寝苦しいな、と唸りながらまぶたをこじ開けると、ひとすじの強い光が目を直撃した。カーテンの中心に微妙な隙間があって、そこから見事な五月晴れの陽射しが差し込んでいる。まだ覚醒しきっていない頭に咄嗟に浮かんだのは、つまらないことに、あまり性格のよろしくない某後輩の顔だった。ヤツなら、万年寝不足の先輩の目に光を当てるくらい、嬉々としてやりそうだ。
 弛緩していた四肢に力を入れてのろのろと起き上がり、あくびをしながら枕元の煙草に手を伸ばす。ふわぁ、と気の抜けた音と共に煙を吐いて、潰れた枕の下からスマートフォンを引っ張り出す。12時15分。布団に倒れ込んだのが確か7時少し過ぎだった。案の定、ろくに眠れていない。
 もっとも、今さら多少の寝不足くらいでどうこうということもない。仕事を気にせず8時間寝ていいよと言われたところで、たぶん無理だろう。
 二本目の煙草に火をつけて、ぼんやりと六畳の室内を眺める。数日着たきりだった背広の上下が抜け殻みたいに脱ぎ捨てられ、カッターシャツは布団の上に丸まっていた。覚えていないが、半分寝ながら脱いで、放るかどうかしたのだろう。靴下がその脇の畳に、萎れたような格好で伸びていた。
 ため息混じりに煙草を消した。窓を開け、布団を上げようとしたら、ライターを踏んで足を滑らせかけ、思わず悪態をついた。



 カップラーメンを啜ってから、洗濯機を二度回す間に掃除機をかけた。なかなか帰れないでいるうちに溜まったゴミをまとめ、ついでに冷蔵庫の中でいたんでしまったあれこれを始末したら、調味料と(主に業務用マヨネーズだ)、ビールと海苔くらいしか残らなかった。清々しい。
 メゾンでもハイツでもなく、「荘」が名についた築二十年の二階建てアパートは、ボロなりに快適だ。遅くなろうが帰らなかろうが誰も気にしないし、近所付き合いというややこしいものも存在しない。窓の柵に洗い物を干しておいても文句も言われない。勤務時間がやくざな商売にはありがたい。
 黙々と最低限の雑事をこなして、ふと顔をあげると、充電中のスマートフォンのライトが点滅している。短いメッセージが連続して入っていた。
━━今日、明けだろ? 来る?
━━やっぱ来なくていい。寝ろ。
 思わず笑った。ひと休みするかと煙草を咥えて、相手の顔を思い浮かべる。たぶんあの眠そうな目で、嵩の多い髪をかき回しながら、いやいや別に気ぃ遣ってるわけじゃないからね、と自分に言い訳しつつ、「寝ろ」と書いたにちがいない。
━━行く。いい加減ボトルも腐っちまうだろ。
 そう返信して、自販機の缶コーヒーを飲み干した。



 久しぶりに電源をオンにしたテレビは、おもしろくもないワイドショーを流している。主要国道がどこからどこまで渋滞中とか、サービスエリアが賑わっているとか。テーマパークが大混雑とか。困りながらも楽しそうな家族連れや、忙しいですと笑う従業員の白い歯や。どれも、なんだか遠い世界のできごとのようだとぼんやり思う。
 狙ったようにスマートフォンが震えた。
━━疲れてんだろ。無理して来なくていいよ。
 無理なんか、と返しかけてやめた。デリートキーを叩く指は軽かった。
━━溜まってんだけど。
 送信し、ワイドショーに目を戻す。最近人気のスイーツ。このお店では朝食も好評なんですよぉ。ああ、近頃よく聞きますね、スイートブレックファーストってやつでしょ?
 へえ。流行ってんのか、そんなの。
 返信。軽蔑したような顔をしたアニメキャラクターが、「はぁ?」と言っているスタンプ。
 また小さく笑って、テレビを消した。投げ出してあった文庫本の埃を払い、ページを繰った。午後はまだ半ばだ。



 いつもより人の少ない夕刻の駅前を歩いて、クリーニング店に背広を預け、コンビニで煙草を買った。仕事とは違う、スニーカーの足が軽い。風に乗って食べものの匂いが流れてくる。何を食おうか、歩きながら少し悩んだ。
 結局選んだのは、何度か行ったことのある定食屋だった。いらっしゃいと親父の塩辛い声に迎えられ、脚のがたつく椅子を引く。メニューを一瞥して、ほっけ定食にアジのたたきを追加し、ビールの小瓶を頼む。
 古めかしいテレビが野球中継を流している。お冷やを汲んで席に戻った時、カキインといい音がして、白球が弧を描いて飛んでいった。
「納豆、いけますか」
 膳を運んできた娘が聞いて、ちょっと驚く。人の良さそうな丸い顔いっぱいで笑って、娘は小鉢を置いた。
「梅納豆。今日はどうせお客さん入らないから。よかったらどうぞ」
 遠慮しようとして、気が変わった。礼を言うと娘は首を振った。髪を束ねたスカーフのしっぽが揺れて、テレビの中で歓声が上がった。



 飯を済ませて外に出ると、五月の夕はもう静かに暮れていた。駅前のコーヒーショップの煌々とした明かりが追いかけてくる。
「夜になると、ちょっと寒いね」
 そう言いながら、少女たちがすれ違っていく。半袖から伸びた細い腕をさすって、甘い香りのする髪をなびかせて歩き去る。
 彼女たちとは逆に、ゆっくりと暗い方に向かっていく。駅前通りから一本入っただけで、闇はぐっと濃くなる。くすんだ看板の火がぽつぽつと灯り、カビと生ゴミの混じったようなにおいがするが、不愉快なほどではない。ありふれた飲み屋街の、あまり景気の良くない光景だ。
 通い馴れた路地の奥、スナックお登勢の置き看板にも、ぼんやりした明かりがついていた。カラオケの防音のためにやけに重いドアを押すと、古い流行歌が流れてきた。
「ずいぶん懐かしいのやってんな」
 スツールに腰かけながら言うと、カウンターの中の男がひっそりと笑った。
「いらっしゃい」
 髪もシャツも白い男は、棚から丁寧にボトルを下ろす。まずはと灰皿を引き寄せると、その手元にさっきの納豆と良く似た小鉢が置かれた。
「暑かったからさ、冷奴」
「うん」
「ほい、ロック」
「うん」
「飯、なに食った」
 グラスの中で氷が光っている。俯いたが、頬が緩んだのはバレているだろうと思う。さっきまでひたすら遠いどこかのように見えていた世界のすべてが、急に生々しく暖かい手触りを持ってここにある。
「角の定食屋で、ほっけ」
「ああ。いいな」
 男は自分のためにイチゴ牛乳を注ぐ。その趣味はよくわからないが、まあこっちもマヨネーズを濫用している自覚はあるので、おあいこだ。
「ちゃんと寝たか?」
「五時間くらい」
「足りねぇな」
「そうでもねぇよ」
 男の器用な手はひらめくように動き、チーズや小さなトマトを切り分けていく。そういうところを見ていると妙に安らぐ気持ちになるんだと、言ったことはあっただろうか。
 フランスパンにチーズや何かを載せたつまみが出てきた。パンにはマヨネーズ。始めはマヨネーズに抵抗を示していた彼が折れてくれたのは、マスターと客の関係から少し進んでからだ。
 いま思い出しても頭を抱えて蹲りたくなるが、一線を踏み越えるには、やけくそに近い、かなりの勇気を要した。この店の、自分はこの席に座って、彼はやっぱりカウンターの内側に立って、ふたりともまるで、中学生あたりに戻ったようなぎこちない会話と、へたくそなサインのやり取りを繰り返して、最後は彼が確かこう言った。「もう認めようぜ。アンタ、俺を好きなんだ」
 開き直った口ぶりなのに、男の指先は微かに震えていた。それを、とてつもなく愛しいと思った。



「いつもの……あの、常連さん。今日は来ないな」
「長谷川さん? 来ないと思うよ。言っといたから」
 ん? と目を向けると、男はタオルで手を拭いながら微かに赤面した。唇がちょっと尖るのは、照れている証拠だ。
「今日は貸し切りですよ、お客さん」
 冷奴を切っていた箸が止まった。
「なんで」
「……なんでって」
 イチゴ牛乳のグラスをタン、と置いて、男はやにわに身を屈めた。カウンターの下からゴソゴソと何かの箱を取り出す。心臓がドキンとした。
「こないだ」箱を開けたとたん、スナックにはふさわしくない、甘い、どこか懐かしい匂いが漂った。「ゴリラと沖田くんが来てくれてさ。あと、なんか地味な人もいたかな。覚えてないけど」
 皿に載せ、てきぱきとパステルカラーのキャンドルを立てていく。ライターを取って火をつけていく。呆然と見下ろす、キラキラ光るフルーツ、生クリーム、真ん中にプレート。
 とうしろうくん、おたんじょうびおめでとう。
「こどもの日が誕生日だって言うから。でもおまえが言わないから、あんまりこういうの好きじゃないのかも、ってさんざん迷ったんだけどさ」
 ハッピバースデ、トゥユー。
 あまりやる気のなさそうな声でひと節歌って、男は、どうぞと言うようにてのひらを差し出した。
「ハイ」
 ハイってなんだよ、ハイって。
 ふつふつとお湯がまわるように、胸が温かくなる。苦しい。どうしたらいいのかわからない。
 促されるまま、息を吸って止め、ふうっと強く火を吹き消した。やっぱりやる気のない拍手が降ってきて、「ハイおめでとー」と抑揚のない声が言った。
「おまわりさん、いつもご苦労様です。お誕生日おめでとうございます。マヨネーズと煙草は控えめに、睡眠時間は大切に。あ、あと髪も大切に」
「ハゲねぇから安心しろ天パ」
 かろうじて言い返したセリフは、軽口らしく聞こえたかどうか、自信はない。くすぐられた子供みたいな笑い声を返した男がどんな顔をしていたか、見る勇気がない。
 おれは臆病者だからさ。
 男は時々そんなことを言うけれど。
 おれこそ。
「ハイ、アーン」
 どうやら今夜はこっちをとことん子供扱いする気らしい男が、切り分けたケーキをフォークに載せて差し出す。その手を掴んでみた。いつも通り、ひんやりとしている。
 最後にもう一度ためらった。男どうしだから、危険な職業だから、後ろめたいから、ずっと言わずにきた言葉を、告げてもいいだろうか。
 おまえといると、世界はとても優しくて、愛すべきものに思えるんだ、なんて。
 ゆっくり目を上げた。甘い香りのケーキの向こうに、一番甘いおまえがいる。
 慎重に息を吸った。さっきキャンドルを消した時よりずっと慎重に。
「……銀時、」

 
 

END







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