29
柴又帝釈天の徒歩圏内にある居酒屋で、その青年は一人で折り紙を折っていた。
果実酒のソーダ割りが入ったグラスとお通しの小皿以外に飲食物のないテーブルには、折り紙の入った袋と鋏や糊といった文具が散らばっている。
そこは、豆腐料理をメインとしたヘルシーなメニューが売りの大きな居酒屋だった。
グループごとに半個室となったテーブル席が二十近く、可動式の壁で六十人まで収容可能な大部屋を四つに区切った個室宴会場を備えており、団体客メインの店構えである。
メインが豆腐料理ということで純和風なインテリアの店内は、いたるところに紙で作られた置物が飾られている。
これら紙のオブジェの作者が、今現在一人で折り紙に熱中中の青年だった。
山梨和樹。都内のデザイン事務所に勤めるサラリーマンである。一部デザイン業界人の間では『紙の魔術師』の異名で知られている。
この日は、人と待ち合わせ中だった。待ち人は二人。一方は恋人、もう一方はその恋人の友人だ。
連絡をもらったのは、自宅で一週間分の食事の仕込をしている時だった。
共働きの二人暮らしでどちらも勤務時間が長く料理をしている暇もないということで、週末のうちに下ごしらえをして冷凍もしくは冷蔵しておき調理の時間短縮を図っているのは、すでに習慣化していることだった。
連絡手段はメールで、差出人は待ち合わせ相手の一人だった。
『春賀です。今夜から明日いっぱいにかけて、お暇でしょうか? もし良かったら、うちに遊びに来ませんか? 美味しいお魚がたくさん手に入ったんだ。一緒に食べようね』
兄の友人として出会ったその人は、ヤクザの恋人で弁護士という肩書きの人である。
その人が言う『うち』とは彼の恋人が若頭を務めているヤクザの本宅だ。
が、今までにもお邪魔したことは何度かあり、急なお誘いとはいえ違和感は特に感じない。
宛名を見て和樹とその恋人であり兄である智紀の二人に送っているのを確認した途端、同じ携帯電話が今度は通話の着信を告げた。
それが恋人からのもので、結局誘いを受けることに決めて待ち合わせを確認したのだった。
智紀の勤務先からだと、通勤ルートの途中で別の路線に乗り換えると着く目的地である。
一旦自宅に戻るよりそのまま行ってしまった方が楽だった。
待ち人のうち、先に来たのは恋人の方だった。席に案内してくれた店員にビールを頼んで席に着く。
「待ったか?」
智紀が現れたのに気付いて手を止めていた和樹は、尋ねられて首を振った。
「ちょっと待ってね。もう少しでできるから」
「あぁ、構わねぇよ。春賀もまだみたいだしな」
答えて、持っていた荷物を横に置いた。相変わらず本のたくさん入ったカバンだ。
総合病院の臨床心理士をしている智紀は、通常週休二日の休みを取れる勤務体制をとっている。
院内に三人いる臨床心理士で休みを調整しているのだが、基本は日曜日と週中のどこかに一日。
外来の無い日曜祝日は入院患者と時間外外来の対応だけなので日直が一人入る。これももちろん代休ありだ。
従って、カレンダー通り土日祝日休みの和樹とは休みが合わないことが多い。日直の無い日曜日だけなのだから当然だ。
それでも、朝食は必ず一緒だし、夜のバイトは辞めてしまったので夕飯時間こそ間に合わないものの寝る時間も一緒で同じベッドで抱き合って眠っているから、互いに寂しいという気持ちは抑えられている。
あまり待つことなく提供されたビールとお通しを受け取って摘んでいると、店長の名札をつけた人物がやって来て声をかけてきた。
「うちの姐から伝言です。少し遅刻をしそうなので待っていて欲しいとのこと」
「わかりました。かまいませんよ。和樹も手が放せないみたいだし」
「恐れ入ります」
恐縮してみせる店長に笑って返した智紀は、ついでなのでとビールのお代わりを頼んでいる。
店長の台詞から分かるように、この店は住吉組の経営になっている。スタッフも正社員は全員組の構成員だ。
住吉にはこういった飲食店がいくつもあって、それぞれに順調な売り上げを見せている。住吉組の資金源の大半がこうした飲食店だ。
それらの店舗に対してインテリアの分野で貢献しているのが和樹だった。
クラブのバーテンダーのバイトを辞めた智紀もまた、オーナー夫妻のよき相談相手として経営の一端を担っている。
それだけに、この二人は直営飲食店のどこへ行ってもさりげないが手厚い歓迎を受けていた。
会計を割引してくれたり、サービス品を出してくれたり。
ここでも、お代わりのビールついでに浅漬けの載った小皿を一枚出してくれた。
正規メニューより明らかに少量なのでサービスだろうと分かる。
これから組本家に招かれて食事をするのだと知っているのか、腹にたまらないちょっとした分量にしてくれているあたり、気が利いている。
[ 29/41 ][*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]戻る