発車のベルが鳴りやむ直前、体を斜めにして飛び乗った。背中を掠めるようにしてドアが閉まる。通路からホームへ階段を駆け上がってきたせいで、激しく息が弾んでいた。向かいの席にかけている老人が、ちらりとこっちを見た。

噴き出した汗を拭いながら、動き出した車両を歩いて椅子に座った。昼近いローカル線は空いていて、乗客は年寄りと主婦らしき女性が数人、間隔をあけて座っているだけだ。

呼吸が落ち着いて、俺はため息をついて背もたれに寄りかかった。合着のスーツとワイシャツが、熱を持った肌に張り付く。全力疾走なんて久しぶりだ、と思いながら、俺はネクタイの結び目に指を突っ込んだ。

堅苦しいスーツと革靴では、走りたくてもなかなか走れない。一見薄い書類かばんも、結構重い。営業で歩き回れば靴ずれもする。外食ばかりで経費も嵩む。そういう諸々が祟って、休日は寝坊して洗濯すればもう夕方だ。半年前に別れた彼女は、最後に不満をぶちまけて去った。今からこんなんじゃ、結婚しても別居みたいになるのは目に見えてるわね。

そう声を尖らせたくせに、彼女の瞳は今にもこぼれそうな涙をこらえて、せいいっぱいに見開かれていた。よく泣く彼女が、その時は泣くまいとしていることで、俺はああ終わりにするべきなのだ、と悟った。

彼女はときおりぽつりと言った。あなたが私を好きだってことは疑っていないのよ。だけど、

だけど、で切られる言葉の余りが、いつも俺と彼女のあいだに漂っていた。どちらも言わない続きが、無風の中ゆっくりと落ちてくる雪のように、音もなく降り積もり、二人を隔てた。

その雪を溶かす努力を、俺は怠ったのだと思う。





がくんと体が前にのめって、目が覚めた。顔の半分だけに、真昼の陽光が当たっていた。かばんを椅子と体で強く挟んでいたせいで、脇腹の辺りが痛い。

目をしばたいて駅名を読んだが、目的地まではまだかなりあった。無性に煙草が吸いたい。紛らわそうと、ポケットの中のガムを探った。女子社員が冗談でくれたガムは、甘ったるい香料の人工的な味がした。

俺は好かないのに、付き合う相手ははかったようにみな、甘い物が好きだった。ケーキ、プリン、シュークリーム、チョコレート。ひとくち食べる?と聞かれて首を振ると、相手は笑った。そんな嫌そうな顔しなくても。じゃあ、全部食べる。

ひとりだけ、聞きもしないやつがいた。ひとくちいる?とか聞かないかよ普通。あ?だって、どうせ食べないじゃねぇか、土方。いるって言ってもやらねぇけど。

抱きしめると甘い匂いがした。甘い物は嫌いでも、その匂いは中毒したように好きだった。背丈が変わらないので、抱きしめるたび、俺の鼻先は綿菓子みたいな柔らかい髪にくすぐられた。

たったひとり、男だろうがなんだろうが構わないと思った、彼。

土方はまじめだからさ、きっとつらくなるよ、いつか。

未来を占うように遠い目をして、彼は言った。頬杖をついて、もう片方の手でクリームソーダのグラスをスプーンでくるくる掻き混ぜながら。俺ではなく、窓の外の景色を見ていた。

俺はそうは思わない。

頑固に否定したら、彼は言い返すことはせずにほほ笑んだ。同い年なのに、聞き分けのない子供をいなすような顔をした。





ホームがゆっくり後ろに遠ざかると、ぽつりぽつりと民家があるほかは、稲刈りを終えた田んぼばかりの景色になった。夏に来た時は、水が張られて青々としていたのに、今は刈り株だけが点々と残って、寒々とした眺めだった。

週末東京に戻ったら、冬服とコートを出さなければ。手袋は去年の物でいいだろうか。うつらうつらしつつ、そんなことを考えた。

彼女と別れてから、正真正銘、週末しか人の出入りがなくなった部屋は、埃とかびと、染み付いたヤニの臭いがする。帰ったら真っ先に窓を開けて空気を通す。使われなくなった台所も、薄く埃を被っている。そういえば、みりんやら何とかソースとか、彼女が残していったものがそのままだ。大掃除というほどおおげさなことはしないが、一度色々と処分しなくては。

学生時代から住んでるんでしょう?そろそろ移ろうとは思わないの?

彼女が笑いながら聞いた時、曖昧にうんそうだなと言った。彼女は台所から振り返って俺を見て、笑顔のまま痛そうな目をした。俺は気づきながら、俯いて煙草を吸っていた。

過去の恋人は、あいつだけじゃない。なのに、恋しく想うのは彼ひとりなのだ。あいつの持ち物は何一つなくなり、家具が変わり、隣でほかの人が眠るようになっても、なお。

彼が何も言わずに消えたからだろうか。彼は思い切ったことをした。荷物をすべて持ち去り、携帯は潔く繋がらなくなっていた。彼のアパートの部屋はきちんと引き払われ、隣の住人も大家も、引っ越し先は聞いていなかった。共通の友人も同じだった。だがその誰もが、あいつはきっとそこかしこに頼れる友達がいるだろう、と請け合った。俺は途方に暮れるより、できることはなかった。

時間をかけて、俺は少しずつ理解した。俺に内定が出て間もなくだったこと、周りの友人に関係がばれかけていたこと、俺には地元に家族があるが、彼は天涯孤独の身であったこと、俺とどんなに愛し合っても、どことなく、いつもひとりで風に吹かれているように見えていたこと。

お前は、確かに俺のすべてだったのに。そして俺も、お前のすべてだったはずだ。だからこそ、ああして魔法のように消えるしかなかったのか。





何度目かのうたた寝から浮上して、俺はガムを口に入れたまま寝ていたことに気づいた。その甘ったるい香りは既に消え、味のしないただの冷えた固まりになっていた。

俺はガムを始末し、買っておいた水を飲んだ。そしてかばんを開け、書類を取り出した。夕方前には、次のお得意先に着くだろう。担当区域が広いので、始めの頃は相手を混同して馬鹿なミスをやった。だから今でも、必ず確認をして頭の中でプレゼンの文句をおさらいする。

だが疲れが溜まっているのか、どうも頭がしゃっきりしない。煙草が吸えないことに苛々しながら、缶コーヒーを買おうかと迷う。飲めばますます煙草が欲しくなるのは分かっているが、どうにも口寂しい。甘ったるいガムはもう要らない。

よし買いに行こう、と決めて立ち上がろうとした時、はす向かいの席にひとりで座っている女性が目に入った。俺よりはだいぶ年上だろうが、おばさんと呼ぶにはまだ少しためらわれる。痩身で、地味な身なりをしていた。顎までのまっすぐな髪が、つやつやときれいだった。

彼女は窓の外を見ていた。顔を背けるようにはしていたが、俺からは、彼女の繊細な横顔に涙が伝っているのが見えてしまった。彼女は、むせび泣くでも肩を震わせるでもなく、静かに、ただ涙を流していた。唇を放心したように軽く開いて、どこに力を入れるわけでもなく、涙だけがするすると頬を伝わって落ちた。

俺は浮かしかけていた腰を下ろし、彼女とは反対側の窓に顔を向けた。動揺していたが、同時に感動といっていいような感情が、電車の揺れと共に込み上げた。

彼女の涙が何のためのものなのか、俺は知らない。親しい人を亡くしたのか、どこか患っているのか、あるいは誰かにひどいことを言われでもしたのかも知れない。

−−いや。

彼女はきっと、愛する人から去ることを自ら選んで、この列車に乗ってその人からどんどん離れてゆく途中なのだ。大事なものを切り離し、今まさに去ろうとしている。あの静かな涙は、進んで引き受けた痛みと喪失の涙なのだ。

もちろん、なんの根拠もない。すべては俺の想像、いや空想でしかない。ただ−−

あいつもきっと、列車の中で、あるいはバスで、もしかしたら飛行機の窓から雲を見下ろしながら、彼女と同じように静かに涙を流したに違いない、と思った。俺との距離がどんどん開いていく、見えなくなる、届かなくなる、その途上で、一度だけ、涙を。

なあ。

俺の携帯の番号は変わっていないよ。

住所も、当時と同じ、あの、二人には狭いと文句を言いながらお前が入り浸っていた、あの部屋に今も住んでいるんだ。縛られたように。

お前も泣いたのかも知れないが、置いていかれた身にもなれ。お前は俺を自由にしたつもりかも知れないが、時が経って、お前の名残りも消え去ったのに、俺は動けないんだ。別れの言葉さえ、聞いていないのだから。

「なあ、…銀、」

囁きかけたガラスが、息で曇り、ゆっくり薄れた。冷たいガラスにこめかみを押しつけて、目を閉じた。

風のように消えたなら、風のように戻ってこないか。季節風って、習っただろう?あんなふうに、その、季節だけでも、いいから。

アパートの向かいの空き地には、去年コンビニができた。お前が昭和っぽいと気に入っていた喫茶店は、なくなったよ。じいさん、いい歳だったもんなあ。

俺は変わらず、いるよ。動けないまま。そんなはずないだろうと高をくくって、戯れに覗いて見ろよ。郵便受けに、ちゃんと土方と書いてあるから。

列車は速度を上げ、俺と名も知らない彼女を乗せて、寂漠と枯れた景色の中を走り続ける。唸るような車輪の音が、希望と絶望を交互に占っているようだ。










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