その図書館は町外れの公園の一角を占めていて、通りを隔てた向かい側には小学校と、一ブロック離れて保育園があった。平日はさぞ子供の人口密度が高いだろう、と通りを横切るたびに土方は思う。土方がここを歩くのは日曜だけなので、たいていは静かで、たまに裏手のグラウンドやプールから、遠く歓声が響く程度だ。
 その日は寒く、自動ドアを通るとうっすら暖房が効いていた。小学校にあがったばかりくらいの男の子がふたり、小走りに自分とすれ違い、外に停めた自転車に駆け寄るのを、土方は見送った。
 貸出カウンターには、いつものおばさんがどっしり納まり、モニターの光が彼女の眼鏡にちらちら映っていた。土方がハードカバー二冊を差し出すと、彼女は軽く頷いた。土方はカウンターに置かれたボードにふと目を留めた。『児童朗読会』や『ボランティア募集』などの手書きのPOPに、『本のソムリエ』と見出しのついた新しい一枚が増えていた。
 −−いつも本選びに悩んでしまうあなた、もっとおもしろい本を探しているあなた、ソムリエがお手伝いします。気軽にスタッフにお声がけください。
 イチゴやケーキのシールが貼られて、全体的にかわいく作られていた。土方はふうん、と小さく呟いた。それを聞き咎めたように、おばさんが目を上げる。すみませんと首を竦めかけた土方に、「興味あります?」と案外気さくな声で聞いた。
「あ……、そうですね、まあ」
「そう、あ、坂田さん」
 後ろを通りかかった人物を、おばさんが呼び止めた。この人よ、と言われて振り向いた先には銀髪の男が立っていて、土方はちょっと驚いた。イチゴやケーキのせいで、なんとなく女性の印象を持っていた。
 自分と変わらぬ年頃だろうか。男はアイロンの効いた白いシャツにベージュのズボンを着けて、両腕の中にずっしりと本を積み上げていた。ふわふわとした銀髪が揺れていた。
「どうも」
 男は愛想よく言った。
「返却に来られたんですか?」
「はあ」
「ちょっと失礼」
 男は抱えていた本をどさっとカウンターに載せ、土方が返したばかりの二冊を手にとった。
「おもしろかったですか?」
 にこにこと聞く。首からチェーンで眼鏡をぶら下げている。
「ええ、まあ」
「読むのは主にミステリー?」
 一冊を持ち上げる。それとも、ともう一冊を掲げて、
「時代もの?」
 と聞いた。
「どうかな……。どっちも好きだけど」
「そうですか」
 男は自然に土方を誘導して、書架スペースの片隅の、シンプルなデスクに案内した。土方は成り行きに少し戸惑いながらも、時間はあるしまあいいか、という気持ちでついていった。デスクには小さなパソコンとペン立てが置かれ、付箋紙やスティックタイプののりなどが転がっている。男は近くにあった椅子を適当に引き寄せて勧め、自分はデスクについた。
「貸出記録を見ても構いませんか?」
「どうぞ」
 図書館カードを差し出すと、彼は嬉しそうに受け取った。
「なるほど」
 ひょいと眼鏡をかけて画面を覗きこみ、頷いた。
「現代文学がお好きですね。男性作家が多いかな。ミステリー、ハードボイルド、あまり長くない小説がメイン。お忙しいんでしょう」
「まあ、そうです」
 苦笑した。男はずっとにこにこと笑みを絶やさない。灰色の混じったような色合いの瞳が、レンズの向こうから土方を捉えた。
「よかったら、若手作家の時代風SFミステリーなんて読んでみませんか? 短編集で読みやすいですよ。それか……、これもいいかな。アメリカの田舎を舞台にした、ノスタルジックな探偵小説」
 土方はその日、何冊か薦められたうちのひとつを選んで借りて帰った。表紙の写真が気に入ったからだ。
「坂田銀時です。また声かけてくださいね」
 男は笑顔のまま、別れ際にそう言った。



 次の日曜は雨だった。本を濡らさないように土方は図書館に行き、書架のすき間で坂田を捕まえるなり言った。
「こないだの本、おもしろかった」
 坂田はあのにこにこ顔で振り返った。こんにちはと挨拶されて土方は勢いこんだ自分を恥じた。だが坂田は気にしていないようだった。
「ああ、おもしろかったですか。そりゃよかった。ほっとしました」
「うん。すぐ読み終えた」
 ただ、と土方は続けた。
「主人公と殺し屋の女が恋愛するだろ? あの展開はちょっと。最初っからうまくいかないのはわかってるから、読んでて気が冷めた」
 坂田は笑顔を消さずに目を丸くするという難しそうなことをしてみせた。
「そっかー。うん、参考になります」
「けちつけてるわけじゃないんだ」
 はは、と坂田は笑った。図書館にふさわしい、小さな笑い声だった。いいんですよ、どんどん注文つけてください、と請け合う。
 土方は頼んだ。
「また選んで貰えるかな。人のお薦めってのも、新鮮でいい。……雨が降ってるような話がいい」
 雨が降ってるような、と坂田はおうむ返しに口を動かした。ぶら下がった眼鏡の上で腕を組み、首を傾げる。やがて頷いた。
「外国文学でもいいですか」
「読みやすいなら」
 坂田はパッと大きな笑顔になった。雨の日の薄暗さの中でも、彼の笑みは眩しかった。
「雨は好きですか? 土方さん」
 初めて呼ばれた名前の響きが、不意に雲の切れ目から日が差す瞬間のように美しいものに思えて、土方は目の前の男を見つめた。彼は土方の視線には気づかずに、腕を伸ばして本を棚に戻している。今日も白いシャツで、まくった袖から骨格のしっかりした腕を見せていた。
「……雨も嫌いじゃないな」
 そっか、と坂田の横顔が微笑んだ。自分の頭をぽんと叩く。
「俺も嫌いじゃないんですけど、これだけの本に囲まれてると湿気がね。髪も膨らむし」
「はは」
「笑い事じゃないんですよ」
 坂田はふくれた。丸く盛り上がった頬が、光っていた。
 雨のまま迎えた夜、静かな部屋でテレビもつけずに読んだ本の中では、主人公のバツいち探偵が不倫の恋に溺れていた。邪恋の後ろめたさや息苦しさが、確かに、激しい雨に打たれた時に似ていた。土方は坂田の横顔を思い、もし雨に濡れたら、彼はどんな匂いがするのだろう、と想像した。



 土方はバツいち探偵が気に入り、シリーズになっていたので続けて読むことにした。こいつときたら間抜けで迂闊で、毎回訳ありの女に引っかかる。引っかかるたびにこれこそが本物の恋だと感じるのだが、もちろん、物語の終わりには恋も儚く終わってしまう。お約束だ。
 おれは結局、死ぬまでひとりなのかな。
 探偵は親友相手に毎回そうぼやく。−−手を握った瞬間に、今度は間違いないと感じるのに。でもキスをすると別れが見えるんだ。悲しいよなぁ。
 読んでいるうちに分かったが、要するに探偵は昔の女房に未練があるのだ。その思い切れなさが、男を臆病にしていた。
 そして何週めかに借りた本で、探偵は別れた妻と再会した。おお、ついにこの展開かと、土方は胸を高鳴らせて読んだ。焼けぼっくいに火がついたが、美しい月夜に彼女とキスを交わしながら、探偵は絶望的に別れを予感する。なんてひどい、と彼は嘆く。誰ともうまくいかないのは彼女のせいだ、彼女こそ運命のひとだと、今の今まで信じてきたのに。
 悲しい事件に翻弄されながら、探偵は何度も血を吐くように叫んでいた。おれは本当にあいつを愛していたのに。否、今だって彼女を見れば胸が締めつけられ、苦しくなるのに。でも頭の半分が冷たく自覚している。もう愛は取り戻せないのだと。
 事件が解決して、探偵は彼女に別れを告げる。一度目の別れより苦く痛みを伴う別れだ。互いに、もう会うことはないと知っている。
 結局、またひとりさ。
 自嘲する探偵の声が実際に聞こえたような気がして、土方はラストシーンを残して本を閉じた。パタン。世界がいきなり閉じる。白々しい蛍光灯の光がひとりきりの部屋を寂しく照らしている。
 また、ひとりになる。俺も。



 あれ、と見回した。坂田がいない。
 別に居場所が決まっているわけではないから、図書館に来るたび、坂田を見つけるのは書架列のどこかだったり、閲覧室のテーブルの隅っこだったり、時にはおばさんの休憩交代でカウンターに入っていたりだった。だが、今日はそれらのどこにも坂田は見当たらず、覗いたデスクも、整頓されて坂田の気配がなかった。
「ああ、坂田さんはお休みよ」
 おばさんがあっさり教えてくれた。ちょっと笑いながら、
「風邪ですって。もう春なのにねぇ」
「そうですか……」
 礼を言ってカウンターを離れた。言われてみれば、窓から差し込む日差しはうららかで、先週にはあった冬の名残がすっかり消えていた。
 季節がひとつ移って、その間に起こった変化といえば、坂田と知り合ったことくらいだ、と不意に思った。単身者用の古いアパートに住み、毎朝毎夕同じ時間に行き帰りの道を辿り、週末にはたまに同僚と飲んだり、面倒でよしたり。日曜は洗濯と掃除を適当に済ませ、午後に図書館に行く。夕方から本を読んで過ごし、休日が終わる。大きな波が立つこともなく、淡々とそれは繰り返されて、相変わらず自分はひとりだ。
 しばらく棚から棚へうろうろして、珍しく恋愛小説を借りた。どうやら賞を取った話題作らしい。帰り道で買ったビール一缶を開けながら読み始めたが、しだいにページをめくる速度が遅くなった。三分の一ほど読んだところで床に寝転び、胸に本を伏せた。
 ひとりは嫌だな、と普段は思いもしないことを言葉にして思った。



 次の日曜には、坂田はデスクにいた。にこにこしながら、先週はすいません、寝こんでて、と言った。
「こないだ借りたの、読み切れなくて」
 土方は愚痴ほどにもならない軽い口調のつもりだったが、坂田は眉を寄せた。
「珍しいですね、土方さんがそんなこと言うの」
 気遣われているようで、悪くなかった。坂田はカードの記録を見て、うーんと唸った。
「これ、確かに好き嫌い別れるんですよね。俺も実はあんまり」
 坂田の白い指が、タタッとデスクを撫でた。固そうな爪が短く切ってある。
「……何度も別れや心変わりを思わせ振りに語るだろ。相手はそんな素振りもないのに。だんだんしんどくなって」
「分かります、同じ同じ、俺も」
 目が合って、ふたりで声を忍ばせて笑った。土方はふわふわと気分が浮き上がるのを感じた。
 坂田は開けっ広げな笑いの表情のまま、薦めた。
「じゃあ全然違うタイプのを読んでみませんか? 幕末時代が舞台のミステリーの新刊が入ってますけど。読みながら、土方さんが好きそうだなって思ってて」
「おもしろかったですか?」
「俺もまだ途中。今んとこ、かなりおもしろいですよ」
「じゃあ、それにしようかな」
 浮き浮きと答えた。坂田ははい、と言って腰を浮かせた。そして少しトーンを下げた声で言った。
「感想、聞かせてくださいね」
「え? あ、うん」
 デスクに載せた白い手の、指先に力が入っているのが分かった。見上げると、坂田はなんだか真面目な目をしていた。そんな顔は初めて見た。
「待ってますから」
 坂田は言い、唇をきゅっと持ち上げた。



 人によっては連休に入っているらしい。土方の勤め先は暦通りの休みだから、調整や連休明けの納品の手配などで、むしろ通常より忙しい。
 二日ほど残業の日があって、借りた本を読み終えることができたのは金曜の夜だった。自分へのねぎらいにいつもよりいいビールのロング缶を買って帰り、少しゆっくりシャワーを浴びて、簡単な飯の後、本を広げた。
 途中でスルメが焼けて、取りに立った。マヨネーズに七味を振って、換気に窓を開けた。休みを控えて心身が緩んでいた。
 小説に描かれた京都の景色が、ほろ酔いの頭の中に柔らかな靄のように広がっていた。本は便利だ。一瞬にして脳内で雪が降りしきり、次の瞬間に桜吹雪に変わり、一面緑の草原になる。スルメをかじりながらアルミくさい缶ビールを飲み、ページをめくっているだけなのに。
 旅行もいいだろうな、とぼんやり思った。たまには脳内じゃなく、実際に足を伸ばすのも悪くない。ひとりではつまらないか。誰かと……。誰かと?
 土方はぶるりと震えた。風呂上がりの体に夜風が冷たくて、寝室から肌掛けを持ってきた。くるまって読み進め、ラストに辿り着いたとたん、眠りに落ちた。それほど自覚はなかったのだが、疲れていたらしい。
 おかしな夢を見た。黒い制服を着て刀を持ち、戦場を駆けていた。地鳴りのような鬨の声を聞いた。
 土方、と呼ばれて振り向くと、坂田が笑っていた。待ってた、と彼は言った。
 どうして。間抜けに尋ねたら、坂田は照れくさそうに目を伏せた。
 感想を、聞こうと思って。
 ああ、そうだったな。本の感想を。
 そう。聞かせて。坂田はにこにこした。いつの間にか、腕に大事そうにたくさんの書籍を抱えていた。俺の借りた本か、と土方は思った。笑っているのに坂田は悲しげに見えて、その悲しみを止めたいという衝動を覚えた。土方は言った。
 別れがちらついて見えるような話は好きじゃないんだ。せっかく手を繋いだのに、いつか離さなくてはいけないと諦めながらそうしている、そんなのはいやなんだ。せめてお話の中くらい、幸せなだけの、よくできた結末に導いてくれたっていいじゃないか。もうひとりにはならないと信じさせて終わってもいいじゃないか。
 そうだね。坂田は同意した。俺もそう思う、読みながらいつも。
 土方は手を伸ばし、本を抱き締めたままの坂田の手に触れようとした。幾度かためらい、臆病風に吹かれそうになりながら、ほんの爪の先で、坂田の白い手の甲に触った。



 自動ドアを抜けた時、頭上から冷房の風を感じた。今日は天気がよくて暑い。だが自分が汗ばんでいるのは、暑さのせいだけではない。たぶん。
 カウンターを素通りし、書架の列を覗いて探した。連休の只中だけあって、人は少ない。振り向いてみた閲覧テーブルには、新聞に鼻先を突っ込んだ老人と、絵本を積み上げた幼児の隣でうつらうつらと舟を漕ぐ、若い父親しかいなかった。大きな窓の向こうで、プラタナスの枝が青い葉を繁らせて揺れていた。
 一番奥まった書架の前に、坂田が立っていた。百科辞典のような装丁の本を開いて目を落としている。初めて会った時と同じ、白いシャツの袖を無造作にまくっているので、形のいい腕が、しっかりと分厚い本を支えているのが見える。今思えば最初から、彼は土方に作用する強い引力を持っていた。
「こんにちは」
 坂田はさっと顔を上げ、反射的なしぐさで本を閉じた。大判の書籍にふさわしい、重々しい音がした。
「あ……こんにちは」
 逡巡と不安が、彼の顔を横切る。でも坂田は、すぐにいつもの笑顔になった。その習い性の意味を思いやりながら、土方は片手の本を掲げた。
「読んだよ、全部」
「おもしろかったでしょ」
 先回りするように、早口で。
「おもしろかった。……主人公が、新撰組隊士に惚れてじめじめ悩んで、憂さを晴らすように長州藩士をバサバサ斬るあたり、妙に凄みがあった。恋に狂うと、男も女もねぇな」
 坂田は、慎重に書籍を棚に戻した。腕の筋肉が収縮する。小さな小さなため息が聞こえた。
「……そういうことで、いいんだよな?」
 土方の念押しに、坂田はへへ、と眉を下げ、ぎこちなく目を逸らした。
「うん。……でも、土方さんはひとりでいるって決めてるみたいに見えたから」
 遠回しだったよね、とくしゃくしゃ笑う。
 一歩踏み出して、息を吸った。
「ひとりが好きなわけじゃないんだ」
 はっとしたように顔を上げた坂田が、おれも、と小さな声で言った。
「おれも、そう。好きじゃないけど、でも、ひとりなのかなって思ってた。土方さんもひとりでいることを受け入れているような気がして、だから、いいな、って」
 日曜日にひとりで図書館に通ってくるような人は、なんかいいなって。
 土方はわざと憤慨してみせた。
「悪かったな、寂しい独りもんで」
 坂田はおかしそうに首を振った。目尻に涙が滲んだのを素早く指で拭って、
「だから悪くないって、いいなって思ったんだってば」
「あ、そうか」
「うん。……変な会話」
 プッと噴き出した坂田の隙をついて一瞬、手を握って離した。バツいち探偵のように運命を感じたりはしなかったが、表面の暖かさと、その奥のひんやりした質感と、ひとりがひとりでなくなるための階段を最初の一段だけ上ったような、密かな陶酔がこみあげた。
 坂田は耳たぶを赤くして俯き、ぼそぼそと呟いた。
「ずるいな、土方さん」
 土方は自分も赤くなるのを感じながら、ごめん、と言った。



 次は図書館の外で会いましょう、と約束をした。連休のうちに、ぜひ。五日の夕方、どうですか。ご飯でも。
 待ち合わせ二時間前、着ていくものを悩みながら、誕生日なんだと告白したら、坂田はなんて言うだろう、と想像して土方はにやける。自分の誕生日が来て嬉しいと思うのも、随分久しぶりだった。
 −−居心地のいい箱庭を出て、光と風に晒された外の世界へ。それはとても恐くて、ふたりならとてもおもしろい。
 深呼吸をひとつして、ドアを開ける。五月の青い夕方が美しく頭上に広がっていた。










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