つまらない喧嘩をした。
別に初めての喧嘩じゃない。だいたい、俺とあいつは、顔を合わせりゃ胸ぐらを掴み合い、唾を飛ばして罵り合うようなところから関係をスタートさせたのだ。互いに剣を抜いたことも一度や二度じゃきかない。そこから進んで違うもんを抜き合うようになっても、あいつは俺の名前さえあまりまともに呼ばない。ああ、俺もか。
まあでもとにかく、俺たちは月に何度か逢って連れ込みにしけこみ、裸のお付き合いをして、ふたりきりの時には曲がりなりにもそれなりの甘い時間を共有しているのだ。そうなってもう、季節が幾つか変わった。俺は少し自信を持っていた。あいつに好かれている、優しくされている、特別に扱われていると、ちょっと自惚れていた。
あんまり難しい顔すんなよ、とか。たまにはゆっくり休むのも上に立つ者の務めだぞ、とか。たいへんだなお前も、上も下も問題児ばっかでよ、とか。そんなことを、柔らかい目で俺を見ながら言うから。俺の髪を梳きながら、肩を撫でながら、あやすように背を叩きながら言うから。そりゃあ自惚れもする。そうだろ?
−−帰るのめんどくさいな。眠い。
まだ熱の残る頬を枕に押しつけて、あいつはとろんと緩んだ顔で笑った。俺は煙草を吸いながら、そのふわふわした髪をかき混ぜた。
−−朝までいりゃいい。……なあ、そろそろお前んちで逢ってもよくねぇか。
少し思いきって口にした。あいつは瞬きし、眉を寄せて俺を見上げた。
−−なんだよ、お前、そんなの言ったことなかったろ、今まで。
−−ま、まあな。
俺は口ごもった。あいつは不満げに唇を尖らせて、枕に肘を突いた。
−−ウチ、来たいの?だめだよ、子供らに内緒にしてんだから。来たら、煙草の匂いやらなんやらでばれちまうだろ。
俺は、こいつの、子供たちに向ける眼差しを思い出した。白けた目で馬鹿だのダメだの言いながら、ふっと顔を逸らして、ひどく優しく微笑む瞬間を見るのが、俺は好きだ。そしていつの間にか、自分もその微笑みの内側に入れて貰っているような気になっていたのだ。
−−だってお前、ずっと内緒にしておくつもりかよ。だいたい俺は、内緒にしてくれなんて、言ってねぇぞ。
俺の言葉に、あいつはいつもの眠そうな目を見開き、口を開き、閉じた。明らかに困惑していた。
−−なにが言いたいの、お前。あのさ、ウチの子たち、難しいお年頃なの。めんどうはごめんだよ。
カチンときた。めんどう。俺との関係を、重ねてきた、伝えてきたつもりでいた感情を、丸ごと否定されたように感じた。
−−なんだよてめえ保護者ヅラしやがって、ろくろく食わせてやってもいねぇくせに。
そう言ってしまったのは、覚えている。ちょっとまずかったと自分でも思う。あいつは一瞬傷ついた目をして、だがすぐに、こっちの心を的確に抉るようなことを言い返してきた。付き合いが長くなると、そういう、互いの泣き所を突くことも容易になってくる。よろしくない。
しまいにあいつは出てけと怒鳴り、俺がとった部屋だと怒鳴り返し、
−−そうかよ!ああもういい、そのツラ二度と見せんな馬鹿野郎!
そう言ってあいつは着物を引っかけ、部屋を飛び出していった。俺は新しい煙草をくわえたが、結局火をつけずに口から抜いて投げつけた。なんでこうなっちまうんだ。−−わかってるよ、てめえがガキどもを心底かわいがってるのも、豪胆で適当に見せながら実は臆病で、大事なものを守りたくて必死で、俺なら、俺ならガキどもや大家のばあさんのように腕の中に庇わなくてもいいから、気が楽なんだってことも、わかってんだよ。
だけどよ、と呟いた声は頼りなく空気に溶けた。それから連絡を取り合わないまま半月ばかり過ぎた頃、俺は現場でへまをした。危うく、手足か命か、あるいはそれら全部を吹き飛ばすところだった。
病院は嫌いだ。
特に、消灯後、眠れなくて壁や天井の染みが人の顔に見えたり、個室なのに小さな物音がしたりすると、薬くさい毛布をかぶって羊を数えるしかない。一昨日だったか、包丁を研ぐ音が聞こえてきた時はさすがにぞっとした。いや、すぐに冷静になったけど。廊下を覗いたら、案の定、総悟の野郎がしゃがんで砥石を使っていやがった。
今夜は静かだ。磨りガラスから漏れ入る、常夜灯の緑色をぼんやりと眺めながら、俺は色々とつまらないことを考えている。せっかくこうして寝ているしかない状況なのだから、何も考えずにひたすら休めばいいものを、貧乏性の俺は、頭をからにすることも上手くできない。無理に目を閉じると、今度は体があちこち不具合を訴えてくる。爆発物の破片が刺さったところは縫ったり貼ったりされてひき攣り、包帯の下の皮膚は痒い。満足に風呂に入れないから、顔もかさつく。ああ、早く開放されてぇ。
あいつは俺の頬っぺたを触るのが好きだったな、とふと感傷的になった。かさついた頬を掻きながら、俺は腹立ちと後悔に唇をひん曲げる。あんなやつ。死にかけた恋人の見舞いにも来ないやつを懐かしんで何になる。−−恋人?向こうはそう思ってなかったとしたら?ああちくしょう、胸が痛い。そこに傷はないはずなのに、ずきずき痛む。
くそ、と口の中で呟いて、苛々と目を開けた。と、磨りガラスを隔てた向こうに人影が揺れて、俺は息を飲んだ。
すう、と引き戸が動いて、頭に角を生やした異形の生き物が病室に入って−−
「な、んだ、てめえか」
俺は冷や汗をかいたのを知られたくなくて、目に力を入れて睨んだ。白い着流しがふわんと揺れたが、それは幽霊でも鬼でもない、つい今しがた俺の胸を痛くさせた張本人だった。
「俺で悪かったな」
照れ隠しとわかる無表情でやつはそう言い、ベッドの脇に立って顎を掻いた。俺はついいつもの調子で憎まれ口を叩く。
「葬式ならまだ早えぇぞ。生憎だが生きてる。だいたいなんだ、こんな夜中に。非常識な」
時計を見れば日付が変わっている。
「それに、なにかぶってんだ、それ」
「んー」
やつは頭に手をやり、それを持ち上げた。新聞紙を不格好に折って作ったそれ。
「子供らがはしゃいじゃってよ。……あー、その」
それを俺の頭に載せながら、やつは顔をしかめた。
「こないだは悪かったよ。んで、誕生日おめでとう、多串くん」
てめえ、と言いかけて飲み込んだ。こいつがこのとびきりふざけた呼び名で俺を呼ぶのは、相当照れている時だ。それにこんな、誕生日になってすぐを見計らったように逢いに来るなんて、
「俺も、悪かった」
俺は目を伏せて言った。小さなため息が聞こえた。
「いや、お前みてぇに危ねぇ稼業のやつと喧嘩別れしたきりだと、いざって時に寝覚めが悪くてかなわねぇ。身に染みたわ」
そんな殊勝なことを言う。顔が見られなくて、新聞紙の端を引いた。
「そ、そうかよ。っていうかなんなんだこれ、プレゼントのつもりか」
「ん、子供らからな」
「……え」
目を上げると、やつはやっと笑った。柔らかく、ちょっと情けなく目尻を下げた笑いかた。たまに子供たちに向ける笑顔だ、と気づいた。
「なんかよ、あいつらちゃっかり知ってやがって。お前のニュースが流れてから、俺がそわそわしてんの見かねたらしくって。隠せてねぇよいい加減にしろって説教されちった」
「うわあ、マジか」
「とっとと逢って来いヨって蹴っ飛ばされましたので、一杯引っかけて逢いに来ました」
思わず吹き出すと、やつは唇を突きだしてむくれた。
「笑うなよ。なんだ随分元気そうだなてめえ、心配して損した」
そんな言葉とは裏腹に、伸びてきた指は優しく優しく俺の頬を撫でた。俺の胸は、さっきとは違い、甘く疼く。ずきんと。
「心配したのか」
「悪りぃかよ」
「悪くねぇ。……悪くねぇ」
手に手を重ねて、そっと握った。馴れた体温が染みてくる。
「治ったらよ、いっぺんウチに来て、あいつらに頭下げろよ。銀時さんとお付き合いしてますって。神楽がお父さんごっこしたくて手ぐすね引いてっから。『どこの馬の骨かわからんやつにはやれん、歯を食いしばれ』ってやるんだってよ」
「俺、殴られんのか」
「そうそう、そしたら、俺が泣きながらしがみついてやるから」
ふたりで、声を潜めて笑った。ああ、悪くねぇ。俺はやつの胸ぐらを掴んで引き寄せた。殴るためではなく。長いキスのあと、やつは囁いた。
「その、兜にさ、子供らがお手紙書いてたから、見といて」
「これに?」
頭に手をやると、慌てたように立ち上がる。
「じゃあ、そろそろ行くわ。あれだ、ええと、かさぶたがうんと痒くなって苦しみますように。ご愁傷さまです」
「おいこら」
へっへっと最後は憎たらしい笑いかたをして、やつは素早く出ていった。後ろ手にひらひらと手を振って。
俺はかぶせられた新聞紙の兜をはずし、スタンドの明かりをつけた。眺めてみたが、おもてには何も見当たらない。内側に目をやって、俺は笑った。
マジックで黒々と書きつけてある。『銀ちゃんがほしけりゃ酢こんぶみつげ』。チャイナの下手くそな字の下に、眼鏡が小さく『早く元気になってください。ちなみにお米と味噌が欲しいです』と書いている。ちなんでねぇよ。
まあ、そうだな。あいつを大事に思うなら、子供たちもだ。見てろよガキども、米と味噌と酢昆布を結納に積んで、ビシッと頭下げてやろうじゃねぇか。
そう心に誓いながら兜を眺めていて、ん?と目を凝らす。子供たちの書きつけの反対側の面に、なんだ、これ。
兜をスタンドに近づけて顔を寄せた。インクの匂いがする。
新聞記事の文字を丸で囲んである。『や』の字だ。マジックではなくボールペンでやったようだ。チャイナのいたずらかなにかか、と思いながら、他に丸のついた字を探した。『ば』『う』『か』『ろ』。特に『ば』はぐりぐりと強く囲んであった。始点を示すように。
「『ばかやろう』ってか」
俺は苦笑した。これは子供たちの仕業じゃないんだろう。あの、馬鹿。
目を離しかけて引き戻す。端のほうなので見えなかった。なにかの記事の『国外向きだと思われる』という文の、『きだ』をまとめて楕円で囲んであった。
きだ。
−−だきしめて?はきだめに鶴?地獄行きだ?
違う。絶対違う。俺はカアッと顔に血を上らせながら、瞬きも忘れて粗い紙面に目を凝らす。あと一文字、あと一文字にあいつは丸をつけたはずだ。まったく、こんなつまんねぇ手間かけないで、ひとこと口にしてくれりゃいいのに。そしたら俺も同じ言葉を返せるのに。−−ああ、これだからいけねぇんだな。わかったよ、今度逢ったらちゃんと言うから、だからとっととあと一文字を見つけさせてくれ。
俺は馬鹿みたいに新聞紙の兜に顔を突っ込んで、指をインクで黒くしながらその字を探した。あとから思うと間抜けで笑える。あいつからのたった一文字が欲しくて、考えればどうにもくだらない、あいつの気まぐれにすがるように、でも、とても幸せな。
そんな、なんてことのない、ある誕生日。
2014土誕 「すをさがす」
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