55
ゆらゆらと揺れる水面に反射して入り込む頼りない月明かりが、船長室をほの明るく照らす。
満月には少し満たない十三日月の夜だ。
翌日に備えて見張り以外は全員が寝静まっている。
予定より少し早く目的地に着いてしまったため、今は帆を畳んで海上に留まっている状態だ。
あの事件以来、愛していると囁く以外に手を出さないゴルトに、セレは少し戸惑っていた。
あれだけ情熱的にこの身体を抱いた男が、身体を密着させて睦言を交えながら言葉を交わしていて、それでもそれ以上の行為に及ばないのは、少々不自然ですらある。
今も、ふと目が覚めれば、セレの身体を抱き枕のように抱きしめて、ゴルトは気持ちよさそうに眠っていた。
船長室にベッドはない。
それは、そこが司令室でもあるから、という理由以上に、船長にはベッドに身体を横たえてゆっくりと眠ってしまうという無責任な行動は許されないからだ。
どこの船でも同じことで、ゴルトはすぐにでも外に出られるように服を着込んだまま、大きなソファに少し斜めになって身体を預け、眠っていた。
その彼に抱きしめられていたセレも、当然ソファの上だ。
ゴルトに半分乗っかる形だった自分に気付いて、眠っている男を起こさないようにそっと身体を起こす。
気持ち良い抱き枕が逃げたことに気付いたようで、ゴルトの腕がセレの腰を強く抱き寄せた。
「うぅ〜」
どうやら目を覚ましてしまったらしい。
不機嫌そうに唸られて、セレはくすりと笑みをこぼす。
「まだ夜中だ、寝ていていいぞ。少し夜風に当たってくる。腕を放してくれ」
まどろんでいる状態のゴルトに話しかけながら腕を掴む。
セレが動かす方向に素直に従ってくれるのは、きっと脳か身体かどちらかは起きているのだろう。
がっしりと重い腕から開放されて、セレはさっと自分の身なりを確認し、足音を殺して船長室を出た。
広い甲板に人の姿はない。二本の太いマスト以外に障害物のない甲板は、艶々なほどにキレイに磨かれていて、月明かりによって銀色に輝いて見える。
こちらに近いマストの上部に設けられた見張り台には、今夜の見張り担当がいるのだが、見上げてもこちらに反応がないということは、居眠りでもしているのだろうか。
甲板には降りずに南の端まで行って手すりに寄りかかる。
セレ程度の重さではビクリともしない手すりに体重を預けて海を眺めれば、ちょうど頂点に差し掛かった月の明かりが水面に一条の光の線を描き出していた。
ゆらゆらと波に揺られて、幻想的な風景だ。
水と月明かりの作り出す景色に和んでボンヤリと風に当たる。
一度目が覚めてしまうとしばらくは眠気が襲ってこないようだ。
ゴルトに解かれたまま結い直していない髪が、優しい風に遊ばれて背中で揺れている。
背後に大きな気配を感じて振り返ろうとしたセレは、その背中を抱きこまれて正体を探り、その腕の中で身体の力を抜いた。
先ほど起こしてしまったゴルトだった。
「いよいよだな」
「……あぁ」
夏とはいえ、夜の海上はさすがに寒かったようだ。背中に感じるゴルトの体温が、暖かくて心地良い。
「悪かったな、起こして」
「いや。俺の腕が重かったんだろ」
「そうでもないと思うが。まぁ、起きたら重かった」
「そうでもなくないじゃねぇか」
ぷっと笑い出したゴルトを見上げ、セレも困ったように目元と口元に笑みを乗せる。
まったく、平和な会話だ。
抱き寄せられた格好のまま、どうやら放してもらえないらしいと判断して、セレは身体を寄りかからせるようにして空を見上げた。
無数の星が、まるで降り注ぐようだ。
月明かりにも負けずにこうして見えているのは、それだけ空気が澄んでいるということなのだろう。
明日も天気が良さそうだ。
「なぁ」
よりかかったまま声をかける。
ん?と問い返してきたゴルトの声が大きな胸の中で反響していて、背中からゾクリと痺れが走る。
「手、出さないのか?」
「……お前に?」
「あぁ。好きにして良いって言っただろう?」
「好きにしてるさ。お前に触るのに、遠慮するのはやめた」
「そういうことじゃ……」
「良いんだ。今はまだ、お前を悩ませたくない。
少しずつ慣らす事にしたんだ。俺のそばが幸せだと思えるようになったら、その時に先に進むさ。
焦るつもりはねぇよ」
ポンポン、と子供を慰めるように頭を叩き、抱きしめていたその身体をさらに引き寄せる。
急に引かれて足元をふらつかせたセレに、楽しそうに笑った。
「あの頃のトーナに、似てるんだよ、お前は。
笑ってても、怒ってても、上辺だけに見える。
今は笑うところだ、怒るところだ、って自分でコントロールしてないか?
感情ってのはな、自然に湧き起こるもんさ。それを、教えてやるよ。
ゆっくり進めば良い。ここに、残るんだろう? だったら、時間はたっぷりあるさ」
大人だからな、そのくらい待てるぞ。
そんな風に嘯いてみせるゴルトを見上げ、セレは理解できないように首を傾げる。
眉間が寄っているから、それなりに考え込んでいるのだろう。
セレの反応を、ゴルトは想像していたらしく、ただ笑っただけだったが。
「良い、良い。悩むな、今は。お前が俺を愛するようになったら、その時に抱いてやるよ、ってことだ」
「……少なくとも、他の人間よりは好きだと思うんだが」
「あぁ、それはわかってるさ。だから、待ってられるって自信があるんだ。
これでも、マジで愛してるんだぜ。難しいことは大人に任しとけよ。
お前には、無償の愛に包まれる子供の時間ってのが必要なのさ。そんなもんかと思っとけ。今はそれだけで良い」
「……子供の時間、ねぇ」
「まぁ、何年も、ってなると、俺の忍耐も微妙だがな。俺は、信用できるんだろう? だったら、無条件に信用しとけ」
うん、と迷いなく頷いてくれるセレにゴルトが感動していることを、セレ自身は気付いているのかどうか。
打算と大人の事情に囲まれて生きてきたセレにとって、無条件で人を信じる危険など百も承知のことだろうとわかるから、じーんと心に沁みる。
まるで甘えるようにゴルトの胸に頬を擦り付けて、セレはそっと目を閉じた。
少し早いゴルトの鼓動に、心が落ち着く。
この船に乗せられてから、海賊特有の豪快さに巻き込まれて、その代わりに陰険陰湿なやりとりから開放され、心に立てた壁が柔くなっているのがわかるのだ。
国に帰るならば危険な状態。けれど、守ってくれる腕をセレは見つけた。
ここに、縋っていれば良いのだと、本能が教えてくれる。
だからこそ、信用している。
海賊という、本来信用してはいけないはずの職業の、しかも親玉であるはずの、この男を。
腕の中に納まって子供のように身を任せてくれるセレを抱きしめ、ゴルトは少しそちらに体重をかける。
無条件で守り慈しみ愛したい相手であるセレだが、自分のすぐ近くで自分を支えて欲しい相手でもある。
それが、行動に出たらしい。
セレは、そのゴルトを、自分も寄りかかることで平然と受け止めている。
きっと深い意味もなく、それが当然であるように。
男同士だからこそ、一方的に守るだけではなく、支えあいたいと思う。
まだ、セレにそこまでの負担はかけられないが、いつかはセレにもそう思って欲しい。
それが、ゴルトの本音だ。
きっと、セレには受け止められるだろう。女々しいところなど微塵もない、男前なこの子なら。
寄りかかりあって、空を見上げていて、二人同時に流れ星を見つける。
流れ星は幸運を運ぶと言われる。きっと、明日は順調に進むだろう。
「姉上は、わかってくれるだろうか……」
「大丈夫だろ。お前と血を分けてるんだ、性格も似たようなもんだろ?
生き証人も持ってきた。用意は上々さ。細工は流々、後は結果を御覧じろ、ってな」
「……失敗したら……」
「お前を守るのは俺の仕事だ。攫って逃げてやるよ。
俺は最速の海賊マリート号の船長だぜ。狙った獲物は逃がさねぇ。覚悟しろよ」
無理に自らを誇張してみせるような言葉で、それはきっとセレを笑わせるためにおどけて見せただけなのだろう。
ゴルトの思惑通り、セレはくすっと笑って返す。
「そうだな。性別間違えてさらってくる間抜けだけどな」
「それを言ってくれるなよ。お前が美人なのが悪いんだぞ」
「それは、俺のせいじゃない」
楽しそうに言葉遊びに興じるセレに、ゴルトもまた和まされる。
そして、思い出したように大あくびをかました。
「さ、寝よう。明日は忙しいぞ」
「そうだな。で、俺の寝場所はお前のソファなのか?」
「もちろんさ。
あぁ、下の格子、壊さなくちゃな。
お前にあの部屋をやるよ。俺を泊めてくれるだろ?
やっぱり寝るならクッションの良く効いたベッドが良い」
「しばらくは手を出さないんじゃなかったのか?」
「良いじゃねぇか。せめて添い寝ぐらいさせろよ」
肩を抱き寄せ、寄り添って部屋に戻る。仲の良い会話をしながら、じゃれながら。
二人の姿を眺めることができるはずの、今夜の見張りは、できたばかりの恋人同士のイチャイチャを、本当に見ていたのかどうなのか。
すべては夜空を照らす月のみが知っている。
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[mokuji]
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