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最寄り駅から徒歩十五分、近くの幹線道路から細い路地に入ったところに建てられている築十年経たないくらいの比較的新しいテナントビルに、宏紀の姿があった。
エレベーターホールを兼ねたエントランスに各階の案内板が貼られており、その四階が目的地だ。
筆で書かれたような楷書の書体で『林野組』と書かれたのみの案内表示は、やはりその正体を疑わせる落ち着きを伴って見える。
頻繁に出入りしていたのは中学生の頃で、その当時は駅前の古いテナントビルにあった事務所である。
現在その場所は再開発工事中で、そのために移転を余儀なくされたのだ。
もちろん、その再開発に関わる利権に一枚噛んでいるのでただで譲ったわけではないのだが。
実父の頼み事を早速果たすために林野組長にアポイントメントの電話を入れたのは、自宅に帰ってすぐだった。
快諾してくれた組長からその一時間後に折り返しの電話があり、翌日の今日この時間への時間変更とドレスコードが伝えられた。
そのため、今日の宏紀の服装は珍しいスーツ姿である。
財布と携帯電話をポケットに仕舞っている他は手ぶらで、手土産の焼き菓子が入った紙袋を提げている。
エレベーターに運ばれて四階に着くと、エントランスのガラス戸が開いていて先客が立っていた。
案内を待っているようで手持ち無沙汰な様子だ。
先客もまた、この場所に似つかわしくない風貌の宏紀に興味を惹かれたようで、おや、という顔つきになった。
その人物は、いかにもエリートなビジネスマン風でブランド物らしい質の良いダークグレーのスーツを着こなした、フレームレスの眼鏡をかけてもハンサムな容貌が分かる人当たりのよさそうな三十代ほどの紳士だった。
「階数を間違えたのではないかな? ここは君のような大人しそうな青年が来る場所ではないよ」
明らかに年下と断定した話し方で声をかけてきた彼に、少し驚いていた宏紀も平静さを取り戻して苦笑した。
おそらく、年齢で言えばほぼ同年代だ。
「このビルはどこの階であっても素人には場違いですよ。来る場所を間違えたのはそちらではないですか、お兄さん?」
何しろ最上階に組長の自宅を備えていて中層階から上はすべて組事務所という林野組本部ビルだ。
テナントに見える一階から三階も林野組が経営に携わっている関連企業が入っている。
むしろヤクザの事務所が入るビルに好き好んで入ってくるテナントなどないだろう。
ビル経営も不動産会社ももちろん林野組の関連会社だ。
宏紀の受け答えに只者でない印象を持ったらしく、彼の表情が厳しいものに変わる。
その目つきは探る者のそれで、宏紀には見慣れたものであったのに少し驚いた。同時に納得もしていたが。
どちらも次の言葉を発する前に、セキュリティを解除する音がして観音開きの扉の一方が開かれた。
姿を見せたのは六十歳を過ぎてもなお若々しい姿を保っている大柄な男性だった。
先客の応対に出てきたのだろうが、そこにいた宏紀に先に反応する。
「あれ? 土方くん。来てたなら内線で呼んでくれたらすぐに迎えを遣したのに」
「今しがた着いたところです。少し早かったですか?」
「いや、かまわないよ。今案内させるから少し待っていてくれるかな」
人当たりよく親しげに対応してくれるのは、長い付き合いとカタギだった前職の影響だろう。
一旦室内に引っ込んで部下に客の接待を命じる声が続く。もちろんこの場合の客は宏紀の事だ。
駅前に事務所があった頃からこの組で働いている人間なら、宏紀が林野組長に可愛がられている一般人だと良く理解している。
古参になれば宏紀の子供の頃から知っていたりもする。
おかげで宏紀はこの事務所でも同年代から上の組員には大人気だ。
すぐに顔見知りの組員がやってきて事務所内の休憩スペースに案内された。
解放感たっぷりの休憩スペースは、宏紀に対して隠すものなど何もないという意思の表れだ。
「これ、駅前のフルールで買ってきたクッキーです。皆さんで召し上がってくださいね」
「いや、いつもありがとうね。今茶ぁ持って来させるから、座って座って」
案内役を買って出た彼は宏紀より五歳年上の中堅組員で、林野組の次代を担う一員として重用されている人物だ。出身中学が同じということもあり、随分と親しくしてもらっている。
普段は外回りに出かけていることが多くなかなか会えないので、話を人伝に聞くことは多くても顔を合わせるのは数年ぶりだ。
宏紀を座らせた向かいのソファに自分も腰を下して、彼は組長補佐に直接案内を受けて応接室へ入っていくスーツ姿の男を何気なく見やった。
「……ヤな野郎だぜ」
チッと舌打ちして悪態を吐く。
普段愛想良い人だから余計に驚いて宏紀は目の前の知り合いを見つめてしまった。
「知ってる人ですか?」
「あぁ。駅前の再開発関係でな。土建屋の営業だよ」
「へぇ。刑事さんなのに副業ですかねぇ」
「……へ?」
丁度出してもらったお茶を啜りながら断言する宏紀に、正面の彼は視線を戻して問い返していた。そうは見破っていなかったらしい。
「井上さんも見破れなかったです?」
「人を判別する目は自信あったんだけどなぁ。どこを見てそう思ったの?」
「さっき玄関先でジロジロ探るように見られましたからねぇ。
それに、脇の下。あそこ、チャカ入ってるでしょ。今時そんなとこに仕舞ってるのはサツくらいですよ。本職さんたちは腰ですもんね」
「脇の下じゃ邪魔なんだよ。スーツの内ポケットか、でなきゃ腰ベルトだ」
答えながら、なるほど、と納得したようだ。次の瞬間には宏紀の方が苦笑したのだが。
「昨日会った刑事さんとかうちの父とかと話をしたばかりで思わず見ちゃったから気づいたようなもんなんですけどね。その刑事さんもなるほどって笑ってましたよ」
ヤクザ相手に刑事の知り合いの話をするとはなかなか良い度胸だが、きっと宏紀は気にしていないのだろうと付き合いが長いほど理解できる。
そもそも、父親が元刑事にも拘らずこのようにたびたび林野組の事務所に通ってくるくらいだ。知り合い程度で遠慮するわけがない。
おかげで裏がないただの感想だとわかるから、井上と名を呼ばれた彼もふぅんという軽い返事しかしなかった。
それより、知り合いの話の前が気になるというのもある。
「しかしそうか。あれ、デカか」
「尻尾捕まれないように気をつけてくださいね。この街は林野組に守られてるようなもんなんですから」
「俺もヤサがなくなるのは困るからな。オヤっさんにも随分と世話になってるし」
「まぁ、大滝さんが対応しているのなら大丈夫でしょうけど」
何しろ元刑事。ヤクザに転職した今でこそ悪事に手を染めることもないではないが、他人に迷惑をかけることを生来の正義感も手伝って嫌がる性質だし、そんな人間が組長補佐を務めているこの組は比較的商売が真っ当だった。掴む尻尾もあまりないだろう。
「上には注意するように伝えておくよ。さすがに再開発に絡んだ仕事は相手が大企業ってこともあって真っ白ではないからね。グレーな部分もいろいろある」
「でも、真っ黒はなさそうですよね。俺の買いかぶりです?」
「組長補佐の目が黒いうちは、うちの組の仕事で手が後ろに回ることはありえないよ」
それは自らの上司を信頼しているからこその台詞だろう。
そうですね、と頷いて、宏紀はまたお茶を一口啜り、満足そうに笑みを見せる。
「ん、お茶が美味しい。ここに来ると出していただくお茶がいつも美味しくて嬉しいです」
「あぁ、うん。それは俺のこだわりなんだよ。
いつも出先で不味い茶ぁばかり飲まされてるからな。自分のテリトリーに戻った時くらい美味い茶が飲みたいだろ?」
「へぇ。そこで美味い酒って言わないのは何か理由でも?」
「うちの事務所はイベントごとでもない限り禁酒。組長もそんなに酒好きな人じゃねぇしな。
出先でその土地の茶っ葉買って帰ると喜ばれるからいろいろ選んでたら舌が肥えた」
つまり林野組長が緑茶好きというわけだ。長く通っていて初めて知った事実に少し驚いた宏紀である。
やがて、応接室から客人と共に林野組長と補佐の大滝が出てきて、客を見送った後はその足でこちらへやって来た。
「やぁ、待たせたかな?」
「いいえ。俺が早すぎただけですから。井上さんに付き合っていただけて助かりました」
つまりそれは、井上がサボっていたわけではないと口添えする意味も含まれている。
そう言われては井上を咎めるわけにいかず、大滝は苦笑するしかなかった。
それ以上は上司に叱られる前に井上はそそくさと退散して行き、林野は宏紀に手を差し出した。
「少し遠いが池袋に美味い酒を飲ませる店を予約してある。会わせたい人がいてな。悪いが付き合ってくれ」
それでドレスコードということは、それなりの店でそれなりの相手なのだろう。
さすがの宏紀も改めて神妙な表情になり、ソファから立ち上がるのだった。
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