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七瀬が部屋を出て行ってしまうと、瀬尾はさらに笑みを深くして、七瀬が出て行った障子を見つめた。
「七瀬は、うちのやつに良く似ているよ。勝気で強情で、そのくせ人情に厚い。涙を見せない奴でな、あれが辛い思いをしてきただろうってことは、死んでしまうまでわからなかった」
「奥様のことですか」
瀬尾の妻は四年ほど前に亡くなったと、晃歳は聞いている。
川向こうの組とのいざこざで組長の命が狙われた際、丁度隣にいた彼女が代わりに銃弾を受けたのだそうだ。
結局、その一件は双方の親分同士の手打ちで片がつき、向こうの組は上層部が組織改変を余儀なくされ縮小されたと聞かされている。
本妻のほかに妾が何人かいても不思議ではないこの業界にあって、一人の女に心底惚れこみ、一人の女に身体を張って守られた大倉組組長の純愛話は、いまだに語り草になっている。
「俺もまだまだ若いつもりでいたが、時代の波には逆らえんよ。
あのいざこざで中堅層をごっそりなくしたせいもあるが、うちは若い連中が元気が良くてな。近いうちに年寄りどもは追い払われるんだろうと覚悟していたもんさ。
それを息子が受け継いでくれるなら、文句は無い」
今回組長の座を息子に譲って引退するに当たって、瀬尾の本心を語られた晃歳は、ただ黙って頷いた。
外から見ていても、大倉組は本当に若くて元気だと思わざるを得なかった。
辰巳組は年寄りどもが実権を握って下を虐げ続け、なかなか次代が育たないことで困っていたから、隣の芝は青いというが、それにしても羨ましいと常々思っていたものだ。
中にいて、それも頂点からすべてを見下ろしていて、瀬尾はその世代の移り変わりを肌で実感していたのだろう。実に頼もしそうにも見えた。
「俺は結局、あいつを守ると言っておきながら、最後まで守られっぱなしだった。それだけが、今でも心残りでね。
晃歳君。君には、そんな後悔をして欲しくはない。だから、頼んでおくよ。
七瀬を、頼む」
「はい」
頭を下げられ、それが本心だと悟った晃歳は、今度こそ、その言葉を肝に銘じた。
命を懸けて守られることを恐がる七瀬の根っこは、それが母を失った理由でもあったからなのだろう。
愛妻に守られた父を見守ってきたからこそ、その記憶が甦ってしまうのに違いなかった。
七瀬本人は気付いていなくとも。
ならば、自分の命も七瀬の命も両方守れるほどに、晃歳は自らを鍛えなくてはならない。
そんな悲しみを、再び七瀬に味わわせたくはないのだから。
晃歳の決意に満ちた表情を、瀬尾は満足そうに見つめ、やるせないため息を一つ。
「それにしても、孫をこの手で抱いてやりたかったが、叶わぬ願いか」
「七瀬が女を抱く姿を想像できないのは、私だけですか」
「君もなかなか言うね。まったく、その通りだ」
あれは、きっと根っからの姫なのだろう。
幼い頃に何かの事件があったせいの性癖だとちらりと聞いたが、そんな事件が彼を襲わなくとも、遅かれ早かれ同じ事態になっていたように、今思い返せばそう思う。
息子の、精悍とは言いがたいその体躯と優しい表情を思い浮かべ、瀬尾は再び苦笑を浮かべた。
自分の息子は、何一つ父の思い通りにはいかない奴なのだ。
それを考えれば、自分と相性の良さそうなこの婿を選んだ息子を、誇りにすら思って良いのかもしれない。
ちょうど、襖向こうに人が来た音がし、ついで声がかかる。
『お食事の用意が整いました』
言われて、瀬尾は立ち上がると、自分を待って腰を上げた婿を見やり、襖を開けた。
まったく、考えうる限りで最高の婿殿が来てくれたものだ。
瀬尾の表情は、そんな満足そうな笑みだった。
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