「あれ?旦那?」

見覚えのある模様の着物がひらりと目の端をかすめて、ついつい思わず声が出た、のが運の尽き。あれえジミーじゃん、相変わらずカゲ薄いなお前、幽霊かと思っちゃったよ、足あるぅ?まあまあ座りなよ、やったぜ親父、これでツケが払えるぜ心おきなく飲ませてもらおー、とすっかりでき上がった顔と声で絡まれて(そうとしか思えないだろ?)、無理やり座らされて数十分、俺は何度目かのため息をついた。

「幸せが逃げるよーん」

「ゴフッ」

酔っ払いの、加減を失った勢いでバシンと背中を叩かれて、俺はコップの冷や酒を噴き出した。グツグツ旨そうに煮えているおでんの出汁と同じような顔色をした親父が、苦笑いしながら台拭きをよこす。ゲラゲラ笑う旦那は、赤い頬とごきげんな物言いで、確かに幸せそうだ。俺はコップを置いた。あまりいけるクチではない。旦那のペースに巻き込まれて飲んだら、賭けてもいい、あしたの朝いちで便器に顔をつっこむはめになる。

ふと、旦那の皿が気になった。

「大根、冷めてますよ」

あ?としゃっくりまじりに聞き返して、旦那は俺の目線を追った。皿には食いかけの大根が残っている。旦那は存外きれいに箸を使うから、見苦しくはない。ただ、なんとなくかわいそうだ。よく味が染みているのだろう、均等に琥珀色に染まったそいつは、俺がつかまってこのかた、一向に旦那の口に入る気配もなく刻々と冷えている。

ああ、と旦那は、意外にも照れたような顔をした。それをごまかすためか、つるりと顔を撫でた。夜風が冷たい。おでん鍋からもうもうと白い湯気が上がる。

「わりぃクセだな」

まばたきをして、旦那は大根を箸で切った。ポイと口に放り込み、サクサクと咀嚼する。ぬる燗を喉にクイと流し入れて、ほうと吐息をついた。親父ぃ、と呼ぶ。

「玉子とぉ、こんにゃくとぉ、あ、はんぺん。と大根」

「あいよ」

たかだかしけた屋台のおでん屋とはいえ、本気でツケまで乗せられたら、いったい幾らにつくんだろう、と俺はぼんやり考えた。ふっと新八くんの顔が浮かぶ。しょっちゅう旦那の後ろで、究極に呆れたような、やりきれない顔をしている。俺もいま、同じ顔をしているに違いない。もちろん、旦那はそんなことには頓着しない。

「あと、ぬる燗もう一本ね」

「あいよ。お連れさんは、」

「けっこうです!」

返事の声が大きすぎたか、親父は渋く笑った。俺はこんにゃくと豆腐しか食っていない。別にダイエット中でも、宗教上の理由でなまぐさ断ちをしているわけでもない。腹具合より懐具合が寂しいだけである。

玉子を頬張ってあちぃあちぃと騒いでいた旦那が、ようやくごくりと飲み込んで、続いてふっくらとした白いはんぺんを箸で裂きながら、少し声音を変えて、言った。

「大根てのは、残るもんなのよ」

旦那の一風変わった言動にはかなり慣れたつもりの俺も、これには咄嗟について行けなかった。はあ、という相槌が、間抜けにタイミングを外した。旦那は歯を見せて笑った。

「はあ、じゃねえよ」

「すいません」

「まあ、いいや」

「はあ」

旦那の頬がはんぺんで膨らんでもぐもぐしている。俺はウサギとかハムスターとか、そういうたぐいの小動物を連想した。とたんに、酒のせいでなく顔がカッと熱を持った。思うに、それらの動物は、「かわいい」というジャンルに括れるものだからだ。

こっちの勝手なあたふたをよそに、旦那はこんにゃくをつまんだ。横顔が艶然と微笑んでいる。

「いじましく大根を残すような男になっちゃいかんよ、ジミー」

「は、はあ」

やっぱりよく分からなかったが、どうやら逃げ出した方が良さそうだ、と俺は判断した。腰を浮かせて薄っぺらい財布を出して、怯えながら、おいくらで、と聞いた。

「じゃあこんだけ置いてって」

旦那は悪びれもせず指を立てたが、ありがたいことに、予想よりはだいぶ浅い傷で済んだ。なんだそれならもう少し飲み食いすりゃよかった、と帰り道で俺は思った。ひどく寒い夜で、屯所に帰り着くまでにすっかり指がかじかんだ。



翌朝、えらく不機嫌そうな副長にオイ、と呼び止められて、俺は身を縮めた。思えば副長は、昨日非番のはずが急な捕り物が飛び込んだせいで、ろくに休んでいないはずだった。疲れと苛立ちでひくつくまぶたと、どんよりと濁った目の下に、どす黒くクマが浮いていた。

「な、なんでしょうか」

「夕べは要らん金を使わせたみてぇで、悪かった」

「は、はい?」

「一応、返しとく」

副長は素早く、畳んだ札を俺の手に捩じこんできた。何がなにやら分からずにいる俺に、副長はそそくさと言った。

「アレだ、八つ当たりだから、気にすんな。俺が昨日約束破っちまったもんだから、アレ、な」

早口に曖昧なことをまくし立てておいて、副長はいきなり何かに気づいたようにピタッと口を閉じ、そして忌々しげに舌打ちをした。

「って、なんだって俺はてめえに言い訳してんだ?ああ!?」

「知りませんよ!」

「くっそムカつく」

理不尽な拳骨を食らって、気を失うまでの間、いい感じのスローモーションの中で、俺は、ああ、なんだそういうことか…昨日のちょっとしたトキメキ、損したなあ、なんて、クラクラとクラクラと、とりとめなく考えていた。大股に俺を跨ぎ、ずかずかと去っていく副長の足が、かすんで見えた。








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