長雨は止んだが、地下へ降りる階段の壁は、湿気を帯びて手が滑った。じき建て替えられる予定の旧館は、どこもかび臭く薄暗い。階段を下りきって右に折れる。夜中の廊下に、自分の足音だけが響いた。昼間は学生や職員の喧騒が絶えない学内も、夜更けはまるで文明が死に絶えたように静まりかえり、暗がりという暗がりにひとりずつ亡霊が潜んでいると言われても信じてしまいそうだ。
そんなことを考えていたら、カツーン、カツーンと、自分以外の靴音が後ろで反響して、ぞっとして振り返る。ちらちらと揺れる明かりは人魂、ではなく、
「ああ、なんだ」
思わず呟いた。ゆっくり近づいてきたのは、顔馴染みの夜警だった。彼は俺と目が合うと懐中電灯を下に向け、制帽のつばに触れて目礼した。同じように目礼して、研究室の引き戸をガラガラと開ける。壁を探ってパチンと明かりをつける。古い建物の、冷えて澱んだ空気のよく知った匂い。俺はほっと息をついた。
カツーン、カツーンと規則正しい靴音が遠ざかる。それを聞きながら机に置かれたいくつかの伝言を眺めた。こうやってメモを残されるのは嫌いだからパソコンにメールをくれ、と何度か頼んでみたけれど、最近はどうでもよくなった。そういう気持ちは机やキャビネットの乱雑さにもあらわれていて、俺はため息をついて右のものを左に寄せたが、それも、パソコンが立ち上がるとやっぱりどうでもよくなった。ヘッドフォンをつけ、マウスを動かす。手元では資料を開き、目もそこに走らせて、でも俺の意識は耳に集中している。やがて流れ出した声に、俺は情けないほどほっとした。
−−久しぶりだな、銀時。
「眠れなくてさ」
−−仕事場からか。
「うん。家にいてもろくなこと考えないしよ」
−−ったくお前はしょうがねぇなぁ。まあ、眠くなるまでは付き合ってやるよ。
「はは」
俺の笑い声は小さな小さな波動で空気を震わせ、誰もいない部屋に広がっていく。ヘッドフォンから聞こえる声に、俺は満たされていく。
俺はとりとめもないことをぽつぽつと喋る。声は相槌をうったり茶化したり、時々笑ったりする。懐かしいなぁと思う。長いこと顔を見ていない。声だけ。
「ちょっと待ってて、お湯ができたから」
コーヒーをいれる。ミルクと砂糖をどっさりいれて、かき混ぜる。冷えた指がカップの熱さを吸っていく。湯気で鼻先が湿る。
「わりぃ、お待たせ」
−−インスタントだろ、どうせ。
「当たり前じゃん。でもインスタントも馬鹿にできないからね。美味しいからね」
へぇ、と笑う。
−−いくら美味くても、お前みたいにしこたま甘くしちゃあ、もとの味なんてわかんねぇだろ。
「はは」
ガラガラと戸が開いて、俺は顔をあげた。さっきの夜警が立っていて、気まずそうに会釈をよこした。
「すみません、ノックしたんですがお返事がなくて」
「あ、ああ」ヘッドフォンをずらした。「ごめんね、聞こえてなくて」
夜警はまた帽子に手をやり、遠慮がちな声で言った。
「坂田さん、朝までいらっしゃいますか。詰所のノートに退去予定時間の記入がなくて」
「ああ、すみません。たぶんいます」
「わかりました。失礼しました」
夜警は戸を閉めて去った。
「ごめんごめん、警備員さん」
−−顔見知りか。
「ってほどでもないなぁ。名前も知らないし」
−−ふうん。
「それよりさぁ、こっちの時間だともうすぐ日付かわるんだけど」
−−それが?
「ひでぇなあ、忘れられてる」
クク、と喉で笑うのが聞こえた。ああ、ほんとに懐かしいなぁ。できればここに来て欲しいよ。意地悪く笑う顔が見たいよ。
−−お前にはよ、
「うん」
−−そろそろ荒療治が必要だな。
「うん?」
−−いつまでもこんなことしてちゃ、だめだ。
「なんだ、それ」
あくびが出た。眼鏡を取って目をこすり、冷めかけたコーヒーを飲んだ。
去年の誕生日は一緒に過ごした。といっても、いつもと変わらず、部屋でだらだらしていたけれど。俺が料理をし、お前は飲んでばっかりだったな。夜は部屋を暗くして借りてきた映画を観て、ケーキを食べた。別になんてことのない、気合いの入っていない誕生日だった。
−−忘れてなんか、いねぇよ。
坂田さん、と大声で呼ばれて飛び上がった。夜警が乱暴に肩を揺すっている。なに、なんだよ。ヘッドフォンははずれて、キーボードに乗っていた。
「あれ、寝てた?」
あやふやに言いかけた俺を、夜警はもどかしげに遮った。
「火事です!避難して!」
「えっ?ええっ?」
白手袋の手が、腕を掴んで引っ張りあげる。俺は寝ぼけて呆然としたまま、急かされて部屋を出た。
「嘘でしょ、なに」
「嘘じゃありません!」夜警は俺を引きずりながら心外だという顔をした。「二階の実験室から火が出て」
「ええっ」
靴音が乱れながらこだまする。頭がついていかない。いつの間にか寝てしまったんだな。いま何時だろう。いきなり落ちちまって、あいつ気を悪く−−
「あっ!」
俺は立ち止まった。夜警の手をほどいて戻ろうとして、捕まえられた。
「ちょ、忘れ物した!すぐだから、」
「だめです!早く!」
「嫌だ!大事な、すごく大事なもの忘れたから、すぐ取ってくるから」
「だめですって!」
夜警がものすごい大声を出し、俺をぐいと階段に向かせた。
「避難が最優先です!命が一番大事でしょう!」
「うるさい!勝手に決めんな馬鹿!」
一番大事なものは置いてきてしまった。あいつの、あいつの、
俺は必死に振り向いて、走り出そうとした。その時廊下の暗がりからふっと人影があらわれて、俺を見て、笑った。
−−ばぁか。
手に持ったものをひらひらさせる。
−−これだろ。
「か、返して、」
「坂田さん!」
俺は夜警の腕の中でもがいていた。あいつはおもしろそうにもがく俺を見て、頷いた。
−−心配すんな。俺はだいじょうぶだからよ。お前ももう、ちゃんと寝て、ちゃんと笑え。
カツン。
手の中のものを床に落とし、踏んだ。俺は叫んだ。
「やめろ、返して、返せって!」
「坂田さん!」
引きずられて階段をのぼりながら、俺はずっと叫んでいた。あいつは階段の下で俺を見上げていた。微かに笑いながら。
たいした火事じゃなかったし、実験室の院生が軽いやけどをしただけだった。ただ、どういうわけか俺の研究室だけ旧式のスプリンクラーが誤作動して、パソコンが潰れた。USBメモリも。
「すみませんでした」
夜警は脱いだ帽子を手に、肩を縮めて謝った。
「ああいう時は、なにがなんでも避難が第一なので」
「あんたのせいじゃないよ」
俺はぼんやりと机を眺めて言った。入り口のコートハンガーに引っ掛けておいたカバンも、キャビネットの本や資料も無事だった。ほぼ机の上だけが壊滅していた。
その机にそっけないメモが貼ってあった日のことを思い出した。知らない電話番号と、病院の名前。かけたらなかなか要領を得なくて、それだけが理由ではないが、俺は結局間に合わなかった。
「……音声ファイルがね」
俺は言った。
「死んだ恋人の声が、入ってたんだ。だからね」
夜警は目を伏せた。
「……見廻りでここに来て、何度か見かけました」
「俺がひとりで喋ってんのを?」
唇が歪んだ。だが夜警は首を振った。
「眠りながら泣いてました」
「……俺が?」
「はい」
夜警はじっと俺を見た。紺色の制服の上に、キリッとした男前の顔が乗っかっている。明るいところで彼を見たことは今まであまりなかったが、改めて見ると俺より若いくらいの年ごろに見えた。きれいな、まっすぐな目だなぁ、と俺は思った。他人の顔がそうやってのっぺらぼうではなくきちんと印象に刻まれるのを感じるのも、ずいぶん久しぶりのことだった。
「だからずっと、気になってました」
「そうかあ……」
俺はメモリを抜いてポケットに入れた。もう再生できなくても、それはやっぱりとてもとても大事で、でも、一番大事なものをなくしてもひとは生きているんだなあ、と、一年前にも思ったことを、また思った。でも生きているってどういうことなんだろうなぁ。息をして、飯を食って、ひたすら時の流れるのを待って、懐かしいなぁとただ帰らぬ人を想う。俺のこの一年はそんなふうだった。
夜警は肩で大きく息をして、言った。
「あの」
「はい?」
「本当にすみませんでした!お、お詫びに、できることがあったら、なんでも言ってください」
「いや、ほんとに、あんたのせいじゃないから」
俺はちょっと笑った。あいつがいなくなってから初めて、空疎でない笑い方をしたような気がした。マグカップを流しに運びながら、言った。
「じゃあ、コーヒー、今度差し入れてよ。切れかけてるんだよね」
はい、と夜警は言った。あ、と思いついたように続けた。
「坂田さん、甘いものお好きですよね」
「うん。なんで知ってるの」
「お菓子食べてるの、時々見かけました」
「よく見てるね」
振り向きながらそう言うと、夜警はちょっと赤くなったように見えた。俺までなんだか気恥ずかしくなった。
「す、すみません」
「いや、謝ることじゃ」
俺たちは互いにもごもご言って、黙った。やがて、あ、とまた夜警が声を出して、胸ポケットを探った。
「あの、よかったらこれどうぞ」
手のひらにころんとイチゴミルクの飴。俺は小さく吹き出した。
「似合わないってか、ずいぶんかわいいもん携帯してんね」
「眠気覚ましです」
手首を取られて、手に載せられた。白手袋の感触が温かく残った。目を上げると、一見怒っているような、でもとても気遣わしげな、照れくさそうな目と、視線がぶつかった。
「……名前は?」
俺は聞いた。
20131010
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