14
翌日の夜。
七瀬は同じホテルにいた。
場所は客室ではなく、マリーナを一望できる絶景ポイントで知られるレストランバー。
隣には、七瀬の隣に居るには不釣合いすぎる、脂ぎった中年男性がいて、しきりに七瀬の美貌を褒め称えていた。
この顔とかれこれ二十三年付き合っている七瀬にとって、そんな賛辞は耳タコで、何の感慨も与えられない。むしろ、不快ですらあった。
まぁしかし、何にしろ客は客。
ヤクザの若頭という立場上、相手に媚びたりはしないが、だからといって、七瀬にはこの後の情事を断る権利など無いのだ。
だから、不機嫌な表情を隠しもしないかわりに、イラついていても席を立つこともなく、ソルティドッグのグラスを傾けていた。
「七瀬君。聞いているのかい?」
「えぇ、聞いてますよ、高橋社長」
頭の中には残ってませんけどね、と内心で呟きつつ、口元にだけ笑みを乗せる。
目元は笑っていなくとも、口が笑っていればなんとなく相手は安心するものらしい。
この男、七瀬の顧客リストにはまだ名の載っていない新参者だった。
七瀬も気に入って懇意にしている常連のナイスミドルの紹介でなければ、こんな小男、歯牙にもかけない。
聞けばなるほど、この子男ぶりも納得の肩書きだった。
七瀬がまだ子供だった時分に亡くなった先代の長男として会社を継ぎ、事業に次々と失敗して会社を傾けかけている無能な二代目で、前社長に恩義のあったある人物が見るに見かねて七瀬を紹介した、とそういうカラクリだったのだ。
紹介者には申し訳ないが、この男とはこれきりにしてもらおう、と本題に入る前に採点を終えてしまった七瀬は評価を下した。
できれば、この後だってお断りしたいのだが。
誰か邪魔に入ってくれないかなぁ、などと他力本願なことを考えて、ため息をそっと脇に逃がした。
隣でペラペラと父親の功績を語る男の言葉を聞き流しながらグラスの塩を舐めていた七瀬は、聞き覚えのある声を耳にして、思わず後ろを振り返った。
そこにあったのは、店先で誰かを送り出す知人の姿だった。
その立場では考えもつかない腰の低さだが、見送られている方も七瀬は知らないでもない大物で、彼の態度に納得する。
それは、昨日和やかに初対面を終えた、同業者だった。
横内晃歳。
七瀬の実家である大倉組と同じく関東双勇会に所属する、川崎地区を三分するうちの一つ、辰巳組の若き三代目組長だ。
向こうもまた、振り返って驚いた表情をしている七瀬に気付いたらしい。
軽く手を挙げ、こちらに近づいてきた。
「大倉さん。先日はどうも」
晃歳が声をかけたことで、七瀬が後ろを向いていたことにようやく気付いたらしく、隣に居座る男もまた、後ろを振り返った。
途端、けして低くは無い椅子から転げ落ちそうなくらい、男はその場で腰を浮かせた。
どうやら、男と晃歳は顔見知りであるらしいが。
「おやおや、これは高橋社長。こんな所でお会いするとは奇遇ですね。景気はいかがです?」
「ぼ、ぼちぼちといったところかな。はは、ははは」
明らかに動揺している様子の男は、噴出す脂汗をハンカチでしきりに拭いて、引きつった笑顔でそう答えた。
しかし、この高橋という男。微妙に命知らずなことをしてのけたものだ。
晃歳といえば、今は組長、ちょっと前でも若頭の立場だ。
その相手と顔見知りということは、二人の態度から見ても、辰巳組に何らかの多大な借りがあるはずだ。
その立場で、まったく接点の無い、シマが隣り合っている分不仲も想像に難く無い、別の暴力団と顔を繋ごうというのだから。
「いやいや、ご謙遜を。七瀬姫をお供にこんな豪勢な場所で飲めるなんて、並大抵のことじゃありませんよ。
明日こそは、いくらか返していただけると期待してもよろしいのかな?」
「ま、まま、待ってくれ。明日は、明日はまだ、困る。げ、現金が、そう、現金が手元になくてね。はは……」
「ご心配なく。銀行までお供させていただきますとも」
「こ、困るよ、困る。期日はまだ先のはずだし。いや、そう、用事を思い出した。これで失礼するよ」
ニコニコと笑う晃歳が余計に恐ろしいらしい彼は、そそくさと店を出て行ってしまった。
唖然とした様子で事態を眺めていた七瀬には挨拶も無い。
呆然と見送ってしまって、はたと気付く。
「あのオヤジ。勘定置いて行きやがった」
よっぽど晃歳が恐ろしかったのだろう。取るものも取りあえず、体裁も構っていない。
男が去ったその席に座ってバーテンダーにバーボンを頼んだ晃歳は、改めて七瀬の顔を覗き込んだ。
「ご迷惑でしたか?」
それは、七瀬の連れを追い払ってしまったことに対する問いかけだった。
七瀬の連れであることは認識にあったはずで、あの意地悪な言葉も故意だったのだろう。
晃歳に尋ねられて、ようやく我に返った七瀬は、今度こそ盛大なため息をついた。
「助かりましたけどね、今回は」
「お仕事の邪魔をしてしまいましたか」
「えぇ、まったく。
高橋さんのところからは大した実入りも期待してませんでしたから良いんですけれどね。紹介してくださった方に何と言ったら良いか」
「高橋というと……吉井さん?」
「えぇ。吉井さん」
「だったら、俺の方からも謝っておきましょう。
何、大丈夫ですよ。高橋がうちに借金していることくらい、吉井さんも把握してますから」
くっくっと喉を鳴らして笑う晃歳に、七瀬はまたもため息をつき、ほとんど中身の無くなっていたグラスを空けた。
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