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 銀座。

 高級テナントビルが立ち並ぶ一角の、何の変哲も無い普通の高級クラブに、七瀬はいた。

 もっとも奥に当たるボックス席で、隣に座るのは三十代後半ほどの外見年齢の、男の色気ムンムンな紳士である。
 一応、ホステスのつく店なのだが、今日は断ってしまった。
 内容が内容なので、守秘義務があるとはいえ、店の女の子がいる場所で話せない。

 ぷかっと煙の輪を吐いたその紳士は、ふぅん、と簡単な相槌を打った。

「じゃあ、神龍会は警戒リストから外していいな?」

 今回の、拳銃密売買阻止事件について、説明したところだったらしい。
 黄と七瀬が個人的な和解を持ったことで、牽制をかけるツテができたわけだ。それは、間違っていない。

 そうですね、と七瀬も簡単に頷いた。

「よろしければ、黄さんと一席設けますが」

「そうか。そうだな、一度会っておきたい。頼もうか」

「承知しました」

 七瀬が自然に敬語を使い敬って話す相手はだいぶ限られている。そのうちの一人が、この紳士だった。
 関東双勇会総長、有沢昇。
 武闘派で知られた先代と違い、大学出のインテリ総長だ。そのおかげで、荒くれ者が鳴りを潜めたと言われている。

 その総長に、関係する子分組織の中で最も可愛がられているのが、七瀬だった。
 学歴こそ高卒ではあるが、大学には興味も無くそんなところで潰す時間も無い、という理由で行かなかっただけで、話せばわかるが頭が良い。会話が楽しいのだと、総長は断言する。

 それで?と総長は七瀬に続きを促した。

「本当にお前、あいつに惚れてんのか?」

 父親には確かめられなかった質問に、七瀬は一瞬言葉に詰まった。

 実際、まだわかっていない。友達以上であることは確かだが、惚れているのかといえばまだ結論の出ていない感情なのだ。

 少し考えて、七瀬は俯いたまま、ため息交じりに答えた。

「……わかりません」

「だろうな」

 即応されて、七瀬は驚いて顔を上げた。面白がっている表情の総長と目が合う。

「そうだろうよ。
 今まで身体売ってきて、辛いと思ったことがあったか?
 お前、一体何人と寝た?
 俺には、お前には感情が宿ってないとしか思えねぇ。ただ、まぁ、雰囲気が少し変わったからな。惹かれているのは事実なんだろうさ」

 にやにやと笑って言うその言葉が実に難解で、七瀬は理解できず首を傾げてしまった。

「確かめてやろうか」

「え?」

「本当にあいつに惚れたのかどうか、さ」

 それは、本来七瀬自身の感情の問題なのだから、他人が客観的に確認する術などないように思えるのだが。
 総長はあっさりと提案して、隣に座る七瀬の肩に手を回す。

 応とも否とも返事を待たず、きょとんと目を丸くしている七瀬を、無理やりソファに押し倒した。
 引き寄せられ押し倒されて、軽く目を回す七瀬の様子にはお構い無しだ。

「嫌なら押し返せ。今だけ許す」

 パニック状態の七瀬に理解できたのかは怪しいが、耳元に囁いて、そのまま耳朶に甘く噛み付いた。
 全身性感帯の七瀬だが、中でも強い快感を覚える場所のひとつが耳朶だ。
 そこに軽く歯を当てられて、七瀬は軽く痙攣し、身体を固まらせた。

 総長の薄い唇が耳から頬へ、鼻へ、移動していく。
 いつもなら甘い息の一つも吐く七瀬は、ひたすら息を潜めて緊張していた。

「七瀬。嫌がって良いぞ」

 愛を囁くのと同じ口調で、そっと囁く。
 顔をくすぐるように移動していく唇が、七瀬のぷっくりとしたおいしそうな下唇をやんわりと挟み、離れる。
 七瀬の頬を、一筋、涙が流れていった。七瀬自身はただ固まってしまっているだけなのだが。

「ほら。泣くくらいなら嫌がれよ」

「……え?」

 聞き返して、離れていく総長の顔をじっと見返す。不思議そうな顔で。
 総長の手が七瀬の頬を滑り、涙を掬い上げて見せた。

「泣いてるだろ?」

 見せられて、初めて気付いたらしい。慌ててその頬をごしごしと拭った。もともと赤い頬が余計に赤くなる。
 こらこら、と苦笑して、総長は七瀬のその手を止め、優しく涙の跡を拭い取ってやった。

「お前、嫌だって感情がわからないんだな。不便だなぁ、それは」

 七瀬ほどの立場になれば、不快感を味わわされるような事態にはならないだろうから、特に困ることも無いだろう。
 だが、人間として、不便だろうとは思うのだ。

「まぁ、泣けたくらいだから、ちょっとは進歩してんじゃねぇの?」

 からかうような口調だが、その実、何とも気の毒な事実に心配もしていた。
 だいたい、嫌悪感がわからないということは、反対に幸福感もきっとわからないはずなのだ。
 その二つの感情は表裏一体。一方だけが存在していては、感情のバランスを崩してしまう。

 不特定多数の人間に身体を差し出すことは、本来その実力を認められる立場の人間にはふさわしくない行為だ。
 人間のオスには征服本能が宿っていて、他者を組み敷くことはその相手を降伏させることに繋がっている。
 つまり、組み敷かれる方が上位に立つということは、見かけ上はありうるように見えて、本能的な判断ではやはり逆転することは無いのだ。

 ヤクザの世界は、本能的な暴力行為を基本に成り立っている社会だ。
 その世界で、頂点に近い人間が最下層に近い人間に抱かれる行為は、あまりに無理がありすぎる。
 だから、七瀬を抱きたいと思う男は多い。七瀬が若頭の立場であるからこそ、余計に数が増える。

 今のところは一応、立場の逆転も起こらず平穏なままでいるが、いつ混乱が生じるかわからない。
 そろそろ、その変則的な現象を収める必要は感じていたわけだ。

 そんな矢先、七瀬が姫を辞めると自ら言い出した。
 表にこそ出さないが、総長としては願ったり叶ったり。諸手を挙げて受け入れるべき申し出だったわけだ。

 ついでに、川崎の区画整理まで請け負ってくれるというのだから、総長としては拒否する理由がまったくなかった。

 後は、可愛がっている七瀬の幸せを願い、手助けしてやるくらいか。

「七瀬」

「はい」

「横内はなかなかいい男だ。幸せになんな。次の総会、楽しみにしてる」

「はい。ありがとうございます」

 それは、七瀬に全権を委任する、実質的な許可宣告であった。





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