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とはいえ。
七瀬には、この一件を一ヶ月も長引かせるつもりなど毛頭無い。それどころか、一週間で決着をつけるつもりでいた。
貴文にも言ったが、事は長引けば長引くほど、相手に舐められる。規模では負けていても、心まで負けたくはなかった。日本のヤクザを軽く見られるのはごめんだ。
連絡がついたのは、事件から三日後のことだった。
七瀬の客は実に多種多様だ。中には、横浜中華街の闇連絡会元締め、などという肩書きを持つ人物もいたりするのだ。
何しろここは川崎。しかも海側である。横浜にも東京にも、コネは作っておくべき地理だった。
『黄は君に会うそうだよ。及ばずながら、儂が通訳となろう』
電話口から聞こえる、老人らしい濁声は、七瀬を実の孫のように可愛がってくれる元締め本人であった。直接連絡をくれるところからも、可愛がり具合がわかるというものだ。
「いえ、東師父の御手を煩わせるわけには……」
『七瀬。相手はマフィアだよ? 可愛い七瀬を守りたい、爺の気持ちも汲んでやっておくれ』
「はい、失礼を申し上げました。では、どうぞ宜しくお願いいたします」
『うんうん。素直さと謙虚さを忘れてはいかん。それで、今夜は大丈夫かね』
「先方のご都合がよろしければ、私は出来る限り早い段階でお会いしたいと思っております」
『よろしい。では、今夜七時に儂の店においで。円卓を用意しておこう』
「宜しくお取り計らいくださいませ」
ちなみに、相手はもう七十を過ぎた老人である。
七瀬姫の客ではあるが、いまだかつて肉体関係を持ったことは無く、他人に抱かせて楽しむ趣味も無いらしい。
酒の供にして実の孫のように可愛がってくれる好々爺だった。芸者遊びの感覚なのかもしれない。
できるなら、この人物とはお爺ちゃんと孫の関係を崩したくはなかった。
確かに出会いはその人脈作りのためだったが、出会ってから八年も経った現在、肉親に甘えることの少なかった七瀬には数少ない甘えられる相手なのだ。
しかし、それも今日までのことだろう。所詮手駒に使えるコネの一つに過ぎない、と宣言してしまったようなものだ。
しかし、相手は中国人。中国系の、裏に顔の利く知り合いを頼るのも、当然の成り行きではあった。
まだ切れていなかった電話から、その相手のしわがれた声が聞こえる。
『七瀬。儂はお前の役に立てることを心底喜んでおるよ。遠慮はいらん。儂で出来ることならば、何なりと言っておいで。力になろう』
それは、今回の件を最後に関係を諦めてしまおうとしていた七瀬の心中を先読みした言葉に他ならない。
七瀬は、はっと顔を上げた。
そう。七瀬が諦めてしまうことは、彼の行為を無にするようなものだ。
「ありがとうございます」
『うむ。では、今夜。待っておるよ』
今度こそ満足そうな明るい声色で、東氏は電話を切る。
七瀬もまた、幸せそうに微笑んで、携帯電話の切ボタンを押した。
カラリ、と自室を仕切る襖を開けると、目の前には見慣れた顔が真剣な表情で畏まっていた。
正座の両膝に手をついて、微動だにしない。
「若。お出かけですか」
その大聖寺の、咎めるでもなく、質問でもなく、ただ問いかける問いに、七瀬は簡単に頷いた。
「東師父のところへ」
「お供いたします」
「大聖寺が?」
はい、と大聖寺は当然のごとく頷いた。そして、渋る七瀬ににじり寄る。
「若をお守りすることこそ我が本懐。この身をかけて、御身ご守護申し上げます」
七瀬が渋るのも、当然のことなのだ。
相手はこの組になくてはならない幹部の一人。しかも重役だ。若頭一人のために命をかけられるほど、軽い命は持ち合わせていない。
だが、大聖寺はおそらく、ここを引くつもりは無いのだろう。
拒否をしても無理やりついて来るに違いない、そんな勢いだった。
ならば、自分の目が届くところにいてもらった方が、七瀬の心の安寧のためだ。
何しろ、初めて自分から関係を迫った相手。それなりの感情も持ち合わせてはいるのだ。
「じゃあ、一緒に行こうか」
「車を用意させましょう。お待ちください」
一礼をして立ち去っていく大聖寺の背中を見送って、七瀬は深いため息をつく。
自分自身を守ることもままならず、心優しい身の周りの人々に、心配され、甘やかされ、守られている自分。
今までだって、自分に組長など務められないとは思っていたが。
今回のことで思い知った。自分はその器ではない、と。
「……やっぱり叔父貴に譲ろう」
自分の周りに人がいないことは確かめた上で、七瀬はぼそりと一言呟いた。
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