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 その日。晃歳は自宅に戻らなかった。

 昼食後は大倉本家を出たものの、七瀬に付き合って大倉組の事務所を巡り、東京から戻ってきた貴文とその相棒の戸山に紹介され、接待がてら食事を共にして、二人でホテルの一室にしけこんだ。

 七瀬と一緒にいることも、今日は帰らない、ということも連絡しているので、今頃、辰巳組では大騒ぎになっていることだろう。
 いろいろ勘繰ってくれた方が、こっちもやりやすい、と晃歳は無責任に思っている。

 シャワーを浴びて戻ると、室内灯が落とされ、穏やかなフットライトの明かりだけが灯されていた。
 怪我に消毒をして包帯を巻いて出てきたので困ることは無いが、その穏やかな暗闇に、期待感が膨らむ。

 大きく開けられた遮光カーテンの間に、七瀬は立っていた。
 横浜の夜景をバックにして、七瀬自身はバスローブのみを身体に巻きつけて、外を見ている。

 背後に寄り添い肩を引き寄せれば、七瀬は途端に身体を強張らせた。
 それは、拒絶のようでもあって、晃歳は引き寄せたときと同じくそっと手を離す。

「まだ、そんな風には思えないか」

「俺は、こんなに汚れきった身体だから、きっと、貴方に触ってもらう資格なんてないよ」

 声が少し涙声に聞こえて、晃歳は窓ガラスに映る七瀬に目を奪われた。
 頬を涙が伝い落ちる。

「今までは後悔なんてしないと思ってたけど。
 今、心底後悔してる。こんな身体で、貴方に触るなんて、自分で許せない」

「俺は、触って欲しいのに?」

 今度こそ、無理やりにでも、七瀬を抱き寄せた。
 背中をすっぽりと包み込み、七瀬の胸の前で腕を交差する。
 逃がさないように、力強く抱きしめた。口元に触れるふわふわの髪に、そっと口付ける。

「俺は、男を抱いたことは無いけど、それでも、七瀬に触りたいと思うよ。
 身体中、どこもかしこも、俺のモノにしたい。他の男の痕跡なんてすべて塗りつぶしてやりたい」

「自分が、信じられないんだ。
 誰に抱かれたって、今まで傷ついたことなんてなかった。それなのに、今、すごく傷ついてる自分がいる。
 今まで、何てことをしてきたんだろうって」

「……七瀬」

 その言葉が嬉しいことに、七瀬は気付いているのだろうか。
 感動して声も出ず、晃歳はぎゅっと七瀬を抱きしめた。ふわふわの髪に頬ずりをする。こめかみに口付ける。

「それ、自惚れて良い? 俺を好きだから、後悔してるんだって」

「わからない。……晃歳のこと、好きなのかどうかも。ただ、今までの自分が恥ずかしいと思う」

「それが、七瀬の生き方だったんだ。俺は、仕方が無いと思ってるよ。
 今まで俺に出会わなかったんだから、それまでの過去は俺に出会うまで行き続けてくれた証だ。
 傷ついたというなら、俺はそれを癒してあげたい」

 何がきっかけだったのか、それは七瀬が話してくれるまでわからないだろう。
 けれど、何か理由があってしていたことだ。
 それがなくては七瀬自身にとって辛かったのだろう。
 でなければ、男が男に抱かれるなんて、それも若頭の立場でもっとずっと格下のチンピラにすら抱かれるなんて、あり得ないのだから。

 ならば、晃歳としては、それを受け入れるだけだ。
 七瀬を生かしてくれた行為に、晃歳がモノをいう資格など無い。
 今ここに生きている、その事実だけが大切なのだから。

「夜景は、こうしてみているととても綺麗だけれど、その光の裏側には人間のドロドロした部分がたくさん詰まっていることを俺は知ってる。でも、そんなこともひっくるめて、だからこそ夜景は綺麗だと思う」

 急に変わった話題に、七瀬は晃歳を顔だけで振り返った。
 晃歳は、真摯な表情でじっと外を見つめていたが、それからふっと七瀬に視線を下ろした。

「七瀬も同じ。七瀬の中に、今まで生きてきた過去も、結構腹黒いことを考えている現在も、ヤクザの親分としてあくどい事も躊躇無くすることになるんだろう未来も、たくさん詰まっていて。だからこそ、七瀬なんだと思う。
 そんな七瀬だから、俺は惚れたんだ。七瀬には、自分を恥じて欲しくない。自分が自分だからこそ俺に惚れられたんだって、自信を持って胸を張っていてほしい」

 ちゅっと、頬にキスを一つ。
 まるで子供のようなそのキスは、七瀬の心にあたたかい気持ちを宿らせた。

「だから、俺は七瀬をずっと守って生きたいと思う。胸を張って前を向いて、先に進んでいって。俺は、一歩も遅れずについていく」

 頬を滑る唇は、そのまま耳朶を甘く噛み、首筋へと落ちていく。

 先日、身体を知り合って何年にもなる総長に同じことをされた時には、身体が強張って言うことを聞かなかったというのに。
 七瀬の唇を出たのは、甘い吐息だった。
 拒否なんて考えもつかないほど、身体の力が抜けていく。

「こんなに人の肌を熱く感じるの、初めて」

「今まで、感覚を封印してきたんだね。だから、誰に触られてもみんな一緒だったんだろう? 快感も不快感も、あまり感じない」

「……どうして?」

「ラウンジで、以前七瀬が自分でそう言ったよ」

 答えて、晃歳は七瀬をベッドへ導いた。
 上掛けを引き剥がし、七瀬を横抱きに抱き上げて横たえる。
 すかさず上に乗り上げて、唇にキスを落とした。最初は触れるだけ、次は唇を唇で挟んで吸い上げて、さらに、舌を差し入れ白い歯を舌先でなぞる。

 七瀬は、晃歳の胸に両手を置いて押しやる姿勢のまま、実際には押しやることも無く固まっていた。
 口の中で七瀬の舌を見つけて吸い付くと、七瀬の喉が色っぽく音を出す。

 唇を離して見れば、声も無く、ただ涙を流す七瀬が見えた。
 指先でしずくを掬い上げてやれば、自分が泣いていたことに気付かなかったらしく驚かれたけれど。

「嫌?」

 確かめる晃歳に、七瀬は首を振った。

「人の肌が恐いと思ったの、初めてだ」

「恐い?」

「あたたかさが心地良くて、失う時を思うのがすごく恐い」

「俺は、離れないよ」

「人の心は移ろいやすいよ。別れるときが来るかもしれない。いつかは、死に別れる。それが、すごく恐い」

「じゃあ、俺は七瀬より長生きしなくちゃな」

 簡単なことのように宣言し、晃歳は喉でくっくっと笑った。
 そうして、頚動脈のすぐ上に、チリと痛みの走るキスを落とす。
 赤い痕がついたことは、確かめるまでも無く、わかった。

「俺、晃歳が好きなのかもしれない」

「いつか、自信を持って好きだって言ってくれる日を、楽しみに待ってるよ」

 今はまだ、晃歳の気持ちを利用するだけ利用した仮初の関係だけれど。
 きっとそう遠く無い未来だろう。そう思えば、待つだけの日々も長くは無い。

 たくさんの男たちが、この身体を抱いたのだと思うと、それだけでやはり嫉妬の炎はメラメラと燃え上がるが、晃歳はそんな気持ちもまた自分の気持ちだと受け止めて、今から先自分以外の人間に触らせないように、全力で守ることを今更ながらに自分自身に誓う。まるで、神にも祈るように。

「七瀬。愛してる」

 この言葉が、真実彼の心の奥底まで届きますように。





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