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 東京都台東区上野。月明かりに照らされた深夜、不忍池のほとりに、二人の姿があった。

 いや、一人と一匹というべきか。

 一人は、お尻が隠れるくらいの長さのチュニックに足首で絞られた麻のズボンを履き、靴底が木製の革靴で、何かの毛皮で作られたコートを着ていた。その背中には、首筋辺りでまとめて革紐で結んだ長い黒髪が流れていた。その足元に四足で立つのは、漆黒の毛で覆われた猫科の猛獣であるらしい。

 近くの時計を見上げれば、時刻は十一時を示していた。

「ちょっと遅くなっちゃったね」

『この時間で無いと、家族は家にいないのだろう?』

 それは、季節が正反対だとわかっているからこそ、真夏であるにもかかわらずこんな厚着をして、ハンペータは向こうの世界から旅立ってきた。こちらの世界では、これでも少し寒いくらいだ。

「寒くない?」

『大丈夫だ。ハンペータが作ってくれた火の膜のおかげで、暖かいくらいだぞ』

 ハンペータは人間だから、着るもので暑さ寒さを調整できるが、豹のルフィルはそうはいかない。ちょうど真夏だったせいで夏毛に覆われていたから、無防備にこの季節の風に当たったら凍えてしまう。

 良かった、と微笑んで、ハンペータは改めて周りを見回した。たった二年では、景色もそう大きくは変わらないようだ。まして、ここは公営の公園。十年経ってもこのままだろう。

 自宅がある場所は、この池とはまったく反対方向の、住宅街の中にある。そちらに向かって歩き出せば、ルフィルも一歩遅れてついてきた。

 本当は、自分一人で来るつもりだった。誰かに会うつもりもなかったし、家の様子を見るだけで、早々に退散するつもりだった。

 けれど、残して行こうと思っていた恋人に反対されて、半強制的に連れて来させられることになったのだ。仲間たちもみんな口をそろえて、ルフィルだけは連れて行け、と言うのだから、ハンペータにはそれを拒否する正当な理由もなかった。

 もちろん、人にルフィルの姿を見られたら大騒ぎになる、という理由はあったけれど。深夜に当たる時間に人間と一緒にいる猛獣を見て騒ぎ立てたところで、夢で片付けられるに決まっている、という意見が大半だった。それはまぁ、確かにその通りだろう。

 そのルフィルに、家族と会ってちゃんと話をして、別れの挨拶まできちんとしておいで、と言われた。そうでないと、いつまでもこちらの世界を引きずってしまうから、と。

 その通りだった。この世界を離れるとき、ハンペータが家族に残したのは一通の置手紙だけ。それも、この家にはもう戻ってくることはない、という事実だけを書いた手紙で、今まで育ててくれてありがとう、だとか、さようならという別れの挨拶なども一切書かなかったのだ。

 あの時は、とてもそんな気持ちにはなれなかった。自分の居場所がこの世界には無いのだと、がっかりした気持ちしかなかったから、恨みの言葉ならいくらでも出てきたが、感謝などこれっぽっちもなかった。

 今だって、別に感謝の気持ちは無いのだが。挨拶くらいはしておけば良かったと、その程度の後悔はしていた。

 突然ひょっこり帰ってきて、その晩のうちにまた出て行くのだから、それなら会う必要も無いだろう、といったハンペータに、ルフィルはそれでも、会うべきだと主張したのだ。幸せにやってるから心配するなと、その程度の言葉を残していくのは、子供として当然の責務だろう、と。

 この時間、忙しい会社に勤めるサラリーマンなら帰宅時間のはずだが、珍しく誰にも会うことなく、ハンペータは懐かしい自宅の前に立っていた。

 自分の部屋があった場所を見上げれば、そこには誰かがいるらしく、電気がついていた。二年間、自分の帰りを待って自室をそのままにしておいて欲しかったとか、そんな我侭なことは思わないが、やはり少しがっかりはする。

『入らないのか?』

「あぁ、うん。そうだね」

 こんな所に立ち止まっていても仕方が無い。インターホンに手を伸ばす。電気がついているのだから、誰か出るだろう。

 二年前から変わらない、間延びした音が、インターホンと家の中から聞こえた。しばらく待って、向こうから聞こえてきたのは、中年の女性の声。自信が無いのが情けないが、おそらくは母親の声だ。

 こんな夜遅くの来訪に、気分を害したのだろう。不機嫌な声だった。

『どなた?』

「半平太です」

『……は?』

 そりゃ、まぁ、驚くだろう。置手紙をして行方不明だった息子の名前だ。

 かなり間が抜けた声を残してインターホンの音が消え、おもむろに玄関が大きく開かれる。

 その玄関を開けたのは、母でも父でも祖父でもなく、ハンペータがこの世界を離れた当時はアメリカに留学中だった従兄弟だった。その人がこの家にいるのは不思議だったが、ハンペータはそれを表情には表さず、ペコリと頭を下げる。

「半平太!」

 引っ掛けたサンダルをパタパタ鳴らして、こちらへ駆け寄ってきた従兄弟は、門の扉を自分で開けて入ってくるハンペータの腕を引き、強く抱きしめた。

 家でも学校でも浮いていたハンペータを、唯一問答無用で可愛がってくれたのが、この従兄弟だった。十才も歳が離れた彼は、まるで歳の離れた弟を可愛がるように、過剰とも思えるスキンシップと共に猫可愛がりしていて、ハンペータも彼にだけは無条件に懐いていたものだ。

 彼にこうして抱きしめられるのはいつものことだったので、ハンペータはまったく気にも留めなかったのだが。その二人を引き裂くように、足元に割り込んできたものがあった。するりと肌触りの良い毛並みをハンペータに擦りつけ、狭い空間に無理やり滑り込んでくる。

 ルフィルのその行動に、ハンペータは彼を見下ろすと、思わず笑ってしまった。

「やだ、ルフィルったら。妬いてるの?」

『悪いか。くっつきすぎだ。何者だ、こやつは』

 主人を守るようにハンペータの前に立ちはだかり、従兄弟に牙をむく。ハンペータはそんなルフィルを落ち着けるように優しく抱き寄せ、背を撫でた。

「彼は、僕の従兄弟だよ。義巳さんっていうんだ」

『従兄弟?』

「うん。父の弟さんの子だよ。僕にとっては、おっきいお兄ちゃん」

 義巳と紹介された彼は、どう見ても黒豹としか思えない猫科の肉食獣の姿に、そしてその獣に抱きついている従兄弟の姿に、唖然としていた。

 ルフィルは、義巳をじっと観察しているようだったが、それから、少し身体の力を抜いた。

『味方もいたのだな』

「それじゃ、僕の周りはみんな敵だったみたいじゃない」

『おや、違ったか?』

「うーん。違わない、かな?」

 今が幸せだから、過去のことも笑って話せるらしい。ハンペータの反応に、ルフィルは少しほっとして、それから、義巳の背後にも視線を向けた。

 玄関口では、初老の男女が二人並んで、こちらを見守っていた。

『あれが、ハンペータの両親か』

「……あれ? 叔父さんたちだ。義巳兄ちゃんたちも、この家に越してきたの?」

 どうやら、二年前とは住人が変わっているらしい。ハンペータが首を傾げて確かめるように義巳を見上げる。

 義巳は、ハンペータに促されて後ろを振り返り、現在の状況を再認識した。それから、ハンペータの背に手を回し、玄関への道を空ける。

「半平太がいなくなってから、この家もいろいろあったんだよ。とにかく、中に入ろう」

「うん。行こう、ルフィル」

 義巳に案内されて歩き出して、ハンペータは自分のすぐ隣に従っている恋人を見下ろす。促されて、ルフィルもそちらへ足を踏み出した。





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