少年は、睡蓮に埋もれて池に浮いた。



 おざなりに手帳を見せ、立入禁止のテープを潜った。隊服を着た土方にまともに物を言える警官はそういない。手帳を見せられた巡査は、びりっと緊張して敬礼した。若い頬が紅潮したのを、目の端で見た。
 広い公園の真ん中あたりに位置する丸い池は、ボートを出せるほどではないが、縁から反対の縁まで、大声で呼んでも聞こえるかどうか、というくらいには大きい。半分ほどが、睡蓮の花で埋め尽くされている。その白い花に混じるように、少年の顔から胸が浮かんでいた。魚屋のようなゴム長を着けた捜査官が、じゃぶじゃぶと澱んだ水に浸かって、死体を運び出すところだ。水深は膝より上であるようだ。ゴム長が波を起こして、少年の顔はゆらゆら揺れた。
 土方はポケットに片手を入れたまま、黙って眺めた。ひんやりとした朝の風が池を渡ってくる。
「発見者は」
 土方が呟くと、傍らに来ていた刑事が答えた。
「犬を散歩させてたご老人が」
「そうですか」
「……なにか」
 刑事はごま塩頭で、よれた背広の肩は丸く、縫い目が窮屈そうに歪んでいた。浅黒い顔の中で、内心の読めない細い目が瞬いた。
 土方は息を吐いた。
「いえ。……申し訳ない」
 申し訳ない、の中に重ねた意味を、刑事は読みとっただろうか。唇をひん曲げ、はあ、と気の抜けた声を出した。
「まあ、構いませんけども」
 せりだした額を軽く叩き、頷く。
 土方は、担架に上げられた死体を目で追った。濡れた黒髪が、水草のように頬や首に張り付いている。目と唇を薄く開いていた。
 土方さん、土方さん、おれはいいから。好いてくれてなくても、おれはいいから。
 首にかじりついて、背中にべったりと抱き着いて、少年は言った。冷える体質なのか、いつも体温が希薄だった。腕も胸も固くて、水気の足りない樹のようだった。
 幾つもの夜を薄っぺらい布団にくるまって共寝したが、そういえば、朝の明るさの中で彼を見たことはなかった。おかしな話だ。
「身元は、わからんのでしょうな」
 やがて刑事が独り言のように言った。
「……身内はないはずです」
「天涯孤独ですか」
「恐らく」
 ポケットから手を出して、煙草をくわえた。手元が暗い。雨になるかな、と思った。
「すみませんが、報告書だけ回して貰えますか。おれ個人あてに」
「承知しました」
 精一杯の嫌味か、軽く笑みを含んだ声を背に、ゆっくり歩き出しながら煙草に火をつけた。
 ひとあしひとあし離れていくのに、後ろで少年が名を呼んでいるような錯覚にとらわれる。足が重い。テープの向こうの野次馬の人垣に、銀色の頭を見つけて、なお重くなった。
 銀色頭は土方と平行にするすると動き、人垣から抜けて迷いなくひとけのない木立ちの方へと進んでいく。時おり枝を踏んでぱしんと音を立てる黒いブーツの後を、土方は無言でついて行った。
 着流しの袖を返して男は振り向き、土方を睨んだ。土方は立ち止まった。
「おまえ、あのガキ死なせて寝覚めが悪くねぇの」
 男は木の幹にてのひらを当てた。ざらついたその手触りを、土方は想像した。
「聞いてんだよ」
 珍しく性急な口調で、男は畳み掛けた。
 土方は目を伏せた。青草が靴の先を濡らしている。
「……好きで死なせたわけじゃねぇよ」
 そんなことしか言えない。自分に呆れて、土方は苦笑いした。
 男は木の肌に爪を立てた。
「ハタチにもならない下っ端の情報屋、わざわざ副長様がこますこたなかったんじゃねぇの。そういうの、弄ぶっていうんだろ?」
 捨てた吸い殻を、土方は足で丁寧に土に押し込んだ。
 −−あの子は少し似ていた。肌がきれいで、少し眠そうで、素直じゃないところが、おまえに。
「そうだな。悪いことをした」
 顔が歪むのをごまかすように、唇の端を持ち上げた。
「悪いことをした……」
 男はだらりと腕を下ろした。木に凭れて、静かにため息をついた。
「線香くらい、あげてやったら」
「……おまえがあげてくれよ。かわりに」
 彼は睡蓮の花に弔われて、もうおれがするべきことなんてなにもない。なにもできない。弱味につけこむように手をつけて、ひねくれた愛の言葉に応えることもできなかった自分には。
 土方は重い足を動かし、顔を見ずに男の前を通り過ぎた。男はもう口を開かなかった。濡れた土と盛りを過ぎた草の匂いが、なにかに似ている気がした。しばらく考えて血の匂いだな、と気づいた。木の下を通ると肩に朝露が落ちて、これも血のひとしずくだろうか、と思いながら、指先で弾いた。
「おまえが」
 鋭さの抜けた声が聞こえた。
「おまえが馬鹿過ぎて、なんだか泣けてくるわ」
 土方は小さく笑い、振り向かずに歩き続けた。木立ちを抜け、靴の裏がアスファルトの舗道を感じた時、ぽつぽつと、錆びた血の匂いのする雨が落ちてきた。










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