銀時がかまどに屈みこんで火の具合を見ていると、ばたばたと駆けてくる足音がした。最近ずいぶん足が強くなったらしくて、出会った頃のような軽く柔らかな音はさせていない。銀時は微笑した。
「お運び手伝いまさ、旦那」
声変わりがだいたい落ち着いて、総悟は濁りのないきれいな声で話すようになっていた。姿はまだひょろひょろとしているが、骨っぽい手足と丸い頬が不釣り合いなような年相応なようなで、しばしば周りの人間の微笑みを誘うのだ。
「わりぃね」
「今夜は楽しいからいいんでさあ。近藤さんが、旦那も早く来いって」
「俺けっこうつまみ食いしちゃって、腹ふくれちまってんのよ。気にしねぇでやりな」
総悟が差し出した盆に茄子の揚げ出しの鉢を載せながら、銀時は笑った。座敷からは、常より賑やかな声が聞こえてくる。早くも酔ったらしい近藤のひときわ大きな笑い声も聞こえた。秋の農作業が一段落し、自分たちに支度金も出たからと、近所の住人を何人か招いて労っているのだ。門弟たちの幾人かもそこに混じって、さっきひとりが酒を買い足しに走ったから、たぶんしばらく腰を据えて飲むのだろう。農民たちも酒は強い。
「沖田くん、うっかり舐めたりするなよ。いくらなんでも酒はまだ早い」
目元がうっすら赤らんでいるのを見とがめて銀時は言ったのだが、総悟は不敵に笑って、
「だいじょうぶでさぁ。ちいせぇ頃から年寄りのひざで晩酌に付き合うのが日課で」
などと嘯いた。
「しょうがねぇなぁ。もう夏じゃないんだから、腹出して寝るなよ。はい、これも」
香ばしく焼きあがった干物を平皿に重ねて、盆の端に置いた。へいへーいと適当な返事をして、総悟が土間からあがっていく。彼が鼻歌をうたっているのに気づき、銀時は苦笑した。土方は昨日から紹介を受けてある道場に泊まりがけで赴いており、近藤を独り占めできるとあって、総悟はすこぶる機嫌がよいのだ。泊まっていくつもりのようだから布団を出しておかなくてはならない、と銀時は鍋に水を張りながら思った。いくら体つきがしっかりしてきても総悟は風邪をひきやすいし、今日は今にも雨になりそうな雲行きだ。秋の雨は冷たい。明け方は冷えこむだろう。土方も、丹前でも背負って行くかと悩んでいた。
−−簡単な武者修行みてぇなつもりなんだが、一緒に行かねぇか。
土方がそう言って誘ってくれたのを、銀時は少し考えて断ったのだった。農家の手間仕事の予定もあるし、門弟に台所を預けたら惨事になりそうだし、と理由をつけて。それもそうだな、と土方は頷いたが、残念そうな顔もした。
−−考えてみたら、お前とまともに手合わせしたことねぇからよ。お互い、よそでなら本気だせるかも知れねぇって思ったんだけど、まあしょうがねぇな。
そっぽを向いて、ぼそぼそとそんなことを言った。またの機会にな、と答えながら、銀時も目を逸らした。
自分の腕がゆるやかに錆びていくのを、銀時は感じていた。単に剣を振るっていないからだけではない。ようやく心が戦場を離れ、忘れたがっていた。その心の動きに従いたい、と銀時は思ったのだ。木の葉が一枚一枚落ちるように自分からもいやな記憶がはがれ落ちて、春にはまっさらに芽吹いて新たな土に根を下ろせればいいと、そんなふうに願い始めていた。
「あ、やっぱり降ってきたか」
銀時は耳を澄まし、呟いた。座敷の騒ぎの中では聞こえなかったが、土間に戻ると、雨粒が土や木を叩く音が微かにしていた。下げてきた皿を水に漬けて、勝手口から庭に出た。雨が弱いうちに、裏の小屋から、明日の朝のぶんの焚き付けを運んでおこうと思ったのだ。
闇が深い。月を隠す黒い雲に覆われた夜空からぽつぽつと落ちてくる雨が、襟足から飛び込んできて、首をすくめて駆け足になりかけた時、ひらひらと闇を泳ぐようにこちらへ向かってくる影に気づいた。
「……?」
立ち止まり、目を凝らした。砂利道を、転びそうになりながら走ってくる。しだいに着物の柄が見えてきた。
「……ミツバ?」
銀時は驚いて声に出した。同時に駆け出し、生け垣がわりの小さな藪を飛び越して、銀さん、と喘ぎながらよろめいた彼女を抱きとめた。
「おい、どうした、傘も持たねぇで」
とっさに頭に浮かんだのは、座敷でひっくり返っているはずの総悟の身に、急病なり怪我なり、よくないことが起こって、姉が察して駆け付けたのではないかというようなおかしな考えだった。ミツバにはそんな、自分に対してではない必死さがあった。だが、銀時の腕にすがりながら、彼女は銀さん、銀さん、と繰り返した。彼女の髪と肩は濡れていて、細い指が銀時の腕に食い込んだ。
「しっかりしろ、おい」
軽く揺さぶりながら言うと、ミツバの色の薄い目が、焦点の合わないような感じでさまよい、銀時を認識してはっとまばたきをした。仰向いた蒼白な顔が、雨に叩かれている。
「どうした、何があった」
言いながら銀時は首を伸ばして、ミツバが駆けてきた方向を見た。暗い夜だが夜目は効く。追われていたわけではなさそうだ。
「とりあえず、入って、」
「銀さん」
銀時を遮ったミツバの声は、押し殺した悲鳴のようだった。
「白夜叉というのは、銀さんの、ことなの?」
自分のからだがびくりとすくんだのはミツバにも伝わっただろう、と思いながら、銀時は立ち尽くした。強い風が向こうから吹いてきて藪をざあっとざわめかせ、通り過ぎた。
−−隠れていてもいいことはありませんよ、銀時。
先生は穏やかにそう言って聞かせた。銀時は押し入れの中や納戸の隅、一度は縁の下に潜り込んだまま、その声を聞いた。
ちょっとしたいたずらや悪さをしてバツが悪くなると、銀時はそうして狭い暗い場所に隠れるくせがあったのだ。自分が悪いのはよくわかっているけれど、謝れば先生は許してくれるけれど、なんとなく恥ずかしい、素直になれない、困らせたい、そんな時、銀時は隠れることでその場をやり過ごそうとした。
−−できることなら、ずっとそうして、隠れて、息を潜めていたかったなぁ。
長じてから、そう思ったことが何度かあった。隠れて目をつぶってしまえば世界は消える。なかったことのように。しなかったことのように。
勝手口に立ててあった破れ傘をミツバに持たせて、ふたりで真っ暗な道を急いだ。道場にいろと言っても、ミツバは聞かなかったのだ。
−−秘密にしておいた方がいいんでしょう。近藤さんや総ちゃんと顔を合わせたら、内緒にできないもの。だいじょうぶ、だいじょうぶよ。
彼女はそう言った。青い顔をしているくせに、気丈に。
刈り入れの済んだ田地からは水が抜かれていたが、強まる雨によって、あちこちに新しい水溜まりができつつあった。空気中に泥と枯れ草の匂いがたちこめていた。昼間なら、忙しさの終わった田の眺めは広々とのどかなだけだが、夜は、どこまでがただの闇で、どこで突き当たりになるのかわからないような、いやな広がりだった。
ミツバの怯えるように傘の柄をきつく掴んだ手の甲に、何本も固く筋が浮き上がっているのが見えた。彼女は速く浅く呼吸していた。
「何か音がしたと思って裏に出てみたら、倒れていたの」
彼女は言った。
「見たことない人で……すぐわかったわ、浪士、って」
その男は血と土に汚れた戦仕度の姿で、帯刀していた。落ちのび、どれだけ長いこと山を迷ったのか、沖田家の裏山から降りてきて井戸の水を求めようとしたが、そこで倒れたらしい。
「このあたりに白夜叉がいるはずだって、言うの。噂で聞いた、白夜叉は生きているはずだ、会わせろって」
−−髪の白い、侍だ。共に戦った志士だ。俺はやつを探してここまで来た。言わなくてはならないことがある。
−−白夜叉を知らんか。鬼のように強く、仲間からも恐れられていた。まったく、あの白夜叉が戦を途中で戦場を離れるなど、信じられなかった。
うわごとのように喋る男は怪我をしていた。ミツバは男を家に上げてやって寝かせ、水を与えてから、銀時を呼びにきたのだ。
歩いているうちに雨は強くなり、足が泥を跳ねた。ミツバの草履の足が点々と汚れているのを銀時は見て、罪悪感を覚えた。
「銀さんは−−」
前を向いたまま、ミツバは小さな声で言った。
「やっぱりほんとに攘夷志士だったんですね。村のみんなもそう言っていたし、十四郎さんからも聞いていたけれど、わたしが知っている銀さんは……戦うひとには見えなくて」
「……」
「ましてや……そんな、名を知られたお侍だったなんて、」
「そんなんじゃない」
銀時は髪から落ちる雫を乱暴に拭った。ミツバが息を詰める気配を感じた。
「俺は−−ただ、逃げて、隠れたかっただけなんだ。強かったわけじゃない。怖かったから、臆病だったから、斬られる前に必死で斬っただけだ。……強くなんて、ねぇんだよ」
ミツバが傘を持ち上げて銀時の横顔をまじまじと見つめた。やがてほんの少し唇を緩めた。
「十四郎さんは違うことを言ってたわ」
遠くで雷が低く鳴った。
「銀さんは……あいつは、ひとに心配されるのがイヤで、いつもなんでもないって顔をしてばかりだって。あいつはきっと今までいつも仲間を庇ってきたんじゃないかって」
銀時は半歩先を行きかけていたが、思わず振り返ってミツバを見た。彼女はしごく真面目な表情で見返した。ややあって、銀時は目元を崩して締まりのない笑顔をつくった。
「……買いかぶり過ぎだよ」
銀時はへらへらと笑った。
「肩、濡れてるぜ、ミツバちゃん。急がねぇとな」
静まりかえった家で、男は、お勝手からあがってすぐの板の間に寝ていた。筵に敷布をかけただけの簡単な寝床だったが、怪我を押して山を歩き、疲れはてた体にはそれでも贅沢だったか、眠っているようだった。
銀時は少しのあいだ、男を観察した。頬が削げ、無精ヒゲに覆われている。眉や目尻の辺りに頑固そうな線があった。頭の中でヒゲを差し引いてみたりもしたが、見覚えのない顔だった。
「……おい」
離れたところから低くかけた声にぱっと反応した男は、目覚めた一瞬後には刀を掴んで体を反転させていた。垢じみた襟には血が滲み、戦袴の腿を布でぐるぐると縛って、そこも血の浮いた跡があった。
「待て、待てって!」
銀時は手を伸ばして男を落ち着かせようとした。男の動きがとまり、ぎらぎらと光る二つの目が、ぼんやりと点された明かりの下で大きく見開かれた。
「白……夜叉?」
「……もう、そんな名前じゃ呼ばれていないけどな」銀時は懐に手を入れた。「でもあんたの探し人は俺だろう。……あんたは」
刀をいつでも抜ける低い体勢のまま、男は銀時を睨みつけていた。やっぱり知らない顔だな、と思う。−−だが白夜叉の名は無駄に喧伝され過ぎたから、面識以前に耳にした者は多かっただろう。おまけにこの外見も無駄に目立つから、こちらは知らずとも相手はこちらを知っている、というのは、よくあった話だった。
「俺の名は」
歪んだ唇のすき間から、地を這うような声が漏れた。男は言葉を切り、やがて自嘲的に笑った。
「知る必要は、ないだろう」
「?」
男はぎくしゃくと首を振った。
「裏切り者」
銀時は体が強張るのを感じた。急にまわりの空気が湿ったように重くなった。土間で様子を窺っていたミツバが息を飲んだ。
「お前のために」
男はゆっくりと首を振り続けていた。
「お前のために俺の弟は死んだ!お前がいればきっと勝てると信じて死んだんだ!自分の命など惜しくないと弟は言った!なのに」
男の全身に震えが走るのがはっきりと目に見えた。銀時は強いてまばたきをした。
「お前は勝てなかった。であればせめて潔く腹を切るべきのところ、おめおめと生き延びている!俺はお前を許さん。生きているらしいと噂に聞いて、まさかそんなことはなかろうと半信半疑だったが、こうして会ったうえは、裏切った償いをしてもらう」
銀時は、思わず、微かに苦笑した。そう言われることもあるだろう、と戦友が預言した通りだった。
−−お前みてぇに変に名前が売れると、ただ生きてるだけで気に食わねぇっていうやつらも出てくるさ。わけもなく恨まれることもあるかも知れねぇが、そんなもん、鼻で笑っとけ。
「……笑えねぇよ」
銀時は息だけで呟いた。鼻の奥に血の匂いを感じた。
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