古びた駅舎の庇から、雪が溶けてピタンピタンと落ちている。眠気を誘うような穏やかな音。駅前の小さな小さなロータリーはまだ一面雪景色だが、そこに差す午後の光はうららかで、腕にかけたコートを着込む必要もなさそうだった。春は近い。

初めて降りる駅だった。こういう時俺はいつも、自分が子供にかえってしまったように感じる。右も左も分からず、目に映る世界は未知のものばかり。行き違う人々も、まるで言葉が通じないかのよう。

大人になってからはもちろん、そういう体験もむしろ面白がる余裕ができたが、一度だけ、本当に迷子になった子供のように途方に暮れたことがある。その時、世界はがらりと変わってしまった。冷たく、無彩色で、息苦しかった。

彼が姿を消した時のことだ。





駅の敷地を出てすぐのところに、ところどころ錆びついた案内板があった。四季折々に表情の異なる、ゆたかな自然と調和したくらし、をうたっているらしい。まあ、都会から少し離れれば、日本中どこでも見かけるたぐいの決まり文句だが、山が見下ろすすり鉢みたいなこの町には、ハンググライダーやカヌーの体験施設や、鍾乳洞もあるらしい。へぇ、と俺は声に出して呟き、さっきの、ピタンピタンと水が落ちる音を思い出した。

土地土地で、こういった看板や観光マップを眺めるのは、俺の子供っぽい楽しみだ。仕事で訪れ、たいてい一泊、せいぜい二泊するだけだから、当然、それらの観光スポットに行けるわけもない。ただ眺め、へぇと言い、次の町に着く頃には忘れている。この数年のあいだに、俺はそうやってやり過ごすことを覚えた。深く関わらず、すぐ忘れ、とどまらない。車窓を流れる景色のように、俺は過ぎ行く時をただ傍観している。古い友人たちはそんな俺を変わったと歎くが、俺もしたくてそうしているわけではないのだ。時間が薬になるとよく言うが、俺にとっては逆だった。時が経てば経つほど、今は色褪せ、過去ばかりが輝きを増す。





「土方様、お待ちしておりました」

きりりとした和服の若女将が、にこやかに出迎えてくれた。いかにも疲れたサラリーマンが連れもなく玄関を潜っても、うさん臭そうにはされなかった。小石を敷き詰めたような土間はきれいに掃除され、石が光って見えた。案内された和室もまだ新しい畳の香りがして、ひとまず座卓に落ち着いた俺はほっと肩の力を抜いた。

今日は金曜だ。午後までかかると踏んでいた仕事が昼で終わって、ぽっかりと時間が空いた。本来ならまっすぐ東京へ帰るところだが、昼飯を兼ねて入ったコーヒーショップで、隣席の客が見ていたパンフレットに目がいった。

−−静かな時という贅沢を。

ありふれた、そこらじゅうの温泉地がこぞって宣伝に使う決まり文句だ。なのに俺は、少しの間動けなかった。パンフレットの表紙には、冬用なのだろう、両岸が一面雪に覆われた中を蛇行する、冷たそうな川の写真が使われていた。

もう三月だ。こんな景色は望めないだろうと思いながらも、俺は常にない行動に出た。見ず知らずの人に声をかけ、それはどこのパンフレットかと尋ねたのだ。彼女−−落ち着いた主婦らしき女性だった−−は驚きつつも親切に教えてくれ、見ていただけだからと、パンフレットを俺にくれた。駄目元で電話してみたら、部屋は空いているという。日頃泊まり歩くビジネスホテルの軽く倍の室料はするが、たまには構わないと俺は即断した。どうしてか、自分でもよく分からない。

障子を透かして西日が差し込み、俺をゆっくりと暖めた。このままうたた寝してもいい。日が落ちる頃に露天に浸かって、飯を食って、夜中に広い浴場で貸し切り気分を味わうのもいい。朝湯もオツだな。帰りは何時になったっていいのだから、のんびり遅い朝を過ごして、土産物屋を冷やかして駅に向かおう。

思えば、仕事が出張ばかりのせいか、改まって旅などしたことはなかった。前の彼女とも、日帰りでディズニーランドへ行ったのが、一番の遠出だったほどだ。こんな男、そりゃ嫌気がさすよなぁ。

そんなことを考えているうちに少しうとうとした。座椅子にかけたままだったが、随分よく寝た気がした。鼻歌を歌いながら予定通り露天風呂から落日を眺め、部屋で地元の牛肉の陶板焼きをメインにした夕食をとった。もうちょっとすれば山菜が旬ですよ、と明るい仲居が言ったが、根菜の天ぷらも旨かった。

パンフレットを見てきた、と言ったら、仲居が、それならこの近くの橋から撮ったものだと教えてくれた。食後の一服をしているうちに、見に行ってみようという気になって、浴衣にどてらを羽織ってふらっと宿を出た。足はたちまち冷えたが、アスファルトに下駄がカタカタ鳴るのが、なんだか爽快だった。

「ああ、ここか」

思わず声に出した。小さな平凡な橋の中程に立ち止まり、コンクリートの欄干に腕を置いた。目の下に、雪解けで水嵩が増しているのか、パンフレットの印象より勢いよく流れる川があった。川岸はまだ、固そうな雪で埋められている。下から吹き上げてくる冷たい夜風が頬に当たった。つけて貰ったビールでふわふわしていた視界が、不意にはっきりした。

…あれは…人?

右手の川岸をザクザク歩く影がある。まるでめちゃくちゃに怒ってでもいるように、足を高く上げてずかずか岸を進んでいる。酔っ払ってふざけているのか、と思い、すぐに違う、と思い直した。影はまっすぐに川へ向かっている。足首まで雪に埋まるのも構わずに。

「おい、」

俺が欄干から身を乗り出して声をかけると、影はびくりとしてこっちを見上げた。ダウンのフードが風に煽られ、ふわりと髪の毛がなびく。月明かりに照らされて、まるで銀色に見え、る、

「銀時!」

出したことのない、咆哮のような声が出た。影は茫然と立ち尽くし、やがて土方、と水音に掻き消されそうな震え声が聞こえた。

それから、たぶん二、三分のできごとだったろう。銀時は身を翻して逃げようとし、だが下駄を脱いで土手を駆け降りた俺の方が速かった。気がつくと、俺は必死に銀時を抱きすくめ、銀時は俺の腕にしがみつくようにして、泣き声ともうめき声ともつかぬ押し殺した声をあげていた。二人とも荒い息をして、雪まみれだった。

「つめてー…」

俺の声が震えたのは、浴衣の下の足や腹までざらめ雪が飛び散って、裸足の足は血だらけなんじゃないかと思うほど、ジンジンと鋭く痛んでいたからだ。抱きしめた銀時の身体からは、知らないうちの匂いがした。だが、体温を分け合うように鼻をうずめた冷えた銀色の髪からは、昔と少しも変わらない、銀時の匂いがした。

土方、土方、と掠れた声で呼んで、銀時はしだいに身体を丸めていった。雪に隠れてしまいたいとでもいうように、ざらざらの雪に伏してゆく。

「銀時、いいから」

俺は言った。何を口走っているのかよく分からないまま、いいから、大丈夫だから、な、とりあえず風呂入ってあったまろう、ととりとめなく、俯した背中を撫でながら言い続けた。雪を払い、真っ赤になった指を握り、大丈夫、と何度も言った。

やがてのろのろと起き上がりながら、銀時はくしゃくしゃの泣き顔で、でも少し、笑った。

「泣くなよ、土方」

かじかんで震える指が、そっと俺の頬を撫でた。まるで、俺の輪郭を確かめるように。俺も同じようにした。銀時の頬は、記憶にあるものより少しばかり痩せたようだったが、それはお互い様だろう。俺の胸に耳を押し当てていた銀時は、やがてため息をついた。

「土方の心臓の音がする…。これを聞いてた頃は、とてもよく眠れたんだ…」

俺はきつくきつく、何年かぶりに、幻ではない現実の彼を抱きしめた。





女将は驚いたに違いないが、すぐに内風呂と寝具や夜着をもう一組用意してくれた。雑炊ならすぐできると言ってくれたので、ありがたく甘えることにした。

銀時が風呂を使っているあいだ、やたらと煙草を吹かしながら、散り散りになる感情をどうにか落ち着かせようとした。聞きたいことも言いたいことも、どこかの詮が抜けたように一気に湧いてきて、何がなんだか分からなくなった。

だが、幾らかほてった顔で、銀時が部屋に戻ってきた、その、困惑したように伏せられた目元を見た瞬間、言いたいことはたったひとつになった。

「会いたかった、ずっと」

銀時は息を吸い、それから、俺を見て、泣き笑いみたいな顔をした。

「……馬鹿だな、お前も、俺も」

懐かしい声だったが、それは昔より少し柔らかく、感情的に聞こえた。

「雑炊、食えよ。そして話をしよう」

銀時は頷いて、ゆっくり俺の向かいに座った。目が潤んでいた。

そうだ、話をしよう。俺はお前の話が聞きたい。今はただ、それだけだ。その結果、俺たちがあの駅から同じ列車に乗るか、それとも向かいのホームに立って行き先の違う列車を待つか、それはまだ分からない。たまたま同じ駅に流れ着いただけなのだから。

だが、どうするにしても、明日はもう一度あの橋へ行こう。明るい光の中で、輝きながら流れる、春間近の川を一緒に見よう。










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