ある夏の日の騒動記 1
基本在宅勤務である大倉組若頭補佐、杉山雄太が珍しく本部事務所に顔を見せたのは、まだまだ暑さの厳しい残暑まっただ中の9月1日午後3時の事だった。
大倉組の業務は、組長を頂点として組長補佐、若頭の3人が話し合いによって全体を取りまとめ、その管轄各業務を若頭補佐の4人が分担して担当している。
金融投信系は雄太、風俗業は戸山、風俗を除くサービス業は野本、事務処理および貸金業は大谷といった具合だ。
雄太以外はその下にいくつもの企業を経営しており、それぞれに社長を立てて運営させているというピラミッド構造になっていた。
その中での本部事務所は、どこかの企業には属しておらずそれぞれの若頭補佐の手足として働く若衆の居場所として機能している。
その仕事柄、見るからにチンピラ風な若者が多いのは仕方のないことなのだろう。
その若衆に泣きつかれるように頼まれて、雄太は散歩がてら顔を出したところだった。
ちょうど、組長をはじめとして若頭補佐までの全6名が全員出払っていて、責任を取れる立場の人間でかつ身動きの取れるのが雄太だけだったためだ。
手広い業務範囲に見合わず小ぢんまりとした事務所のエントランスから年に何度も使わないIDカードを使って事務所内に入った雄太は、運転手兼護衛として本家から付き従ってきてくれた同い年の青年とともにその入り口に立ち止まった。
事務所内に、あまりにもふさわしくない声が響いていた。
何度も確認するが、チンピラ風の若者が屯するヤクザの事務所内である。
「なんで赤ちゃんが泣いてるの……?」
さすがに想定外の事態だった。
一応20名近い人数がいる事務所内の若者は全員が未婚男性で子供もいない。
それどころか彼女募集中が9割だ。当然赤ん坊の扱い方などわかるわけもない。
それで、泣き続ける赤ん坊をあやすのに悪戦苦闘しているところだった。
連絡が入ってからすでに30分が経過しており、今までずっと泣いていたのなら脱水症状を心配してしまう。
「おむつと粉ミルク。ないなら急いで買ってきて。哺乳瓶もね。あと、鍋にいっぱいのお湯沸かして。それと別にやかんにも」
急いで、と指示を出しながら、雄太は一応クッションのきいたソファに寝かされていた赤ん坊を抱きあげた。
首は据わっているようなので包むように適当に抱き上げて、トントンと背中を叩いてやる。
オムツは穿いていないで、はがされたものが床に落ちているところを見ると、若者のうちの誰かが確認のために脱がせてそのままなのだろう。
「うーん。お腹すいてるのかな? 喉乾いたよね〜? 今お湯含ませてあげるからもうちょっと待っててね〜」
雄太自身も子育ての経験などもちろんないただの大学生だ。
あやし方も記憶を引っくり返しての見様見真似なのだが、なにやら正しかったようで大泣きしていた赤ん坊がしゃくりあげるように変わってきている。
何をやっても泣き止ませられなかった若者たちは、雄太に対して尊敬の眼差しだ。
子供を抱いたまま給湯室に向かえば、ちょうど鍋の湯が沸いたところだった。
洗って片づけてある布巾を1枚出して鍋の湯へ落とす。
赤ん坊に使えるような清潔なものは事務所内にないので、使うものは全て煮沸消毒するしかない。
赤ん坊を抱いたまま作業できるほど体力もないので、雄太は給湯室に指示されたことを果たしに駆け込んできていた部下に今後の作業を指示して、ソファに戻ることにする。
数分煮立たせた布巾をクッキングペーパーの上にあげて手に触れるまで冷ましてから軽く水切りしてもってこい、というのが指示だ。
ソファに戻って座ったころにはすっかり泣き止んだ赤ん坊は、自分を抱いている見知らぬ青年を見上げてキョトンとした表情だった。
「で、この子、誰?」
赤ん坊も泣き止んだし、買い物待ちで煮沸消毒待ちという待ち状態で落ち着いたというところで、根本的な事情の確認を始めることにする。
事情確認よりも泣き続ける赤ん坊を落ち着かせることの方が優先順位が高かったためだ。
問いかけに答えたのは、ここに集まっているグループはザックリ3チーム分だったわけだが、そのうちの1チームのリーダーに当たる高橋という男だった。
他メンバーに比べれば年嵩で、雄太と比べても数年上なのだが、肩書が示すように他メンバーと大きな違いはない。
彼は、1枚の紙を雄太に差し出してきた。
「このガキの母親が、借金の足しにしろと押し付けてきまして」
「ここまで赤ちゃんじゃ足しどころかマイナスじゃないの?」
「そうなんスよね。母親は追わせてるんスが、まだ見つかってない感じで」
それが、傘下の貸金業の1店舗での出来事で、ともかく赤ん坊が泣いていては仕事にならないのでひとまず事務所に連れて来た、という状況であるらしい。
大の男が雁首揃えて情けない限りだが、こと赤ん坊に限れば男の役に立たなさは世間の常識レベルではあるのだから仕方がないところか。
それにしても、だ。
「自分で腹痛めて産んだ子でもこんなにあっさり犠牲にできるんじゃ、男親なんかなおさらなんだろうねぇ……」
なにしろ、雄太本人が父親から虐待を受けて育った過去を持つ。
他人に委ねるか否かの違いこそあれ、育児放棄には違いなく、この赤ん坊の事態を他人事とは思えなかった。
ちなみに、雄太の父親はいまだ遠洋漁業の船上で奴隷扱いの身の上である。
雄太が家族に恵まれずに組長に拾われて育てられた事実は組員には当然知っておくべき常識と扱われていて、周囲に集まった組員たちはそれぞれに気遣うような視線を雄太に送っていた。
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