むかし、江戸のちょっとはずれのほうのお屋敷が多いまちに、仕事で呼ばれて行ったことがある。油を塗ったみたいな塀の奥に、白壁のお屋敷があって、裏口から入っていくと、苔や土の匂いがして、小さな池もあった。池の中で魚が泳いでいて、しゃがんで見ていると、新八に、それ食べる魚じゃないからね神楽ちゃん、と言われた。わかってるアル、バカにすんなよ、と言い返して、日傘の下から見上げた。新八は頭にタオルを巻いて、やる気を見せていた。

よく知らないけど、そこの奥さんはむかしは歌舞伎町でお店をやっていて、そこで旦那に見初められて、このお屋敷にお嫁入りしたんだって。お登勢の婆さんと知り合いで、銀ちゃんも顔見知りだったみたい。少しからだを悪くして、お盆にお坊さんを呼ぶのに座敷の掃除が行き届かないからと、万事屋に頼んできた。

おら神楽、遊んでんじゃねぇよ、と銀ちゃんが言った。へーいと返事をして縁側からお座敷に上がったら、畳のいい匂いがした。三人で雨戸を開けて箒で掃いて、雑巾がけをした。銀ちゃんは腰が痛いと言って、ハタキでパタパタ高いところをはたいて、雑巾がけはわたしと新八に押しつけたけど。

奥のお座敷は何もなくて、黒い立派な仏壇だけがあった。隅っこに積んであった座布団を運んで、虫干しをした。仏壇には、きれいに盛られた果物がお供えしてあった。眺めていたらまた新八が、神楽ちゃんそれほとけさまのだからだめだよ、と言った。さすがにイラッときてふくらはぎを蹴ってやったら、グエッと言って倒れた。

くすくす笑う声がして、見たら、上品そうな、おばさん以上おばあさん未満くらいの女のひとがこっちを見て笑っていた。新八があわてて、すいません遊んでたわけじゃありません、とか謝ったけど、女のひとはにこにこして、いいのよ、ひと休みしましょう、銀さんにおやつ食べられちゃうわよ、と言った。それから仏壇に近づいてチーンと鉦を鳴らして手を合わせて、果物盛りの中にあった桃を取り、お嬢さん、桃は好き?と聞いた。

食べたことないヨ、でもいい匂いネ。

まあそう、じゃあこれ差し上げるわ。昨日供えた時はちょっと固かったけれど、そろそろ食べ頃だと思うわよ。おうちに帰ったら冷たいお水で冷やしてお食べなさい。ぶつけたり落としたりするとすぐに傷むから、気をつけてね。

女のひとはそう言って、わたしの手に桃を載せてくれた。桃はちょっとちくちくして、まんまるで、あかちゃんのお尻みたいにお尻が割れていた。わたしは嬉しくて縁側まで走っていって、銀ちゃんに見せた。銀ちゃんはお饅頭をモシャモシャ食べながら、おまえ仕事にきてたかってんじゃねぇよ、と言ったけど、わたしの頭を撫でて、ちょっと笑った。女のひとに銀ちゃんがお礼を言って、女のひとはにこにこ見ていた。

女のひとが奥に行ってから、新八が、あの奥さん、広いお屋敷にひとりじゃ寂しいでしょうね、とかしゃらくさいことを言った。銀ちゃんは首のタオルでおっさんくさく顔を拭きながら、仏壇、ちゃんとしてあるもんなぁ、とよくわからない返事をした。

その夜言われたとおり冷やして桃を食べた。半分ずつにしたけど、銀ちゃんは半分の半分をくれて、おんなこどもは桃やらスイカやら、水っぽいもんが好きだろ、と笑った。桃は甘くて冷たくて、柔らかかった。銀ちゃんはテレビを眺めていた。やがて、暑いなあ、ちょっと一杯やってくるかなあ、おまえ寝てろよ、と言った。そういうことは時々あったから、わたしは、またかよ、ちょっと仕事したからって調子にのるなよマダオ、と言ったけど、桃を食べたあとだったから、なんだか甘ったるいような声が出た。銀ちゃんはテレビを見たまま、わたしの頭をまた撫でた。大きな手は、わたしの頭を掴めそうだった。

銀ちゃんがいなくなる、少し前のことだ。





傘に、蝉の鳴き声が降り注いで跳ね返る。木の陰が黒く地面に落ちて、ひしめく墓石は、かんかん照りの陽射しを浴びて暑そうだ。

銀ちゃんのお墓。

その言葉を口にすると、いまだに変な気分になる。銀ちゃんのお墓、なんて。

ひとはみんな死ぬ。そんなのわかってる、ってみんな思ってるけど、ほんとはわかってない。自分の好きな、大事な、そばにいるのが当たり前のひとが急にいなくなってお墓をつくることになるなんて、ちゃんとはわかってない。きっと。銀ちゃんは死んだのかどうか、誰も見たわけじゃないからなおさらだ。だからわたしもたぶん、よくわかってなんかいないのだ。銀ちゃんがいない。そんなこと、よくわからない。

でも銀ちゃんのお墓は現実にそこにあって、きちんと掃除され、花はいつも枯れる前に取り替えられるし、今日はふざけたみたいに風船ガムと、大福が二つ置いてあった。

仏壇がちゃんとしてあると寂しい、という銀ちゃんのあの時の言葉が、少し、わかるような気がする。こんなに時間が経ってもまだみんながこうやってお墓を訪れて銀ちゃんを想っている、というのは、なんだかとても悲しいことに思えるのだ。お登勢の婆さんが時々言うのだけど、死んだひとのことなんて、ふだんは忘れているくらいがいいんだ、その方が幸せなんだって。だとしたらわたしたちはきっと、とても不幸だ。

わたしは持ってきた桃を大福の横に置いた。そして墓石に刻まれた銀ちゃんの名前を撫でた。ざらざらしていて、日を吸い込んで温かい。体温のように。

−−ちゃらついたお白粉の匂い、させてんじゃないわよ。

そう呟いたら、ばれてたっすか、ってバカっぽい声がして、後ろから足音が近づいてきて、少し離れたところで止まった。ヤンキー女みたいな金髪と、パンツが見えそうな丈から伸びた、色気のない足を思いだしながら、わたしは振り向かなかった。

初めて来たけど、ほんとにお墓、あるんすね。

女がひとりごとみたいに言った。あんた、ひとりで来たの。ええ。片目包帯煙管野郎はどうしたの。いいじゃないすか、あのひとのことは。

女の声に寂しさが滲んだ。この女も同じなのか、と思いながら、傘の柄をきゅっと握りしめた。

今日ね、誕生日なんすよ。あのひとの。

そう。

そうなんす。

女はそれきり黙った。わたしはゆっくり傘を回した。

桃、あげるわよ。冷やして食べなさいよ。

なんすかそれ。

女は呆れたように笑ったけど、わたしが歩き出すと小さな声が追いかけてきた。

さよならっす。

ああ、またけんか相手がこの星を去る。わたしは見送り、待ち続ける。なにかを、誰かを。忘れている方が幸せなものを、忘れるすべもわからずに待ち続ける。

木陰に伏せて待っていた定春が、わたしを見てからだを起こした。わたしはそのふかふかした首に抱きついて、行こうか、と言った。定春が慰めるように鼻声を出す。だいじょうぶよ、と笑って、わたしは顔をあげた。遠くに見えるターミナルが、ぎらりと太陽の光を反射して、その眩しさが目を刺した。












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