「風がつええな」
やつが独り言みたいに呟いた声がやけに耳たぶを心地よくくすぐって、俺の意識はやっと浮上した。本当だ。風が体じゅうを通り過ぎていく。ついでにと言っちゃなんだが、体じゅうが痛い。ずっしりと重いのに、胸のつかえが取れたように気持ちは軽い。すっからかんだ。隣に座ってぼけっと晴れた空を眺めている万事屋を「きれーだな、こいつ」とか思ったくらいだから、相当に軽くなっているらしい。脳が。たぶん。
「あ、鯉のぼり。屋根よりたーかーい、こいのーぼーりーってか」
万事屋はいつもの低いテンションで口ずさみ、ケッとわらった。
「屋根より高くねぇじゃねぇか。しけてんな」
「…てめぇ、昨今の住宅事情や少子化について考えてから言えや」
万事屋はちょっと驚いたように眠そうな目を開いて俺を見下ろした。
「あれ、起きてたの、多串くん」
「てめぇがボケ老人みてえにぶつぶつ独り言垂れ流すからだろうが」
腹に力を入れて起き上がった。よく晴れている。瓦を下敷きにしていた背中がミシミシいった。
「…なんでここにいんのか、よく分からねぇんだが」
煙草を探しながら俺は言った。袂に、潰れた箱があった。一本出したらひしゃげていた。まあ、構わない。
万事屋がものすごく嫌そうな目で俺を見た。
「おめー、都合のいい頭してんな。羨ましいわ。それともアレか、おめーこそ軽いボケが始まってんのか」
「はぁ?」
首をコキコキ倒しながら記憶をたどった。いや、ちゃんと覚えるぞ。確かに夕べはこの野郎と行きつけの飯やで出くわして、こいつは例のごとく奢れだ甘いもん食わせろだやれ酒持って来いだと俺にさんざん迷惑をかけ、周りの客も面白がって酒を勧めるもんだから俺もついつい調子に乗って、…アレ?
『お二人さん、よく似てるねぇ』
『似てねぇよ!!』
二人してそう言い返し、なんだコラ俺に似てるなんて最高の褒め言葉だろうが、ふざけんじゃねぇ、俺の頭はそんなクルクルしてねぇぞあほづら、とか、胸倉掴み合って唾飛ばし合った、ような、気がする。
「ケガでもさせたか、勢いで」
煙が目に染みる。吸い込んだ体に悪い成分で、頭がクラッとした。
「おめーにケガなんざ頂く銀さんじゃありませんよ、と」
めんどくさそうに憎まれ口を叩きながら、それでも万事屋は、無意識にか左の肩をさすっていた。てめぇも痛てぇんじゃねぇか、ざまあみろ。
「ったくよー、」万事屋は眉を寄せた。「おめーってやつは、一本線が切れると手ぇつけられねぇな。絡むししつこいし。おめー実はモテないだろ。なんかよーくわかったわ。押してばかりじゃダメですよ、ってね」
「あ?」
くわえ煙草から灰が散る。煙草のせいじゃなく、俺の心臓は不規則に何度かジャンプした。
まさかそんな。言わなくてもいいことを言っちまったとか、しなくてもいいことをしたとか、そんなまさか。
「俺…なんか言ったか…?」
こわごわ聞いた。風が、万事屋の着物を吹き抜けるのが見える。銀色の髪が朝日にキラキラ光る。
そんなこと、
「まあおめーの気持ちは分かるよ」
「……あ、の、」
万事屋はため息をついた。
「困った上司と困った部下の板挟み、アブナイ奴らの跳梁跋扈、マヨ中毒に苦しみ、ストレスで将来ハゲ散らかすんじゃないかと悩む気持ちはよく分かる」
「…はい?」
「だからって」万事屋はやれやれと言いたげに首を振った。「日付が変わったとたんに、またひとつ歳食っちまったっておいおい泣き出さなくても」
さっきとは違う意味で頭がクラクラした。嘘だろ。やたらと喉が渇いている。
「こどもの日が誕生日だなんてかわいいじゃねぇかって慰めてやったらよけい『どうして人は子供のままでいられないんだろう…』なんつって遠ーい目しやがるし、もう、殺意さえ覚えたね、俺は」
俺は両手で顔をこすった。断片的に蘇る記憶のひとつひとつが、俺を、穴があったら入りたい気持ちにさせた。いやもうこの際、自ら穴を掘って埋まりたい。
「で」万事屋は片膝をたて、にやりとわらった。その唇の形がいいななんて、俺はほんとに終わってる。その唇が動くのを、息を詰めて見つめてるなんて。
「屋根より高いところに行くんだー、鯉のぼりになるんだー、と訳のわからないことを喚く真選組副長さんを、優しい俺が宥めすかしてわかったわかった屋根までなら連れてってやるよ、つってここまで引っ張ってきてあげました、チャンチャン。思い出しましたかー?」
「…なんとなく…」
回らない口で悪態をつきながら夜明けの空を待って、足元が滑りかけて万事屋の手が腕を掴んで、目が合って、
この、唇に、あれ…?
「おかげで神楽に蹴り食らうわババアに怒鳴られるわ、いい迷惑」
そう言いながら、万事屋は歯を見せてまたわらった。皮肉と、人をおちょくるような嫌味さと、その裏にほんの少し見える人間味みたいなもの。お前のその笑い方が、あんなに気に食わなかったその笑い方が今は、
「悪かったな、絡み酒でよ」
「まったくよー」
「あー頭痛てぇ」
「自業自得」
「もう二度とてめぇとは飲まねぇ」
「こっちのセリフだ。ちょ、視界に入らないでくれる、うっとうしい」
「鯉のぼりなんてどこにあんだよおい」
「自分で探せや。あ、老眼?」
「糖尿」
柔らかい髪に触れて、唇に噛みつくようにキスをしたような、霞んだ記憶は、夢かうつつか、確かめる気はないが、たぶん、こうして言い争って屋根から鯉のぼりを見下ろして過ごすこの時を、忘れることはないのだろう。
110505 ひじ誕
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