必死の思いでぶつかった俺を軽くいなすように旦那は、「後悔するんじゃねえかなあ」などと言った。顔を上げると、眠そうに目をしばたたきながら耳に小指を突っ込んでいる旦那が目の前にいて、気が抜けた。俺は膝の上で握りしめていたこぶしをほどいた。指がぎくしゃくした。

「俺は思いつきでこんなこと言ってるわけじゃありません」

「うん」

旦那は足を組んで曖昧に笑った。万事屋を訪ねても、新八くんがいなければ茶の一杯も出てこないのはまあ当然といえば当然だが、俺はやたら喉が渇いていて、続けざまに唾を飲みこんだ。ごくりという音が、旦那にも聞こえたかもしれない。

「だめ、ですか」

「……」

「俺じゃだめ、なら、しかたないです。けど、副長の部下だからだめ、なんて言わないで欲しいです」

俺の声はしだいに小さくなっていき、俺は情けない気持ちで肩を縮めた。前髪が垂れてぱさりと鼻にかかる。沈黙が落ちて、秋の日差しが弱くテーブルに伸びているのを、俺はぼんやりと眺めていた。

「なあ、ジミー」

やがて旦那がおかしそうに言った。

「めんどうだめんどうだって思いながら、なんでこうやってややこしいことに足を突っ込んじまうのかな、人間って」





旦那と副長が別れたのは三ヶ月ほど前のことになる。正確に何があったのかは誰も知らないだろう。俺もだ。ただなんとなく察せられることもある。二人は同じくらいわがままだし、同じくらい自分を曲げない。曲がらないものどうしが長く釣り合いを保つのは難しい。

決定打は恐らく、旦那の浮気だ。屯所で、それらしい内容の喧嘩の声を俺は聞いた。旦那は清々しく開き直っていた。俺が誰と寝てても、おめえにとやかく言われる筋合いはねえよ。あ?あんだよやんのか?てめえと俺はなんだ?恋人か?ケッ、背中が薄ら寒いわコノヤロー……

副長も声を荒らげてはいたが、よく通る旦那の声ばかりが記憶に残っている。かといって旦那のその声はまったく感情的ではなく、彼がとめどもなくぶつくさと文句を垂れ流す時の、あの調子だった。本気なのか冗談なのか判断しがたいその語り口で、旦那は副長をいわば袈裟懸けに斬りつけ、傷口にたっぷり塩まで塗って去ったのだった。

塩漬けにされた副長は表向きには淡々と忙しさにかまけることで傷心をやり過ごし、俺も含め、はじめはそわそわと心配していた隊士たちも、−−そりゃそうだよね、フリでも仕事が忙しいことにして忘れるしかないよね、てな空気になり、やがてでかい事件が続いたりしたのも手伝って、副長はすっかり昔の副長に戻った−−要するに、いつも眉間にシワを刻んで、屯所の自室にいる時はひっきりなしに煙草をくゆらせながら山積みの書類と格闘し、ろくに趣味も息抜きの時間も持たないかわりに組の要石として頼りになり、上にも下にも厳しいが本当は自分にいちばん厳しい、硬派でとっつきにくいが頼もしい、あの副長に戻ったのだと、皆、なんとなくそう納得した。





間もなく俺は旦那といわゆる大人の関係になったし、非番の日にはお茶したり万事屋で飯をご馳走になったり、緩やかに穏やかにお付きあいを深めていった。俺のミントンの試合にふらりと顔を出したり、ファミレスで容赦なく俺に奢らせたり、旦那は楽しそうに笑って俺をいじめた。横にいると、俺に合わせて少し身を屈める旦那のしぐさを、俺はとても好きだと思った。旦那の匂いや、肌の色や、声や、体温や、そういったすべてを、俺は愛した。その感情を旦那に伝えようとも努めた。そうすると、旦那はいつもぶっきらぼうに照れていた。

――ジミーは優しいなあ。

ある夜ふたりでちびちび飲みながら、旦那は柔らかくそう言った。比べられているとわかったからこそ、俺はなんだか舞い上がるような気持ちになって、この人をずっと大事に大事にしていこうと思った。副長にできないやり方で、ずっと。





寒さのこたえる冬の夜、旦那がひどい怪我をして帰ってきたと、新八くんが知らせてきた。いつものことですよ、もう呆れちゃいますよ、でも山崎さんにはお知らせしとかないとと思って、と、彼は電話の向こうで、怒っているような泣きたそうな、少年らしい声を出した。

万事屋に飛んでいくと、出迎えてくれた新八くんは、俺を見てほっとした顔をした。心細かったのだろう。旦那はこんこんと眠っていた。寝室には、包帯と薬の匂いが濃く漂っていた。旦那の顔には血の気がなかったが、深い呼吸をして静かに眠っていたので、俺はひとまず安堵した。心配する新八くんと神楽ちゃんを寝るように説得して、旦那のそばで寝顔を見守っていた。腹が立ったりはしなかった。旦那はこういう人なのだ。護りたいものを護るためなら自らを顧みることなく突っ込んでいく。誰がどんなに引き止めても。俺ができることなんて、せめてこうして傷ついた旦那の痛みを少しでも和らげる、それくらいだ。

どれくらい経っただろう。ひっそりと玄関の扉が開くのが聞こえた。子供たちは寝静まり、旦那も寝返りひとつせずに眠っている。俺は動かずにいた。迷いのない、でも遠慮しているらしい足音が近づいてきて、俺の背後で止まった。振り向かないでいることにはものすごい努力を要した。

「あ…」俺はやっと小さく咳払いした。「だいじょうぶですよ、ちゃんと手当てしたようですから」

副長は無言のまま俺の脇を通りすぎて枕元に膝をつき、旦那を見おろした。堅苦しく隊服を着込んで、堅苦しく黙っていた。旦那の眠りを妨げないようにスタンドしか点けていなかったから、副長の表情はよく見えなかったが、口許をぎゅっと引き締めているのはわかった。苦しそうだ、と俺は思った。

やがてきつく引き結ばれていた唇が僅かに緩み、動いた。声には出さず、ひとこと、馬鹿が、と吐き捨てたように俺には見えたが、違ったかも知れない。俺はいたたまれない気持ちになり、逃げるように立ってお茶をいれた。副長は悪いな、と言ったが、口はつけなかった。こちらを見ずに山崎、と呼んだ。

「はい」

「優しくしてやれよ」

「……はい」

俺はかたくなに旦那の布団の裾を見ていた。副長へのすまなさや苛立ちや反発や感謝や、色んなものがごちゃ混ぜになって頭を満たしていた。

布団が微かに動いて、俺は顔をあげた。旦那がため息をついて、目を開けた。朦朧とした目で俺を、それから副長を見た。そしてうわごとみたいに、ひじかた、と掠れた声で言った。

副長の手が伸びて、旦那の目を覆った。乱暴に言った。

「寝てろ」

「……」

旦那の唇はなにか言おうとわななき、迷い、苦笑して、やめた。副長が手を引っ込めた頃には、旦那は再びとろとろと眠りについていた。それを見届けて、副長は刀を掴んで腰をあげた。

「邪魔したな」

俺はいいえ、と口の中で呟き、首を垂れた。副長が帰ったあともしばらくそうしていた。−−なんでこうやってややこしいことに足を突っ込んじまうのかな、人間って。旦那のセリフが何度も何度も耳の奥にこだまして、俺の顔は醜く歪んだ。










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