職業選択の理由
くてっと脱力した状態の恋人を見下ろして、俺は足下に車輪の付いた可動式タイプのチェストからタバコを拾い上げた。
目覚まし時計からゴムにゼリーまで、ベッドルームで使う小物をいっしょくたに入れてあるこれは、恋人が自宅で愛用しているからと勧められて購入した便利家具の一つだ。
物入れは省スペースを徹底して、余った空間に贅沢を感じるという恋人の生き方は、神奈川の山間部から出てきて、大学も安アパート、就職してからは寮生活という人生を楽しむための知恵だったらしい。
かく言う俺も広い部屋に住むのは実家を飛び出して以来だ。
多少もてあまし気味のこのマンションは、恋人と一緒に暮らせるようにと思って購入した、川崎駅徒歩五分のファミリー向け3LDKだった。
購入を決めてから約半年、同棲しようと誘ってはいるが、彼はなかなか頷かない。
警察官の彼は、転居を届け出たらヤクザと同居なのがバレると心配しているわけだ。
断る理由がそれだから、俺と同棲する事自体を嫌がっているわけでもなさそうで、心変わりを心配せずに済んでいる。
こうして通ってくるのは躊躇がないようだし、今のままで良いと彼は実に消極的だ。
ヤクザと警察官という職業の問題は出会った時から変わらないし、それを理由に喧嘩するのも可笑しな話だから仕方ないと諦めるしかない。
そもそも仕事を辞めろとは俺は言えないのだ。最初に口説いた時の約束だからな。
それでも、こうして些細だが重要な問題に度々ぶつかる。
同棲しようというのも、俺の離れて暮らすのが嫌だという個人的ワガママから端を発していて、そんなに強くねだれることではないと理解しているんだ。
今抱えている叶えたいワガママNO1なんだがなぁ。
タバコに火を付けて煙を吐き出すと、彼は俺を恨めしそうに見上げた。
「俺も頂戴」
うつ伏せてぐったりのくせにそんなことを言うから、ギャップが面白い。
彼の口に吸いかけのタバコの吸い口をくわえさせてやって、俺は新しい一本に火を付けた。
「あ゛〜、帰るのめんどい〜」
未だに中野の独身寮に住んでいる彼は、ここからだとドアトゥドアで一時間かかる。しかも職場近くを通りすぎていく。
それでも、時間が空けばこうして通って来てくれるのだから、諦めれば良いのに。
「だから、ここに住んじまえよ。帰ったら顔を合わせられる環境は時間の合わない俺たちには必要だろ?」
「そーなんだけどなぁ。いっそのこと転職しようかな」
「そりゃまた思い切ったこと言うな。俺と付き合ってもマル暴辞める様子もねぇし、こだわりがあったんじゃねぇの?」
「こだわりかぁ、そうなんだよなぁ」
そういえば聞いたことがなかった。ヤクザと警察官なんて両極端な立場を楽々越えて俺に口説かれた彼だから、かえって聞く機会がなかったんだ。
明言を渋るということは、やっぱり何かしら理由があったのだろう。
今のプライベートは把握していても過去まで踏み込んだことはないから予想も立たないが。
「ヤクザに騙されて身を持ち崩した知り合いがいるとか?」
「あはは。ありそうだけど違うよ。そんな理由だったらタカっちと屈託なく付き合えるわけないし」
俺をタカっちなんて呼ぶのは機嫌が良い証拠だ。
その反応は余計気になる。ヤクザ相手にマル暴職を選んだ理由を聞かれて上機嫌なんて、相応の理由がなければ悪趣味としか思えない。
「俺は聞かない方が良いのか?」
「嫉妬するかも?」
「嫉妬ぉ?」
その反応は予想外だ。もともと予想の斜め上をいく個性が気に入って惚れた相手だが、本当に意表を突かれる。
「元カレ?」
「……ではないよ。
小学生の頃に助けてもらったことがあってさ。バカヤロウ、気をつけろ、って怒鳴られてそのまま行っちゃったから名前も知らない」
「事故か」
「うん。ボール追いかけて道に飛び出した。ちょうど来たダンプカーにクラクション鳴らされてビックリしたら足がすくんじゃってね」
それを助けてもらったというわけだ。子供にとってはヒーロー的存在感だな。
「それで、何でマル暴?」
「祖父が警察官だったんだ。だから、ヤクザになるって道は選べなかった。
でね、だったら体制側に回ろうって。
だって、何でヤクザって職業なだけで目の敵にされるのかなぁって思ってさ。せめて冤罪からは守ってあげたいじゃない?」
守ってあげたいなどというと上から目線で嫌われる要因だが、気持ちは嬉しい。
なるほどそれで初対面の時にあぁいう同情的な態度だったのか。
警察官にしては友好的で興味を引かれたが、からくりが解けた。
「それから会ってないのか?」
「多分。会ってもわからないよ。お互いに年取ったからな」
今33の彼が小学生の時に会ったきりじゃ、さもありなん、だ。
今まだ生きてこの世界にいるかすら定かにはわからない。
「命の恩人じゃねぇか。嫉妬するほど心狭くねぇぞ」
変な前置きするから身構えちまったじゃねぇか。
そんな相手じゃ憧れるのも無理はない。
にしても、やっぱり独特の考え方をする奴だ。さすが俺の恋人。
「会いたいなら探してやろうか?」
「良いよ。貴方に憧れて警察官になりました、なんてさすがに言いにくいし」
ようやく起き上がりながら答えて、タバコを灰皿に押し付け、俺に後ろから抱きついてくる。
そうやって甘えてくるのも、意外と可愛い。
普段は可愛いなんて形容詞の似合わない奴なんだがなぁ。
「そろそろ帰るよ。電車がなくなる」
「……帰したくねぇな」
「嬉しいこと言ってくれるじゃん」
チュッと音を立てて俺の頬にキスをして、裸のままリビングに出ていく。風呂に行ったのだろう。
その後ろ姿を見送って、俺はため息をついた。
まったくこの恋人は、俺をどこまで骨抜きにすれば気が済むんだろうな。
「じゃあ、マンションを彼氏名義にしちゃったら?」
俺の恋人を伴侶であるかの如く認識しているらしい七瀬があっさりとそう宣った。
彼がなかなか同居に頷いてくれないと愚痴っていた時のことだ。
俺の長年の……ってほどでもないが……悩みをいとも簡単に片付けてくれる。
そう簡単にいくもんか、と思うのは多分意地のようなもので、確かに妙案だ。
「……提案してみるか」
結局意地を張るのは諦めて頷けば、七瀬は嬉しそうに笑った。
「そうそう。人の提案を素直に受け入れるのも良い指導者の条件だよ。
けど、まぁ、吉井さんが近くに住んでくれると何かと誘いやすくて助かるね」
「あんまり気軽に誘うな。俺のせいで仕事を辞めさせたくない」
「そんなに気遣うなんて、本当に惚れ込んでるんだねぇ」
しみじみとそんなことを言う。
片手に番茶、目の前に葛餅。相変わらず、肩書きに似合わない行動だ。
なんとなく、趣味が年寄りくさい気もするんだが。
「でもさ。吉井さんって個性的な人だね。俺たちみたいなはみ出し者を守るために、正反対の道を選ぶなんてなかなか思いつかない」
「自分の力が及ばなくてもどかしい思いも散々してるらしいがな」
「吉井さんの年齢じゃあ、まだまだ発言権も弱いだろ。継続は力なり、だよ。途中で挫折しないように支えられるのは貴文だけでしょ?」
励まされてしまった。
確かに、若い年齢で意見が上まで届く組織はなかなかない。うちのようにトップが若いか、組織自体が小さいか、そのくらいだろう。
「俺で役に立てば良いけどなぁ」
「うわ。貴文が弱音なんて珍しい。むしろ、貴文の立場だからこそ支えになるんだろ? あの人なら、自分のためより他人のために奮起するタイプだもの。恋人を守るために、頑張ってくれるよ」
「むしろ、頑張り過ぎないように自制するのが俺の役目か」
「あはは。そうかもねぇ」
七瀬は他人事だと思って可笑しそうに笑うけどな。俺には笑い事じゃねぇんだが。
まぁ、にっちもさっちもいかなくなったら俺が引き取るつもりはあるからな。
彼の心に再起不能なまでの傷さえつかなきゃ、なんとかなるってものよ。
むしろ、彼の事務処理能力は喉から手が出るほど欲しいもんだしな、なんて内心で本心をひけらかして、一人で苦笑した。
美味そうに葛餅を頬張った七瀬が一旦怪訝な顔をしてから何かに気付いたらしくてニヤついたが、気にしない方向で。
大体、愛しい人を思えば一人百面相なんて誰しもするもんだ。
「長くラブラブでいてよね。吉井さんのキャラは貴重なんだからさ」
「自分の都合かよ」
「いやいや。親友の幸せをちゃんと心から祈ってるって」
「ぜってぇ面白がってるだけだ」
「んもう、断言するし。合ってるけどさ。貴文つまんない」
「俺が面白かったことがあったか?」
「む。そう言われると、ないかも」
相変わらず打てば返ってくる会話のテンポが小気味良い。
ふふん、と俺は胸を張り、七瀬はむすっと膨れっ面。
葛餅に八つ当たりするように乱暴に楊枝を刺して、それでもきな粉は落とさないように慎重に口に運ぶ仕草は、まるで子供のような微笑ましさで。
俺は親友らしい遠慮のなさで大いに笑わせてもらったのだった。
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