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 東京都内某所。私鉄駅前の商店街を彼はとぼとぼと歩いていた。

 中西豊、26歳。運輸業系ソフトハウスに勤務するシステムエンジニアだ。

 妙に元気のない様子だが、会社で上司に叱られたなどという理由ではなく、むしろ上司にはあまりに元気のない様子を見かねて早めに帰るように促されたくらいだ。

 元気のない理由は完全なプライベートのものだった。

 昨日までは今日この日のこの時間を楽しみにしていた。遠距離恋愛していた彼女が仕事の都合でこちらに出張する予定がずいぶん前から決まっていたのだ。仕事が終わったら会う約束をしていた。

 過去形なのはその予定がキャンセルになったからだが、元気がないのはそれだけが理由ではない。
 遠距離の常というべきか、会う約束のキャンセル理由として聞かされたのは、自分の会社の上司と婚約したからだというものだったのだ。
 つまり、遠距離の自分はキープされたまま地元で婚活に精を出していたらしい。

 すでに婚約に漕ぎ着けていて、そのライバルが年上の役職持ちで、こちらには距離的不利もあって、となれば勝ち目がないのは疑う余地がない。

 そういうわけで失恋の翌日にあたるこの日、気分はずーんと沈んだまま同僚に心配されながらも何とか仕事は終わらせて、上司に追い返されるように会社を出てきたところだった。

 足が向いた先は、駅向こうにある1軒のショットバーだ。近所に住む社長夫婦行き付けの店で、豊も月に数回通っている。

 折しも金曜日。翌朝を気にせず自棄酒するにはもってこいの曜日だ。しかも、まだ開店直後のこの時間は客も少ないので、ゆっくり飲むには良い時間だった。

 扉を開ける。カウンターの向こうで1人で食材の下ごしらえをしているマスターが顔を上げた。

「ナカちゃん。いらっしゃい。今日は早いね」

 呼ばれたあだ名は会社のそれと同じ。何しろ開発部長の飲み友達だ。彼が使う呼び名が浸透してしまうのは無理もない。

 カウンターと小さなテーブル席が2つしかないこの小さな店は、マスターが1人で切り盛りしている店だ。おかげで、シックな佇まいの外観に似合わず、ずいぶんとアットホームな雰囲気だった。

 裏の調理場からおしぼりを持って戻ってきたマスターは、カウンターど真ん中に席を選んだ豊にそれを手渡しながら尋ねてくる。

「さて、何飲む?」

「潜水艦」

「いきなり? まぁ、強い酒じゃないし、良いけど」

 豊の注文に苦笑して、マスターは酒瓶の並んだ棚を振り返った。
 冷蔵庫から冷やしてあったビアグラスを取りだしビールを少し足りないくらいまで注ぐ。そのグラスにリキュールを入れたショットグラスを沈めて、コースターに載せて差し出した。

「はい。ドランブイ・サブマリン」

 正式な名称での確認と共に出されたそれを小さく礼を述べて受け取る。潜水艦という名で注文して通じるのは常連客だけだろう。客と店主の間に共通の認識があるから通じるのだ。

 飲み物を提供してすぐに、マスターは調理場へ引っ込んでいく。この店は手の込んだお通しが人気の一端だ。常連客の多くは今日のお通しはなんだろう、とワクワクしながら店の扉を開けるのだという。

 今日の豊にそんな余裕はないのだが。

 喉が渇いていたのもあって、半分ほどを一気に飲んでようやく人心地つく。沈めたリキュールの甘さとビールのほろ苦さが絶妙なカクテルだ。沈みきった気分でなければもっと大事に飲むのだが。

 本日のお通しであるできたての唐揚げを乗せたサラダを持ってマスターが戻ってきた時には、グラスはすっかり空になっていた。

「え、もう飲んじゃったの。いつも早いけど今日はやけに早くない?」

「今日は自棄酒なんです! ニコラシカくださいっ!」

「いいけど、ナカちゃんが自棄酒ってむしろお金もったいないよ」

 苦笑しながらも頼まれれば拒否しないのが店主の立場だ。

 一度調理場に引っ込んで輪切りのレモンを用意して戻ってくる。リキュールグラスにブランデーを満たしてレモンを乗せ、砂糖を山盛りにして出してくれる。

 一気に飲み干すためのカクテルだ。レモンを砂糖を包むように2つ折りにして口に含み、グラスの中身を一気に飲み干す。
 口の中で作るカクテルとして有名だ。強い酒を一気飲みするものであるので、何杯も飲めるわけではない。だが、癖になるカクテルだ。

 飲み干している間にチェイサーとして水を出してもらって、空けたグラスの代わりに水のグラスを握る。

「次どうする? 少し休憩?」

「うん、少し休憩。モスコミュール」

「全然休憩じゃないし」

 豊の次のオーダーに苦笑を返し、マスターは次のグラスを用意し始める。氷を入れたグラスに少しのライムジュースとウォッカを入れ、辛口のジンジャーエールで割る簡単なレシピだ。くし切りにしたライムをグラスの縁に添えてくれる。

 通常、特に要望されない限りジンジャーエールは一般的な甘いジュースを使う。確認せずに辛口で作ってくれるのは豊がいつも辛口を希望するからだ。

 ロンググラスで炭酸の効いた飲み物はさすがに一気飲みできなくて、必然的に豊の飲むペースも抑えられるというわけだ。それゆえ、休憩と表現したらしい。

「それで? どうしちゃったの?」

 下げたグラスを洗いはじめて、マスターがようやく尋ねてくる。カクテルを作るスピードより豊が飲むスピードの方が早いので今まで大忙しだったのだ。

 尋ねられたとたんに豊はフニャッと表情を崩した。

「どうしたもこうしたも。聞いてくださいよ、マスター。俺、彼女に棄てられちゃいました……」

 張りつめた糸がようやく弛んだのだろう。はらはらと頬を涙がつたい落ちる。学生時代からの付き合いだった彼女から突然別れを告げられたのだ。無理もない。

 どれだけ大事にしていた彼女だったのか、どれだけ酷いフラれ方をしたのか、泣きながら語る姿は同情を誘った。

「そりゃずいぶん酷いね。まぁ、今日は思う存分飲んで帰ると良いよ。特別に割引してあげるからさ」

「奢るとは言わないのか、マスター?」

 苦笑混じりの第三者の声に、豊は驚いて振り返った。いつからいたのか、それは週末によく会う常連客の1人だった。マスターも気付いていなかったようで、驚いている。

「野本さん、来てたなら声かけてくれれば良かったのに。いらっしゃい。何にします?」

「サファイア」

「ロックで良かったでしたか」

 問いかけながら調理場へ移動。そちらにおしぼり用の保温庫があるせいだ。ついでにロック用の氷も出してきて、流れる手つきで仕事を片付けていく。

 マスターが仕事に戻ってしまったので、豊は出されたまま手を付けていなかったお通しにようやく手を伸ばした。

「お。今日はサラダか」

「そうですよ。はい、野本さんの分」

 彼の前にもサラダの皿を置いて、マスターも戻ってきた。

「で? 傷心の若者に奢ってあげないの?」

「無理言わないでくださいよ。ナカちゃんの飲む量、半端じゃないんですから。うちが潰れちゃいます」

 いくらなんでもそれは無理だ、とマスターは苦笑を返した。たくさん飲んでくれる分得意客の豊だが、そこはそれ、割引でも十分な贔屓だ。ですね、と豊も頷いている。ザルの自覚はあるらしい。

「だったら、俺が奢ろうか。次の恋人立候補の挨拶がわりだ」

「次のって……。男ですよ?」

「見りゃわかるよ。女には見えない」

「……ゲイの人?」

「どっちも、だな。性別にはこだわらないタイプだ。戸上夫妻の部下だろ? 否定派か?」

「自分に置き換えたことがないです」

 答えて、改めてその酔狂な男性を観察してみる。

 年の頃は30代そこそこだろうか。無造作に掻き上げた髪は黒いままで、仕立ての良いダークスーツに薄いストライプ模様のシャツを着て、エンジのネクタイが意外に似合っている。センスが良いのか、イイ男は何を着ても似合うということなのか。

 だからこそ、男でも女でも引く手あまただろうとは容易に想像がつくのだが。

「何で急に俺です?」

「俺自身としては急でもないさ。ずっと狙ってた。小谷に牽制されてて声がかけられなかっただけだ。失恋したなら新しい恋が特効薬だろ? 俺にとっては付け入る隙だってことだな」

「そこ、バラしちゃダメだろ」

 客同士の駆け引きに首を突っ込まないようにしばらく2人を放置していたマスターが、楽しそうに笑いながら口を挟んできた。よほど野本の口説き方が面白かったのだろう。

 一方の豊は耳にした内容を意外にも真剣に聞いていたようで、困ったように唸っていた。

「ナカちゃん?」

「……へ?」

 声をかけられてようやく気付いたように顔をあげる豊に、口説いた本人も半分冗談だったのか、マスターと顔を見合せた。声をかけたマスターも心配そうな表情だ。

「嫌ならあっさり振って良いんだよ?」

「ちょっとマスター。応援してくれないわけ?」

「するわけないでしょ、野本さん。貴方に捕まったらナカちゃんが苦労するのは目に見えてる」

「俺、恋人は大事にするタイプよ?」

「貴方の場合、立場が問題でしょうに」

「立場?」

 マスターが訳知りそうな反応をしているのに、豊が口説かれているはずなのに蚊帳の外状態なことも含めて不思議に感じて首を傾げた。そう、とマスターも頷いて返す。

「この人の言うことは真に受けちゃダメだよ。こう見えて危険な男だからね」

「マスター。そういう意味深な言い方するとかえって興味持っちゃうよ。それじゃ逆効果」

 確かに興味が膨らんでいる豊も、野本が言うセリフに同調して頷く。何やら謎めいた人物だが、マスターが言葉を重ねるごとにますます謎めいてくるのだ。
 そうは言っても常連客の職業など軽々しく口にできない立場のマスターにはそれ以上のことは言えず。

「本気で口説くつもりなら自己紹介したら?」

「あれ、結局こっち任せ?」

「私からバラして良いなら言うけど?」

「あ〜。それはダメ」

 結局困って降参したのは野本の方だった。人伝では言えない立場というものがどんなものなのか理解できず、豊は首を傾げたままだ。

 わざとらしく咳払いをして、野本が困って眉尻を下げた。

「なんか改まって自己紹介っていうと緊張するな」

 その緊張を解すためにか酒の力を借りるためにか、グラスの中身を一気に飲んで野本は改めて豊に正面から向き合った。





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