がきちんと手入れされて、雨に打たれている。その中に溶け込むように、黒い人影がひとつあった。用を済ませて本堂に戻ろうとした足をとめ、山崎は目を細めた。

「……旦那?」

木の陰から本堂を眺めていたのは、真選組副長、坂田銀時だった。列席する予定ではなかったはずだ。ともかく山崎は、この一風変わった上司がきっちりと隊服を着ているところを、たぶん初めて見た。堅苦しくボタンを上までとめ、首のスカーフも端整に結ばれている。片手に黒の傘を持ち、彼は静かに立っていた。山崎はためらった。自分が気づいたことはまだ気づかれていない。足を忍ばせて立ち去ろうかと思った。だがたぶん旦那はすぐに気づく。

「旦那、どうなさったんです」

山崎は結局、わざと足音を立てて砂利を踏み、声をかけた。振り向いた坂田の顔はいつも通り少し眠たそうで、目もとが緩んでいた。

「ジミー、なにしてんの」

懐っこく笑いながら山崎をそう呼ぶのも、いつものことだ。

「旦那こそ。お越しになる予定じゃなかったですよね?」

「うん、ちょっと近くまで来たもんだから」

わかりやすい嘘だった。山崎は頷いた。この人はその気になればいくらでもわかりにくい嘘をつくから、とりあえず安心した。

「そうですか。だったら、どうぞお堂に」

「いや」首を振ると、銀色の髪からわずかに水滴が散った。「もう行くから」

そして彼は、穏やかな表情で山崎を顧みた。

「色々大変だったな、ジミー。あれだぞ、精進落としのご馳走ちゃんと食ってこいよ。余ったら折り詰めにして貰って、俺にちょうだい」

飄々と言う上司の顔を観察したが、もちろん、彼の腹の中などわからなかった。これもいつものことだ。

「じゃあな」

山崎は軒先まで戻った。散歩のような足どりで境内を歩いていく坂田の背中を見送っていると、いきなり尻に激痛が走った。

「!!な、なにするんですっ沖田隊長」

山崎は唐突な攻撃に涙目になり、背後から忍び寄って部下の尻に傘の先を突き刺した別の上司に抗議したが、当の上司は濡れるのもかまわず、山崎を通り越して遠くを見ていた。石段に差し掛かったのか、ちょうど黒い傘が視界から消えるところだった。

「あれ、旦那?」

「はあ。近くまで来たなんて言って、しばらくおられたみたいで」

「ふうん。……旦那もひねくれてんなぁ」

一番隊隊長沖田総悟は鼻で笑い、おもむろにばさりと傘を開いた。退出してきた隊士たちで、ふたりの背後が少しずつざわざわとし始めていた。

「まあ、ひねくれてんのはもうひとりいるなぁ。ったく、もう身内でも喪が明けたっつうのによ」

「は、はあ」

「あいつら、ガキよりたちがわりぃや。なぁ山崎」

「はあ……」

ちょうど隣をもうひとりの副長が通り過ぎ、その瞬間沖田がわざとらしく声を高めて当て擦ったので、山崎にも、沖田の嫌みの矛先が知れた。

副長土方十四郎は−−さすがに今日はくわえ煙草ではなかったが、不敵で不機嫌そうな横顔をぴくりとも動かさず、こちらに一瞥もくれずに車の方へ歩いていった。

「けっ」

沖田は子供っぽく傘を回した。

「いくつになっても男はガキで困るなぁ、山崎」

「……隊長も男ですけどね。ほら、車待ってますからそろそろ」

「うるせぇ」

今度は山崎のふくらはぎを勢いよく蹴りながら、沖田は悪態をついた。山崎は苦笑いして見送った。今日は沖田の姉の一周忌の法要だ。多少傍若無人に振る舞われてもしかたないと甘い気持ちでいるが、思い返せば、沖田は常に傍若無人なのだった。





武装警察真選組は局長近藤勲以下、あまり厳格ではないがきちんとしたピラミッド型の階級をつくって人員を配置している。

近藤の下にふたりの副長、組織内では副長と同格だが公の地位は少し下げて参謀がおり、隊長がおり、隊士が配属される。事務方、勘定方は地位と給料で劣るが、立場は意外に強い。もっとも、隊士たちの宿舎である真選組屯所においては、食堂のおばちゃんたちこそが一番の権力者だという噂もあり、これはだいたい事実である。

ピラミッドに則って言うならば、沖田は隊長であるから、副長たる土方に揶揄や嫌みを飛ばせる立場ではないはずだが、沖田は年少のため隊長格に置かれているのであり、実質は最高幹部のひとりなのである。局長の近藤、副長のふたり、そして沖田。彼らは真選組の成立に初めから関わっており、元々同じ道場の出であった。

局長の近藤は豪放磊落かつ情に厚い人柄で、隊士たちを愛し、また愛されている。酔うとすぐ裸になるとか、とある腕っぷしの強いキャバ嬢に入れあげてつきまとい、おかげで生傷が絶えないとか、欠点もないわけではないが、近藤がどっしりと構えているという安心感が、隊士たちをまとめるひとつの力になっていた。

ふたりの副長のうち土方は戦術に長け、また武装集団の象徴とも言うべき存在であり、現場指揮官として優秀だった。「優秀な土方さんに任せとけば安心でさぁ」と言って、沖田はどんどん仕事を押しつけている。実際、現場にいない時の土方はほぼ自室で書類仕事に追われており、隊士たちが「副長」という呼称を用いるのはたいてい土方に対してである。沖田は要領のいいサボり魔で、我が儘でサド。これはもう、間違いなくサド。ただし剣の腕は恐らく隊随一を誇り、いざという時、近藤には絶対忠誠である。だがサド。

新参の隊士でも、すぐにこれくらいの情報は得られるだろう。山崎もそうだった。問題は、もうひとりの副長だ。一般の隊士には、存在を知らない者さえ珍しくないという。

特に秘密にされているというわけではない。ただ、屯所にいないのである。彼はよそで情報収集をし、じかに現場に行き、ねぐらに帰る。ふだんはめったに隊服も着ない。隊士には知られていなくても街ではそこそこ顔が売れている。−−遊び人として。





法要の翌日、山崎は私服で歌舞伎町を訪れた。昼間は静かで白けているが、夜になるとぎらぎらとネオンの海が広がる、国いちばんの歓楽街である。

街の片隅、袋小路に突き当たる路地にひしめいた建物のひとつに、階下がスナック、二階に「万事屋銀ちゃん」と大書された看板を掲げたおかしな取り合わせの木造屋がある。山崎は横手の階段をのぼり、「万事屋銀ちゃん」の玄関の呼び鈴を鳴らした。応答はなかった。試しに引き戸を引くと開いている。山崎はため息をつき、中に入った。下駄箱があり、台所で炒めものでもしたらしい匂いがする。ごく普通の民家としか思えない。居間に入ると、向かい合って置かれた固いソファのひとつに、男がひとり、仰向けにひっくり返って寝ていた。顔に伏せた少年週刊誌の下から、銀色の柔らかそうな髪が見えた。隊服ではなく、いつもの、黒の上下に着流しを巻きつけて右袖を抜いたなりで、愛用の木刀は適当に立て掛けられ、テーブルには、いちご牛乳の紙パックが出しっぱなしになっている。

「旦那ー」

山崎は台所に向かいながら声をかけた。

「昼ですよ、起きてくださいよー」

雑誌が床に落ちた音がした。

「ジミー?」

「はい、勝手に上がりましたよ。旦那、戸締りしないから」

「……俺が彼女連れ込んでるかもとか、ちょっとムラムラしてあれこれしちゃってるんじゃないかとか、そういう配慮は」

「しませんでした、すみません」

「あ、そう……」

くすくす笑う声がした。

「今日は晴れたねぇ」

「ええ、いい天気ですよ。おみやげ持ってきましたから、いまお茶いれますね」

今度はうーんというような唸り声が聞こえた。伸びをしているらしい。山崎がお茶を持っていっても、まだ目をしょぼつかせてぼんやりしていた。

「これ、仕出し屋さんに頼んでつくって貰いました。食べてください」

紙袋から折り詰めを出すと、坂田はようやく目が覚めたような顔になったが、いきなりその顔をしかめた。

「まさか昨日の」

「違います、今朝つくらせました」

「……わざわざすいませんね」

坂田は髪をかき回しながらちょっと笑った。





「お前は昨日ご馳走にありつけたの」

「ええ、まあ。会場で食べる暇はなかったんで、やっぱり折にしてもらって、夜に食いました」

「忙しかったんだねぇ」

山崎がいれた茶を、坂田はゆっくり啜った。さすがジミー、茶ぁいれんのうまいねぇ、と言いながら、折り詰めに箸を伸ばす。真っ先に、玉子焼きを割って口に入れ、お、甘い、と嬉しそうにした。

「相変わらずいいもん食ってんなー、上の連中は」

「旦那もその『上』だと思うんですけどね」

「そうだっけ」

とぼけた返事をして、坂田は今度は煮物に箸をつけ、絹さやをパリパリと噛んだ。山崎はその音がやむまで待った。

「旦那」

「んー」

「沖田さんが言ってましたよ、ひねくれ者って」

椎茸をつまんで口に放り込み、「染みてんな」と味の感想らしきものを述べた坂田は、ちょっと肩を竦めただけだった。山崎は食い下がった。

「もう身内でも喪は明けたのにって。どういう意味ですか」

「さあ」

坂田は首を傾げた。箸の尻で頭を掻き、彩りよく区分けされたお菜に目移りしているふうに視線をゆらゆらさせているが、山崎にも、そこそここの変人と付き合ってきた自負がある。彼が返事を迷っているのはわかる。

「土方さんがね」

「うん」

眠そうな目が、一瞬山崎を見て、また折り詰めに戻る。

「偉いさんに持ちかけられたお見合い、断ったんですけど」

「前にもあったねぇ、そんなん」

「ありましたね。……とにかく、土方さん断ったんですけど、その時、俺に持ってくるくらいなら坂田に見合いさせたらどうだ、って」

「えー」

坂田は迷惑そうに声をあげ、箸で里芋をぐさりと刺した。

「よけいなお世話」

「はあ、そうでしょうけど。ただ土方さんがおっしゃるには、旦那は、重石がないとそのうちふらっといなくなるか道端で野垂れ死ぬか、どっちかだろって」

里芋を咀嚼する頬の動きが止まり、すぐに再開した。飲み込んで、代わりのようにため息をついて、坂田は言った。

「別に嫁さん貰わなくたって、俺は十分身重ですよ、違ぇ、そんなに身軽じゃねぇですよって言いたかったの。んな目をでっかくすんな、そりゃこんなご時世ですけど、今のとこご懐妊はしてません」

「びっくりしました」

山崎は紙袋に手を入れ、弁当よりは小さな箱を出した。

「これ水饅頭です。冷やしときますね」

「お、気がきくね。さすが」

「旦那」

箱を膝に載せ、山崎は坂田を見つめた。甘いものに目がない上司は、箱から山崎へとしかたなさそうに視線を上げた。

「なに」

「本当ですね?」

「なにが」

「ふらっといなくなったりしませんね?」

坂田は瞬きし、それから箸を置いて湯のみに手を伸ばした。色白の肌に薄い湯気が当たり、銀髪が陽光を吸って光っていた。

「ふらっと消えるのもね」

「……はい」

「それはそれで気合いと体力が要るのよ。俺にはちっとめんどくさ過ぎる」

「……そうですか」

「そうです」

お茶おかわり、と、坂田は小さく笑った。












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