吹きっさらしの停留所の錆の目立つサインポールにへばりつくようにして、そいつは待っていた。原チャリのスピードを落としながら、俺は「あー」と思った。あー。まさにそれ。それほど経験は長くないが、今までにふたりの生徒に、同じようなことがあった。いまいち似合わない私服を着て、膨らんだスポーツバッグを持って、携帯を握りしめて、そわそわしているのを隠そうと顔をしかめて。こんな時の高校生はみんなそうだ。
 パパッとクラクションを鳴らしてやった。さっとこっちを向いた土方くんの顔は見ものだった。しまった、からどうしよう、に変わり、いやいやまだばれてねぇべ、ごまかしてやり過ごそう、と平常心を演出する不機嫌な(いつもの)顔へ。まあまあ上出来だと思うよ。
 とにかく、隣町まで特に視界を遮るもののないだだっ広く平べったい枯れた景色の中、金と黒の夕闇を背に国道にぽつんと立つ少年の姿は絵になっていた。限りなく寂しくて、自分ではそれに気づかず、虚勢を張って、彼は立っていた。俺が停まると、彼はふて腐れたように俯き、ポールの土台のコンクリをブーツのつま先で蹴った。そのつま先にはうっすら泥がついていた。
「なにしてんの」
 冷たい風が、色の褪めた草っぱらをざわざわと渡っていく。土方くんの髪も揺れた。彼は寒そうに肩をすくめ、ブルゾンのポケットに手を突っ込んだ。片方のポケットからは手袋がはみ出していた。
「べつに」
「気取ってんじゃねぇよ、少年」
「なにが」
「バス、何分よ?」
 土方くんは掬うような目で、原チャリに跨がったままの俺を見た。ブルゾンの下に黒いハイネックを着ていて、その上で微かに喉仏が動いた。
「……先生、なんで今日に限って通るんだよ」
 やがて彼は諦めたように言った。足元のスポーツバッグを睨みながら。
「『おきた』に行くとこだったのよ。不運だったね」
「帰りどうすんだよ、原チャ」
「飲んだら『おきた』に置いてくことにしてんだよ。どうせ明日は休みだし」
 ふうん、と土方くんはどうでも良さそうに横を向いた。頬が子供っぽく拗ねていた。
 ごうっと地響きを立てて、トラックが通り過ぎた。ちらりと目をやったらコンビニの配送車だった。こんな寒村部にも国道沿いにぽつりぽつりとコンビニはあって、あとは、ガソリンスタンドと、運ちゃん達が贔屓にしている昔ながらのドライブインと、看板、たまに牛、サイロ、交番と消防署。みんなが土日に繰り出すショッピングセンターも、ここからは100キロ近くある。
「家から歩いてここまで来たのか」
 俺の問いに、土方くんは頑固に思い詰めた眼差しで頷いた。いくら健康な若者の脚でも30分はかかったに違いない。俺はその時間を思った。この子はたぶん振り返らなかったのだろう。どんなに振り向きたくても、引き返したくても、意地を張ってここまでがむしゃらに歩いたのだろう。学校でもいつもきちんと学ランを着て、わかりにくいが気い遣いで、大人の顔色を読むのが上手いこいつのことだ。家を出る時は、今生の別れくらいの気持ちで、頑なに前だけを向いていたに決まってる。
「……でもよお」俺は言った。「まだ17じゃねぇか、お前。家を出てどうすんの」
 うん、と土方くんは答えにならない返事をして、皮肉っぽく唇を歪めた。子供が大人にしてみせる、あの「言ったってわからないだろうし言う気もないし第一説明できないんだよこんな気持ち」をあらわす表情だ。
 パアッと脅すようなバスのクラクションが後ろで響いて、俺は慌てて原チャリを縁石から歩道に引っ張りあげた。しょうがなさそうに手伝ってくれた土方くんは、目を伏せてため息をついた。俺は一応聞いた。
「乗るの」
「乗らね。ケチがついたから」
「あっそ」
 ふたりして間抜けに、ずるずると速度を落として停まるバスの横っ腹を眺めることになった。ビーと音がして、自動ドアががくんと開く。隣町のターミナル行きの終バスには、乗客はいないようだった。なにか声をかけられるかも知れないな、と俺はぼんやりドア脇のスピーカーを眺めたが、やがて無言のままドアは閉まり、バスはゆっくりと発車した。排気ガスのにおいを嗅ぎながら、ふと、終バスの運ちゃんはこういう場面に慣れているのかな、と思った。
「……急に、いやになったんだ、それだけ」
 遠ざかるバスのテールランプを眺めながら、土方くんは言った。痛みをこらえるように眉をぎゅっと寄せていた。
「そうかあ」
「うん」
 俺は原チャリのスタンドを起こし、ダウンのポケットから煙草を出した。ライターが見つからなくて更にポケットの底をごそごそ探っていると、土方くんが自分のポケットから紙マッチを出してくれた。
「お、サンキュ。お前隠れて喫煙なんかしてねぇだろうな」
「してないよ」
 土方くんはうんざりした声を出した。
「兄貴か誰かのをたまたま持ってただけ」
 俺は手の中のマッチを見下ろした。紙蓋に『居酒屋おきた』と店名が刷られている。
 少し擦る力が強すぎて、バシュッと音がして指先に熱が走った。
「兄ちゃん、元気か」
「知らね」
「ケンカしたの」
「べつに」
 土方くんはつまらなさそうに言う。吹き消したマッチの燃え殻から一瞬煙が上がり、すぐに冷えていく。俺は煙草を吸い、土方くんは所在なさげに立っていた。ふたりとも国道を向いて、黙って通り過ぎる車を眺めていた。
 土方くんの家はそこそこ大きな農家で、酪農と畑をやっている。当代は父親だが、今年の春、農学部を出てしばらくのあいだ食品会社で修行を積んでいた土方くんの兄貴が、家業を継ぐために帰ってきた。
「兄貴とよく会ってんのは先生の方じゃないの?」
 沈黙に厭きたのか、土方くんの方から聞いてきた。煙を吐きながら横目で見ると、彼はやっぱりつまらなさそうな顔をして、俺が返したマッチを弄んでいた。
「『おきた』でたまにね。お前の兄ちゃんだけじゃなく、近藤の父ちゃんやジミーの母ちゃんも来るぞ。そもそも沖田くんちだし」
 わかってるよそんなの、と土方くんは物憂げに呟いた。
 俺は教え子の姉がやっている居酒屋の、ほどよい喧騒や壁に貼られたメニューや、ビールの喉ごしを思い浮かべた。予定じゃ今ごろ一杯やって、枝豆をつまみながら『おきた』自慢のチゲ鍋が来るのを待っているはずだったのに、なんでこんな吹きっさらしの道べりで、家出しかけた教え子と盛り上がらないおしゃべりをしているのか。
 辺りはすっかり日が落ち、ぽつんぽつんと間隔を置いて灯る外灯の光だけが、地上の星座のように続いている。藍色の空は低い雲に覆われ、本物の星は見えなかった。
「まあ、どうせ、高校生活もあと一年と少しじゃないの」
 俺は益体もないと知りながら、くわえ煙草でだらだらと喋った。
「お前なら希望どおりの進学もできるだろうし、こっから遠めの大学に行けば嫌でも家を出ることになんだろ?今慌てて飛び出すことないじゃないの」
「……」
 土方くんはしゃがみこんで頭を垂れた。わかってるよ、とまた、消え入りそうな声で言った。
 俺はダウンのファーに顎を埋めて、さっきのバスが去った方向を見る。隣町から高速バスに乗り換えて、この国道を更にずっとずっと遠くまで、土方くんは行くつもりだったのだろう。しばらく続く平地を過ぎて、やがて行き当たる山を登って峠を越えて、長いトンネルを抜けて。
 高校生には地の果てみたいに思えるだろうこの場所で、休みだろうが厳寒期だろうが朝早い家の暮らし。泥や肥料のにおい。いずれ、歳の離れた腹違いのよくできた兄貴が跡を継ぐ。よくできた兄貴は都会暮らしのあいだ、幼馴染みの彼女を地元で待たせていた。彼女は今は親の居酒屋を切り盛りしているが、ふたりはじきに一緒になるのだろうと誰もが疑わない。
−−今さらごめんなさいはないわな。うん、ない。
 あれは夏だった。いつもの、一番奥のテーブル席で、彼にしては珍しく、目が据わるほど酔っていた。日本酒の冷やのせいかも知れない。煙草の煙の向こう、男は薄く笑っているように見えた。土方くんによく似た顔をして、きれいな黒髪を額の真ん中で分けている。その下の目が、卓の一点を見つめていた。
−−もう飲むな。嫁さん、心配してるぞ。
 俺は小声で言った。実際、カウンターの中の看板娘が、さっきからちらちらとこっちを気にしている。
−−まだ嫁さんじゃねぇ。
 ふて腐れたような声が、弟にそっくりだった。
「先生」
 土方くんが俯いたまま呼んで、俺はうん?と上の空で答えた。
「先生もいつかは戻るんだろ」
「んー、まあね。たぶん。元々こっちじゃないし」
 だよなあ、と言いながら、土方くんも顔を少し持ち上げて、国道の先を見つめた。片道二車線の幹線道路。JRの線路も逸れて通るこの土地では、掛け値なしに生命線だ。
 行くも戻るも。
「この道を行くしかねぇんだなあ」
 俺は煙草を踏みつぶしながら言った。
「出ていくのも、帰るのも」
「……うん」
「兄ちゃんは出ていって、戻ってきた。お前はお前で好きにすりゃいいじゃないの。出ていってそれきりでも、たまに元気に帰ってくるんでも。もうじきだよ。べつに今日じゃなくていい」
 教師生活も数年を経て、俺も、自分の言葉がまっすぐに生徒に届くなんていう幻想は持っちゃいない。授業の内容にしても、こういう雑談であっても。ただ、思いもよらない場面で期待もしていない相手からふっと投げかけられた何気ない言葉や微笑みが人を支えもし、絶望させることもあるのだということは知っている。今、思い詰めている土方くんの横にいるのは(成りゆきで)俺なのだから、なるべくなら彼に届く言葉を言ってやりたかった。
「まあ、あれだ、……お前はきっとだいじょうぶだよ」
 それでも、俺はそれくらいのことしか言えないのだ。語彙の乏しい国語教師だな、と苦笑いをする。
 だけど、見下ろした土方くんはゆっくり頷いた。しゃがみこんだまま腕に半分顔を埋めて、それでも二度、三度と、寒さに震えながら頷いた。
「帰って風呂入ってあったまって、なにもなかった顔で飯食って寝ろ。明日目が覚めたら、ちょっとは違う気分になってるさ」
 土方くんが深呼吸したのが聞こえた。ぎくしゃくと膝を伸ばして立ち上がり、バッグを掴む。
「重そうだな。なに入ってんだ」
「……服とパソと、あ、あとバター」
 ちょうど持ち上げられたバッグの中でカシャンと音がして、土方くんは缶入りバターを思い出したらしかった。
「バター?」
「うちで作ってるやつ」
 土方くんは瞬きした。照れながら誇らしげに。
「……センパイんとこに世話になるつもりだったから、土産にしようと思って」
 俺は自然と微笑していた。
「そりゃあ……いい話だな」
 土方くんはバッグを背負い、冷たい風に吹かれて、一人で国道を引き返していった。たぶんもうすぐ俺の身長に追いつくだろう、薄い背中をバッグの重みに少し丸めていても、去年より間違いなく大きくなった彼の後ろ姿を、俺はしばらく見送った。
 だいじょうぶだよ。お前はだいじょうぶだよ。あと二回冬を越したら、きっと笑いながらこの道を通って羽ばたいていく。こんなくそ寒い夕方じゃなく、晴れた明るい昼間に。
 今日のことなんて笑い話にして。
 濃くなりつつある闇に彼の影も溶けた頃、ポケットの中の携帯が震えた。
「はいはい」
「銀八? 遅いけどどうかしたのか」
「すぐ行きますよー」
 喧騒を聞きながら原チャリのサドルを撫でると、冷えきっていた。
「道草食ってんじゃねぇぞ」
「ばっか、あんたの弟くんの進路指導してたんだよ」
「へえ」
「なあ」
「うん?」
 やっぱり声もよく似てるなあ、なんか変な感じ。
 俺はさっきの土方くんみたいに深呼吸をした。
「俺やっぱり、あいつらの卒業に合わせて異動できるようにしてもらうよ」
 少しの沈黙。サドルをひと撫でするあいだくらいの。
「そうか」
 彼は煙草を吸って、吐いた。
「こないだは、もうしばらく田舎もいいかなって言ってなかったか」
 首を反らして仰ぐと、いつの間にか雲は風に払われ、凪いだ空に白々と半月が上っていた。
「うん。気が変わった」
「そうか。……とりあえず来ないか。鍋、煮詰まっちまうぞ」
「おう、待ってて」
 電話を切って、それでも二分くらい、俺はそこに立ち尽くして、トラックの轟音に揺さぶられながら、夜の国道の先を眺めていた。それから『おきた』に行くために原チャリを押して道に下りた。












「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -