微かに塩素くさい水からざばりと顔を上げて身体を起こしたら、目の前にだらりと垂れた白い手があった。ストップウォッチをぶら下げているが、指を動かす気配もない。ゴーグルを外して見上げると、あぐらに片肘を突いてぼんやりと遠くを眺めている坂田の喉仏が、やけにくっきり見えた。

「おーい」

声をかけたら、坂田はやっと俺を見下ろした。瞬きして、手の中の時計を見る。

「なんだって!?1時間20分だと?おめー、いつの間に海まで行ってきたの」

「てめぇこそどちらにいらしてたんですか。俺がプールに入ってから30分も経ってねぇんですけど」

「嘘ー。嘘だろー。嘘つきはドロボーの始まりー」

「そっくりそのままてめぇにお返しするわ」

身体を流れ落ちる水を感じながら、俺はプールの縁に腕を突いて水から上がった。とたんに、重力がのしかかる。まるで、俺を不自由な鎖に繋ぐように。

坂田は器用にスターターブロックにあぐらをかいて、水着いっちょに部のパーカーを羽織っている。いつもふわふわしている銀髪が、水を吸って、少しだけペたりと首筋にまとわり付いている。

室内プールは常に水音と誰かの声が反響している。波紋ができ、しぶきが跳ねる。ここには、必要以上に水がある。なみなみと、掬っても掬ってもなくならない水が、いつもそこにある。ほてってもほてっても、頭を冷やせというように、すぐ傍に大量の水がある。

坂田が首をひねると、ポキポキと乾いた音がした。

「あー、だりぃ。多串くん、ちょっとイチゴ牛乳買ってきて。そろそろお薬の時間だから」

「うるせ。誰がパシるか。ついでに、俺の名前は土方だ」

坂田は紅い瞳をくるりと動かして俺を見た。水で漂白されたように白い肌の中で、その瞳の色はあまりに鮮烈だ。もっとも、たいてい眠そうに半眼にしているから、さほど目立たないのだが。

坂田はヘラリと唇を緩めて笑った。

「そうだっけ?アレ、飼ってた金魚がでかくなり過ぎて学校のプールで泳がせてた多串くんじゃなかったっけ?」

「…どんだけキテレツなエピソードだよ。そんなやつ、いるならお目にかかりたいわ」

濡れた身体から、たらたらと水が流れる。背中から雫が伝って腰のくぼみに落ちるのを、俺は感じた。まだ息が弾んでいる。顔を拭うと水と汗が飛んだ。

−−海に突き出した半島の山の中腹に、俺たちの高校はある。前は海、後ろは深山。野郎ばかりの全寮制。市街地に下りるには、山道をちんたらバスに揺られて約30分。途中で見かけるのは畑の中のジジイとババア、たまに牛。ごくまれに、轢き殺された犬猫。

健康な若いガキどもがそんな場所に閉じ込められて、三年目に突入してみろ。もはや、欲求不満を超えて、なんだか得体の知れないドロドロした物体になってくる。我が校の諸先輩がたが、めでたく進学して野に放たれたとたん、まるで糸の切れたタコみたいに遊び狂っちまうのは、決して偶然などではないと思う。

隣りの坂田は、何を考えているのかわかりにくいやつだ。いつも淡々として、変なことばかり言う。たまに気が向くと、いい成績を叩きだす。水泳部では常に、俺と一緒に二番手くらいの位置にいる。ケンカを吹っかけてくる相手は、よくわからない口八丁ではぐらかす。よくあいつと仲良くできるな、と時々言われる。別にあいつはおかしくなんかねぇよ、と俺は答える。わかりにくいけれど、と。

「入らねぇの」

「入るよ。なんだかなー。最近イマイチ身体のキレが悪りぃのよ。なんだかなー」

「…阿藤さんの真似だとしたら、クオリティ低すぎるぞてめぇ」

ハハ、と坂田は笑った。ストップウォッチをぶらぶらさせて、白い歯を見せる。早春の光がそこに当たる。俺は思わず目を細めた。

「じゃあちょっくら海まで行ってくるかな。なあなあ、どこにあんの、海への抜け道」

「だから行ってねぇよ。そんな抜け道あるなら知りたいわ、俺も」

切実に。ここではないどこかへゆける道があるなら。

なんて、一年の頃は思っていた。賑やか過ぎて淋しいのと、食堂の飯に馴染めないのと、あまりの辺鄙さに愕然としたのと、まあ、色々。

今となってはもう、慣れた。慣れざるを得ない。最近では、ここを出た後どうなっちまうのか、そっちの方が心配だ。

坂田は地元の東京の大学に進むという。俺もそうするかも知れないが、まだ、決めかねている。今のところは、この大量の水に浮かんでいたい。坂田と一緒に。

「土方、」

頭に、坂田のどことなく甘い匂いが落ちてきた。同時に、小さいが鋭い水音が響いた。俺は投げられたパーカーを肩にかけながら見下ろした。なにがキレがない、だ。坂田は尖った肩甲骨を見せて、きれいなクロールで泳いでいく。しぶきをあまり立てない、独特の泳ぎ方だ。水に溶けていくようにさえ、見える。

−−こないだ、この場所でキスをした。誰もいない夜のプールは、まるで宇宙のように静かだった。酸素と水と、坂田。いつの間にか、俺にとって不可欠なものになっていた、それら。

坂田は何も言わなかった。ただ、ちょっと笑った。ほっとしたことに、馬鹿にしているようではなかった。

見る間にターンして戻ってくる坂田を、俺は待っている。お前のゴールがいつも俺だったらいいのに、なんて思いながら。

いつか、一緒に海に行こう。寮の窓からよく見える、キラキラ光るあの海は、この島国ならどこにいてもすぐ行ける。お前が泳ぎだす水の中に、できるなら俺もいたいと思う。

「…!」

ゴールする直前、坂田がわざと水面を叩いた。跳ね上がる水が空を舞って降りかかる。馬鹿馬鹿しいほどまっすぐに。

閉じ込められたこの時間を悼むように。










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