何が起こったのか、ミツバはすぐにはわからなかった。男が何か言い、刀の鞘を払った次の瞬間、まるで飛ぶように土間に下りた銀時に突き飛ばされて、ミツバは声もあげられずに水場の暗がりに倒れ、目をつぶってしまった。旋風がどっと彼女の脇を駆け抜け、開いていた勝手口から飛び出していった。庭から、男の、低く尾を引く雄叫びが聞こえた。

ミツバは夢中で立ち上がり、引き戸にしがみついた。激しい雨の降る真っ暗な庭で、それでも、男の振るう白刃が流れ星のように空を切るのが見えた。水溜まりの上を飛びすさって男の攻撃を紙一重で躱した銀時が、今度は素早く男の懐に入って刀を奪おうとしながら、もう一方の手で男の顎を殴りつけた。ふたりが泥を踏み、跳ねあげる水音に、雷鳴が重なる。銀時の方が上背はあったが、男はがっしりとして力が強そうに見えた。だが無防備な顎に拳を叩きこまれてのけ反ったところを、さらに腹を蹴りあげられてふらついた。ふらつきながら卑しげな笑みを浮かべて、男は銀時に顔を近づけて何か言い、顔色を変えた銀時が鬼の形相で咆哮し、気がついた時には、男の刀は銀時の手にあった。

銀さん、とミツバは叫んだ。銀時の背がわずかにたじろいだような気もしたが、何もかも一瞬のことだった。わっと声をあげながらやみくもに掴みかかろうとした男に、銀時は流れるような動きで刀を振り上げ、振り下ろした。銀時の髪が稲光に白く輝いた。ミツバは口に手を押し当てて悲鳴を飲みこもうとしたが、殺しきれなかった声が空気を震わせた。だがそれも、すぐに落雷と豪雨の轟音にかき消された。





これまでミツバは弟とふたり、ずっとつましく静かに暮らしてきた。昔から丈夫なたちではなく、季節の変わり目にはいやな咳が続き、微熱や倦怠感などは、彼女にとっては特に意識しないほどの日常茶飯事だった。親は家屋敷とあまり土の良くない小さな畑をふたりに遺してくれたが、ろくに耕すこともできず、仕立て物や農家の半端仕事の手伝いで、かろうじてふたりの口を養ってきた。

それでも、ここでの暮らしはおおかた凪いでいた。おかしな贅沢をしなければ、ふたりでなんとかやってゆけたし、なにかで困った時には、世話を焼いてくれる人が必ずいた。弟の育てかたにはいっときずいぶん悩んだが、弟が近藤の道場に通い始めてからは、「やっぱり男の子には男親がいないと」という引け目はほとんどなくなった。感謝してもしきれない。

そして、土方と出会った。

野良犬のように馴れなくて、番犬のように忠実で、相手に合わせて獰猛にも穏健にもなれる、ミツバにとっては得がたい友人だった。やがてその気持ちが密やかな恋慕に変わっていく時間を、ミツバは大切に育ててきた。あまり長い会話を交わしたことはない。ただ、彼といると静かに凪いだ感情が緩やかに温度を上げ、黙っていてもいつの間にかミツバは微笑していた。この人がとなりにいてくれたならきっと、この人の強さを分けて貰いながら歩いていける。代わりに私はこの人が寒がっている時に暖めてあげられる。それはミツバの希望の灯だった。

「、……ミツバちゃん」

ミツバは肩を震わせ、まばたきした。何度か呼ばれていたらしい。やっと膝くらいの深さに達した穴の底で、銀時が、鋤を手にこちらを見上げていた。

「……ごめんなさい」

囁いて、提灯を持ち直す。雨はいくらか小止みになっていたが、足下はぬかるみ、傘からはみ出した背中がひどく冷たかった。でも銀時はもっとずっと冷えきっているのだろう、とミツバは思った。

「……帰ってなよ、ミツバちゃん。真っ青だ」

銀時は鋤を黒土に突き立てたまま、とても穏やかに言った。彼はもう何度もそう言った。そしてミツバはまた首を振った。

「ここにいるわ」

「よくねぇよ」銀時は俯き、ひと掻き土を掘り返した。

「これは俺がひとりでやったことだ。ミツバちゃんは早く忘れなきゃ。できないだろうけど、忘れて欲しいんだ、ほんとに」

ミツバは、ずぶ濡れで泥土に汚れた銀時を見た。それから、穴の傍らに横たえられた、筵をかぶせたものを見た。怖くはなかった。濃い土の匂いで目眩がした。

「銀さん」

「なに」

さく、さく、と土を掘る音。頭上の枯れかけた葉を、雨が叩く音。じりじりと蝋燭の油が燃える音。

「……銀さん、いなくなっちゃ、だめよ」

言った途端、雨に混じって、涙がぽろりと頬を滑った。銀時の横顔が少し緩んだように見えた。

「銀さん」

「ん」

「銀さん、お願い」

銀時は草履の裏で土を均し、鋤を置いて、ミツバを見つめた。

「いなくなっちゃ、だめかなぁ」

頼りないため息のような声が聞こえた。彼はよいしょ、と穴から上がり、ミツバと向かい合う形になった。ミツバは銀時の目を捉え、見つめて頷いた。

「だめよ」

「……」

「わたし、私ね」

「ん?」

銀時は雨で手を洗うようなしぐさをしていた。彼の目は暗かった。洗っても洗ってもきっと洗いきれないように感じるだろう、とミツバは思った。

「私ね、子供の頃、しばらく療養所に入っていたことがあったの」

「うん」

銀時は優しく頷き、ミツバを雨に当たりにくい木陰へと導いた。

「疲れただろうけど傘しっかり持って。もう、明かりはなくてもだいじょうぶだから」

歩き慣れたはずの裏山はこんなに静かで不気味だったかしら、とミツバは思った。

「私、ほんとに子供だったから、もう死ぬんだって思いこんで、怖くて、寂しくて、心を開けなくて、厄介な患者だったと思うわ」

銀時がちょっと微笑んだのが見えた。

「同じ病気で入っていた子はたくさんいて、でも、良くなると親が迎えにきて家に帰るの。私、いつも羨んでた。羨むだけじゃなく、また悪くなって戻ってきたらいいのに、私は死ぬんだからみんなも死ねばいいんだって、ひどいことばかり考えてた」

銀時が震える息を吸い込んだ。

「人間って誰でもそういうものだと思うのよ。恨んだり恨まれたり、おなかの中で憎しみや悲しみがいつも消えなくて、誰かひとりが悪いわけじゃなくていつも」

息が切れて言葉がとぎれた。銀時の手が伸ばされて、背中を擦られた。ミツバは息を吸い込んだ。銀時からは土と汗と、ミツバの知らない匂いがした。

「いい女だなぁ、ミツバちゃんは」

銀時は言った。ミツバは泣きながらそれを聞いた。





穴を掘り、男の亡骸を埋めた。丁寧に土をかぶせ、動物に荒らされないよう地面を固めた。ミツバは最後までついていてくれた。

−−あれだけおおぜい殺しても、女がいればやることはやるか。英雄色を好むとは言うが、羨ましいねぇ。

あの男は下卑た口つきでそう囁いた。挑発しようとしての物言いだとわかっていても、頭に血がのぼった。

−−逆だ、逆。

均した土を踏みしめながら、銀時は苦笑し、足の下の男に向かって呟いた。戦場から離れてこのかた、ほとんど欲望は感じなかった。からだから熱が奪われたように。自分の年齢を考えれば普通ではないことだと、うっすらと恐れはじめていた。

−−でも、そうだな。そんなもん、ない方がいいのかも知れねぇな。俺はもう、少し死んだ身なんだろう、たぶん。





帰りは銀時が提灯を持ち、足元を照らしてくれた。雨はほとんど止んでいたが、雲は厚く、月は見えなかった。ぐったりと疲れて、ふたりともほぼ無言で緩い山道を下った。

ミツバは、気遣ってくれながら少し先を行く銀時の背中を見上げた。厳しく己を責めるように、その背中はこわばっていた。ふと、土方もやがてこんな後ろ姿を見せるようになるのだろうか、と思った。その想像は、胸のあたりにじんわりとした痛みを生んだ。

平らかで凡庸で安全な、そんな幸せな時期はいままさに終わりつつあるのかも知れない、とミツバは初めて自覚した。そしてなぜか、自分はそれほど長く生きられないのではないか、という諦めのような予感がした。どこかで鳥の羽ばたく音がして、銀時が差し出す提灯の灯が揺れた。





湯殿の引き戸がいきなり開いた。銀時は湯に浸かって目を閉じていたが、驚いてびくりとし、湯面が小さく波立った。

「なんだよ、声くらいかけなさいよ」

薄い湯煙の向こうに、肩を怒らせた土方が立っていた。銀時は顔をこすった。

「お前、帰ってたの。もっと遅くなると思って、お風呂いただいちゃったよ。悪いな、ちょっと待ってて」

手拭いを首に回し、湯船を跨いですのこに足を下ろした途端、ぐいと腕をとられてよろめいた。抗議の声も出せず、湿った壁に押しつけられた。

「な、」

「お前、ミツバに何かしたか」

「……っ、」

背を打って咳き込んだ。土方は肩を大きく上下させ、目をぎらつかせて銀時を睨んでいた。

「帰る前に顔出したら、あいつ熱出して寝込んでてよ。うわごとみてぇにお前の名前呼んでやがった。総悟に聞いたら、お前夕べの夜中、いなかったらしいな。どこに行ってた」

「……」

銀時は肩を掴む土方の手をそっと押しやった。冷たい手だった。走ってきたのだろう、頬が赤い。丸一日経っても、身体の感覚がおかしかった。土方に触れてやっと、触覚が戻ってきたような気がした。

「……お前が心配してるようなことは、何もねぇよ」

土方の目を見て、言った。素っ裸でなんて間抜けなことになってるんだろう、と、ちらりと思った。

「ちゃんと説明しろ」

「……」

濡れた体から水滴が落ち、肌が冷えた。土方の鋭い目に、皮膚が食い破られるようだった。

「そういうことじゃ、ないから」

銀時は意味もなく繰り返した。

「何があった」

「お前が心配してるようなことはねぇって」

「……嘘がへただな」

歯ぎしりするように、土方は言った。

「嘘じゃねぇ」

「銀時」

「嘘じゃねぇから」

嘘を言いたくなくて、それしか言えなかった。銀時は一度目をつぶり、開いた。土方の息づかいがすぐそばで聞こえる。二つの瞳が、怒りと焦燥に燃えている。銀時はゆっくりと首を横に振った。

「ミツバちゃんに迷惑かけたのは事実だけど、手ぇ出したりはしてねぇ。……なあ、俺がお前の彼女にそんなこと、するわけないだろ」

声が掠れて、少し震えた。自分の無力さと狡さに、吐き気がした。夕べの男が流した血の匂いを感じた。あの血は−−ミツバの家の庭からは、もう洗い流されただろうか。−−雨でよかった。

銀時はゆっくりと膝をついた。土方の腰にしがみつくようにして、長着の上からでもわかる、固い腿に顔を押しつけた。

「俺は、」

−−どうしたらいい?

「……銀時?」

とまどうような声を聞いた。銀時は土方の裾に手を入れ、下帯を指で探った。自分の心は雨に凍ったように冷えたまま、湯上がりの肌だけがまだ仄かに熱っぽかった。引っ張りだした性器に舌を這わせながら、まぶたの裏を絶望と希望がめまぐるしく交錯するのを、銀時は感じた。

−−ごめんな。ほんとに、ごめんな。





起きられるようになった次の日の夕方、ミツバは道場を訪ねた。この時間なら、銀時は台所仕事でお勝手にいるはずだった。

だが勝手口を、門弟らしき若者が出入りしており、躊躇していると間もなく土方が桶を手に出てくるのが見えた。土方はミツバに気づくと、目に曖昧な笑みを浮かべた。

「出歩くなって言っただろ、風に当たったら障るぞ」

井戸端に桶を据え、歩いてきた。最近の土方は、急に老成したように見える。

「ごめんなさい」ミツバは軽く拳を握った。「お台所、今日は銀さんじゃないの?」

土方は目を伏せた。長い髪が風になびいた。あの雨で、秋はいっそう深まっていた。淡い夕日が世界を染めて、土方の影は長く、途中で折れ曲がって土壁に延びていた。

「あいつは−−江戸に行ってる。たぶんそのまま、向こうにいることになるんじゃねぇかな」

「……え?」

ミツバは喉に手を当てた。土方は眩しそうに、沈む日を眺めていた。

「松平さんに呼ばれて色々野暮用を片づけに行ったんだ。それが、やることはたくさんあるし、あいつもこのまま準備をしながら皆を待ちたいって言ってよこした。……お前によろしくってよ」

ミツバはあの夜の銀時を思った。優しくて孤独で、静かだった。江戸に、彼と笑い合ったりご飯を食べたりする誰かはいるのだろうか。

「寂しいわね」

やっとそれだけを口にした。土方が目を見開いた。大股で近づいてきた彼に抱きしめられた時も、ミツバは、寂しいという言葉の舌触りを、苦いものを食べた時のように感じていた。

















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