いつものように、ホームの一番前の乗り場で、俺は電車を待っていた。携帯をいじりながら、iPodから耳に入り、脳を揺する音楽に合わせて、つま先でトントン床を打って。

火曜日の23時。人影はまばらで、薄暗い明かりがぼんやりと周りを照らしていた。秋の、うそ寒い夜風が、薄いコートの裾を裏返す。

パーティピーポー、レッツハバナイスナイト、カモンベイベ、ドンビーアフレイ、

ここ、ここ。ちゃらちゃらしたリフレインが好きだ。トトト、とつま先が細かいリズムを刻む。

−−間もなく、一番線に電車が参りまーす。

エコーがかかった、聞き慣れたアナウンスが音楽越しに聞こえた。いつものくせで、電車の来る方に目をやる。駅の手前でカーブしている線路がぼんやり明るくなり、すぐに、闇を払うようなライトが眩しく光りながらこちらを目掛けてやってくる。

すっかり見慣れた一瞬が、しかし、今日はいきなり視界を横切った影に遮られた。

黒い髪が風になびいた。若い男。雰囲気がおかしかった。斜めに俺の視界を進んで、まるで何かの術にかかっているような気軽な足取りで、片足が黄色いラインを跨ぐ。その先は、

何もない。

ぐんぐん近づいてくるライトが男の顔を照らした。もう既に半分生きていないような無表情だった。

パアーンという警笛とブレーキ音が鳴り響く。ああ、厭だ、





「なにしてんの?」

振り返ると、へらへら笑う変な男の顔が見えた。銀色の髪、小洒落たコート、耳からそのコートの中へ、白いイヤホンのコードが伸びていた。

「え?」

「だから、なにしてんの?」

ナンパでもしているような軽い口調で、またそう言った。口調とは逆の強さで、男の手はがっちり俺の腕に食い込んでいた。

「やめなさいよアホらしい。ここでそんなことしたら、運転手さんも掃除する人も大迷惑だよ。何より俺が気分を害するから、やめて」

やめて、を、彼は本当に厭そうに眉をしかめて切るような口調で言った。俺は、馬鹿みたいに見返した。轟々と風を連れて、電車がホームに入って来る。男の顔が、ライトを浴びてフラッシュを焚かれたように白く光った。





男は、乗客を乗せて走り去る電車を、ぼんやり眺めていた。この駅で降りた客たちが、足早に階段を下りていく。靴音と喧騒が遠ざかる。しんとしたホームに、彼と俺だけが残された。

黒い髪が最後の風にふわりと煽られ、ゆっくりと元に戻る。と同時に、彼は深く長い息を吐いて、強張っていた肩から力を抜いた。そうすると、首がすうと伸びて、彼はやっと少し人間らしく見えた。

「どうも、ご迷惑かけました」

白っぽい唇から、感情の汲み取れない平たい声が洩れた。彼はまだ、俺を見ない。もう見えなくなった電車のゆくえを見ている。ぽっかりとひとすじ穿たれた穴を、静かに目で追っている。

「じゃあ」

彼は軽い会釈だけして、俺の手を抜こうとして腕を動かそうとした。さらりとした薄いコートを着ている。その滑らかな手触りがすり抜けていかないよう、俺は再び力をこめた。

「よしなよ、もう、今夜はケチがついただろ」

「何もしませんよ」

「嘘」

「嘘なんて」

彼はやっとこっちを見たが、黒い瞳は、どことなく違和感を湛えていた。本当はこんな、愛想笑いなんて浮かべる男じゃないのだろう。昏い二つの倦んだ目に、貼り付けたようなそんな笑い方は似合わない。

「うち、来たら」

「はい?」

男は怠そうに首を動かした。ギシギシ言いそうな、ぎこちない動きだった。

「あんた、休憩した方が良さそうな顔してる。うちでちょっと寛いでいきなさいよ」

俺の言葉に、彼は露骨に怪しむような表情を浮かべた。それはそうだろう。だが、俺はこのまま彼を放って立ち去るのがどうにも厭だった。なぜかわからない。きっと単なる気まぐれだろう。ただどうしても、今はきちんとホームの床を踏みしめている彼の両足が、この世を去るために浮遊するのは惜しいような、許せないような、そんな気がした。

「ほら」

掴んだままの腕を引くと、彼はよろめくように数歩、俺に近づいた。清潔な匂いに混じって、ふと、ふしだらな煙草の薫りを嗅いだ。

「おいで」

俺は言った。彼は微かに、唇の片端を持ち上げた。おかしな男だと思っているのに違いない。しかし、俺に引きずられるようにだが、彼はゆっくりとついてきた。階段を降りる二人分の足音が、乱れながら冷たい壁にこだました。





路地の行き止まりにひっそりとうずくまる、穴ぐらみたいなアパートだった。横手に大きな木がそびえていて、乾いた風に落ち葉の匂いがした。

俺は男について、螺旋階段を上がった。鉄の手摺りがところどころ錆びていて、てのひらを刺した。

「あんた、誰?」

背中に尋ねたら、薄手のコートの肩がちょっと動いた。

「さあ、誰でしょう。天使か悪魔か、ああ、悪い子を食べちゃう鬼かもねー」

くつくつ笑う横顔は、年齢の見当がつかなかった。

「…怪しい」

「怪しくないよー。アレだよ、公務員だから、俺」

「…最近不祥事多いっすよね」

「アイタタタ。じゃなく。ほんとは、T大の院生」

男は薄暗い廊下を進み、ひとつの部屋の前で足を止めて鍵を出した。古い照明が、天井で微かにジージー唸っていた。

「ほんとに?…俺、受験するかも知れない」

「え」軋む扉を引きながら、彼は振り向いた。「…高校生なの、あんた」

「まあ」

「あーあ」彼は銀髪を掻いた。「てっきり成人済みかと思ったわ。そりゃ若いね。若い。けど、」

狭い玄関の明かりをパチンとつけ、こっちを向いて靴を脱ぎながら、彼はニヤッと笑った。

「『受験するかも』でよかったわ。過去形じゃないわけね、とりあえず」

「……」

俺の背中で、ギイ、バタン、と扉が閉じた。まるで閉じ込めるように。よそのうちの匂いがする。いつの間にか男の足元には白い小猫が纏わりついていて、俺を見上げてニャア、と鳴いた。

はいんなさいよ、と男は言った。





彼は土方、とだけ名乗った。積み上げた文献や資料を珍しげに眺める眼からは、やっと幾らか曇りが取れて、さっきよりはだいぶましになっていた。

カップ麺しかないよと声をかけたらお構いなくとか遠慮したが、作ってやったらがつがつ食べた。そうだろうと思った。腹が減っていると、人間、ろくなことを考えないものだ。途中、マヨネーズを要求されたのにはちょっと引いたが。

旨そうに豚骨ラーメン(ただし大量のマヨネーズまみれ)を啜る彼は、今は少しだけ、幸せそうに見える。物を食う時に素顔が覗くのは、猫も人間も同じだ。土方は健康で若くて、傷ついている、つまりどこにでもいる青年に返っていた。線路に飛び込もうとするようには見えない。もっとも、自ら命を断つ人間はたいていそんなふうには振る舞わないものだ。死にたいと言いたがるやつは死なず、笑って手を振って別れたやつがその夜突然自殺する。そんなもんだ。

「…この部屋、落ち着く。雑然としてて。最近、なんか自分の部屋じゃ落ち着かない」

土方はうちの猫を撫でながらそんなことを言った。

「お前の部屋、なん畳?」

「?…六畳、くらい?」

「そりゃ狭いからだよ。うん」

大人になってから、そう思うようになった。小さなうちはともかく、高校生の男には、もはや六畳程度では狭すぎるのだ。だから彼らは遠くへ行きたがる。手足を思い切り伸ばし、深呼吸をするために。

だが、それだけなら、あんな、半分死んだような顔をして電車に身を投げようとする必要はない。

何があったのかなんて、聞くことはないだろう。俺はただ、こいつの血を浴びるのは厭だな、と思っただけの通りすがりに過ぎない。

勧めたら、土方は素直にシャワーを使い、一応こっそりやっているのだと言い訳みたいに呟いて、煙草を吸った。煙を吸って、吐く。湯上がりの身体を俺の着古した部屋着に包んだ彼は、身体に悪いその行為がまだ微笑ましく感じられるほど、普通の少年になっていた。高校生にしては大人びている。だが俺に言わせれば、最近の高校生はみな、そうだ。

「泊まっていきな。親御さんの許可を取って、からだけどな」

そう言うと、土方はくすぐったそうに照れ笑いを浮かべた。これが本当のこいつの笑い方なのだろう、と俺は思った。

「うん」

土方は頷き、おとなしく携帯を開いた。やがて、電話の向こうから母親らしい心配そうな声が伝わってきた。土方は思春期の子供らしく、ぶっきらぼうにもごもごと喋ったが、うん、と言った後、一瞬、目をこすった。俺は見ない振りをした。





アレだわね、プチ家出ってやつだわね、と最後は笑って、母さんは電話を切った。俺は急に、とても済まないと思った。

別に死にたくて仕方がないわけじゃないんだ、ただ、喪服を脱いでもどうしても線香の香りが抜けないような気がして、何もかもチャラにしたくなって、ああふわっと飛んでしまいたいなんて、それだけ。

隣りで目を閉じている男は、寝ている今も耳からイヤホンを外さない。いつもなのか、今夜だけなのか。

息遣いや体温が、徐々に穏やかに伝わってくる。知らない人なのに、心配なんて要らないと、俺はどこかで感じてる。

同時に何かが急速にせりあがってきた。あの人の骨を拾ったばかりのこの手で、俺はもう、ありふれた俗なことをしたがっている。

しかたないじゃないか、俺は生きてる。





ドンビーアフレイ、カモンジョイナス、イッツァビューティホナイ

ちゃらちゃらしたミュージック、現実味のない月明かりが青白く布団カバーを横切ってゆく。

と、いきなり左耳からイヤホンが引き抜かれた。横を向くと、土方が自分の耳にそれを突っ込んでいた。

「軽い」

きれいな形の眉をしかめて、土方は文句を言ったが、イヤホンを外そうとはしなかった。

「あんた、軽いの?」

俺は自分の腕を枕にして、彼を見た。黒い瞳が、まるで濡れたように光って見えた。

「さあ」

「つまんない歌」

「あっそ」

土方は笑った。しょうがなく、俺も笑った。少しだけ。

土方がのしかかってきた時、俺は不思議には思わなかった。彼の身体は骨っぽかった。何時間か前、電車に飛び込もうとしていたその四肢で、今彼は、俺をくまなく覆ってしまおうとしている。死の後には生が、弛緩の後には緊張があるのだ。

俺は膝で彼の股間をまさぐった。ああ、熱くて、なんだお前ちゃんと生きていたいんじゃないか。俺の肌に落ちた雫が汗か涙か、俺は考えることを放棄することに決めた。

−−生きてくって、そういうことだろ?ああ、音楽を止めてなかった。いつの間にかシーツに絡まったイヤホンから、さあ一緒に素敵な夜を過ごそうなんて、単純なリフレインが流れてる。










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