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ほぼ一ヶ月ぶりにやってきたその部屋は、来た当初は気付かなかったけれど、同じ城内とは思えないほど澄んだ空気に満ちていた。うるさいほどにごちゃごちゃと濁っていた多種多様な気配が、この場所ではまったく感じられない。
天窓しかない、密閉された小さな部屋なのに。
足元には魔方陣が書き込まれていて、これがこの部屋の気配を清浄に保っているのだろう。
目を閉じて探ってみれば、王宮を守る守護結界の外側に大きく張り巡らされたハーンの弱弱しい結界が、森の家にいる時と同じくらいはっきりと感じられた。
これなら、結界点も探せるだろう。
「では、私は城内警備の指揮を取るために戻ります。衛兵を残してまいりますので、何かありましたらその者にお声をおかけください」
「ありがとう。シィンも気をつけて」
「はい」
一礼して足早に戻っていくシィンを見送り、僕はルフィルに部屋の唯一の出入り口を外から番してくれるように頼むと、一人で中に入った。
この世界に来てから少しずつ育った鋭い感覚が、さらに研ぎ澄まされる。それは、扉を閉めればさらに強くなった。この土地の力が強いということを実感する。
魔方陣の中央に座り、目の前に地図を広げた。結界点を書き込んだ地図に視線を落とし、意識を集中する。まず探すものは、場所の明らかになっている結界点。
起点は僕の真正面。つまり、北の一点だ。
……ひとつ。
……ふたつ。
点と点の間は距離も角度もほぼ一定。ハーンの仕事の正確さが窺える。
一つ一つ追っていけば、明らかになっていなかった結界点も、はっきりと掴むことができた。ぐるりと一周回って、起点に戻る。
僕の意識の中に、バル王国の街を取り囲む堅固な城壁と町並み、人々、中央に象徴のように威風堂々と建つ王宮が立体模型のように浮かび上がる。王宮の城壁を囲む透明の膜は王宮の守護結界。そして、街全体を囲む城壁のさらに三ドーリ外側を取り囲む、結界点で結んだ円。
はっとして、僕は思わず顔を上げた。ハーンの結界が、それこそ音を立てて崩れ落ちていくのがわかった。
実体を持たない神々は、魔法がかった力も当然持ち合わせているらしくて、それこそ、いとも簡単に、という感じだった。さっきまで、何の支障も無いように感じられていたのだから。
急がなくちゃ。大群が押し寄せてくる前に。
改めて、意識を集中する。僕のすべての意識を結界点で出来た円に集中させる。イメージするのは、美しい半球。僕たちを守ってくれる、強化ガラスのドームだ。
部屋に漏れ聞こえてくるのは、城内にも入り込んだのか、兵士たちが慌しく動く足音や鎧のこすれる音、それに、叫び声。
そんな音も、地図を見つめて脳内にトリップしていく内に、薄らいでいく。
脳内だけの、静寂に満ちた空間。見えるのは、街と森とドームだけ。
手は地図に描いた結界点の円をなぞり、脳内ではドームの縁を丁寧になぞる。
壁を持ち上げて、頂点ですぼませて。
実際に手をドームをなぞるように持ち上げて頂点で握り、そのまま上に持ち上げる。脳内で、ドームがぷよんと波打って、弾力のある硬い結界が完成していた。
顔を上げて、実際に確認してみれば、僕の脳内で完成したものと同じように、王宮を守る守護結界よりも強い結界が、出来上がっていた。
強度を確認している暇はなかった。我に返って外を窺えば、相当数が王宮内に入り込んだらしく、大騒ぎになっている。
扉を開けて見れば、ルフィルが臨戦態勢で足を踏ん張り、そこにいた。
「ルフィル」
『終わったか?』
「うん。成功だよ」
『ならば、入ってきた奴らを片付ければ終わりだな。まったく、人間どもはいつまで経っても脆弱で情け無い。知恵があるというなら、もう少し知恵を絞って対抗して見せればよいものを』
どうやら、苦戦しているみたいだね。ルフィルの愚痴のような言葉に、僕は苦笑するしかなかった。
一方、僕が部屋から出てきたのを見つけて、シィンに残されていた衛兵たちが駆け寄ってきた。
「ここはまだ危険です。中でお待ちください」
「敵は混合種なのでしょう? 剣を貸してください。僕も戦います」
途端、ルフィルも弾かれたように僕を見上げ、激しく首を振ったけれど。僕は、守られるだけの弱い人間にはなりたくないんだ。男だという自覚があるから、なおのこと、譲れない。
「ですが……」
「躊躇している時間はありません。こうしている間にも犠牲者が増えてしまう。僕なら大丈夫ですから」
コブシを握って僕は自分の胸を叩いて見せる。悩みながらもおずおずと差し出してきた長剣を受け取って、鞘から引き抜く。さすがに鉄製の長剣は重い。けど、両手で握れば振れない重さじゃなかった。これならば、大丈夫。
「本当に、大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ。シィンには叱られないように僕がちゃんと説明しますから」
風の呪文で剣の重さを軽減して、自分自身を斬らないように気をつけながら胸に抱き上げて、ルフィルを見下ろして。
「行こう、ルフィル」
『無茶はするなよ』
「ルフィルが守ってくれるんでしょう?」
『もちろんだ』
僕の意思が固いことは、ルフィルにも伝わったらしくて、それ以上の反対もせず、力強く頷いた。
『行こう』
僕を先導するように走り出すルフィルを追って、僕も足を踏み出した。
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