「あ」
「…あ」
なんとなく足元を見ながら歩いていたので、気づくのが遅れた。不覚。悔しかったので、ついケンカを吹っかけるような口をきいてしまった。
「なんだ、いっちょ前に休みかヨ。働けヨ。税金分働けヨ」
「うるせーな。お巡りさんに馴れ馴れしく文句つけてんじゃねぇよ」
隊服じゃない沖田を見るなんてなかなかないから、口では喧嘩腰になりながら、思わずまじまじと見てしまった。道場帰りの子供みたいに見える。袴がちゃんとアイロンがかかっていて、清潔感はマルをやってもいいと思った。…オシャレじゃないけどな!全然、イケてないけどな!
「今日は傘さしてねぇのか」
ベンチに座ったまま、沖田は偉そうに顎で指した。私はフンと言った。
「曇ってるからナ」
「あーそう、よかったね。じゃあ気をつけて帰りなさいね。あ、てめぇには関係ねぇか。てめぇに手ぇ出すやつがご愁傷様だな」
ムカつく。コイツに言われるとなんでもムカつく。そして少し胸が痛くなる。
びゅうと風が吹いた。沖田の袴の裾がちょっと揺れ、ついでみたいに髪も揺れた。…ふと気になる。コイツの眼には、私はどう映っているのだろう。どうでもいいんだけど。本当、どうでもいいんだけど。ただ、一日中定春とじゃれたりアネゴのうちで騒いだりしてたから、今の私は髪も服もパリッとはしていない。なんてことないけれど、いい気持ちではない。
「おーなんだーおめぇら、デートか?デートなのか?不純異性交遊なのか?」
不意に、やる気のない怠そうな声がして、私も沖田も脱力した。振り向くと、銀ちゃんが、いつものよくコンセプトのわからないドテラを着て、懐手をして立っていた。
「銀ちゃん、コイツなんか、オトコじゃないネ。毛も生えてないお子様ネ」
「生えてるわ馬鹿オンナ」
銀ちゃんはケケ、と笑った。どこをほっつき歩いていたのか、鼻の先がうっすら赤い。冬の短い夕空を背景に、銀ちゃんは少しコドクに見えた。それはもしかすると、オトナ、というのと同じかも知れない。
「毛の話はやめなさいよ、ガキども。暗くなる前に帰れよー、どっちも」
そう言って、銀ちゃんはふらっと歩きだした。コドクな背中がゆっくり遠くなる。沖田が小さくため息をついた。それはまるで、やるせない恋を音にしたように聞こえた。
「…なんだヨ。お前、銀ちゃんのこと、好きなのか」
マトモに顔を見て聞いたら、沖田はすごく嫌そうに眉をしかめた。
「そんなんじゃねぇよ。俺は、かなわない相手は好かねぇの」
「…なにそれ」
「なんでもねぇよ」
沖田はベンチの背に腕を載せて、空を仰いだ。伸びた首筋はきっととても冷たいのだろう、と私は考える。そして、なぜそんなことを考えたのだろう、と、自分で自分にうろたえた。
「お前さぁ」星の輝きはじめた空を見上げたまま、沖田が言った。「俺と旦那と、どっちが好き」
「…そんなの、銀ちゃんに決まってるネ」
それは嘘じゃない。けど、答えるまでに一瞬間が開いてしまった。だって、沖田の聞き方はちょっと卑怯な気がしたから。好きにも色々ある。一緒くたにまとめられるものじゃない。
沖田はヘッと笑った。
「俺を一番にしてくれない相手も、好かねぇ」
やっぱり、そう言うと思った。嫌なやつ。本当に嫌なやつ。
「お前に好かれなくたって、全然困んない!」
大きな声で言ったら、鼻の奥がツンとした。馬鹿みたい。私もコイツも、馬鹿みたい。
私はクルッと背中を向けて、ずんずん歩いた。固い地面が足の裏に響くくらい、ずんずん歩いた。喉が渇いて、涙が出た。
いいよ。あんなやつ、きっと不幸になるんだから。いいよ。
「だけど」
今度は沖田が大きな声を出した。
「お前はそれでもいいや」
また、涙が出た。仰いだ空に、きれいなきれいな三日月が出ていた。
「良くない!」月が滲んだ。「そんなの全然良くない」
沖田はもう、何も言わなかった。私はまたずんずん歩いた。月はおぼろに霞んでいく。明日はきっと雨だろう。きっとまた、傘は要らない。
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