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「俺、あの瞬間まで、自分より強い野郎なんて滅多にいないと思ってたんですよ。
実際、あの屋敷で用心棒やってた連中の中では頭一つ飛び出てたし、今まであちこち放浪しましたが、俺をあんなに軽々転がした人なんて一人も出会わなかった。
天狗になってたんでしょうね。その鼻を、師匠がへし折ってくれたんですよ。
こう言っちゃ何ですが、師匠、小柄でしょう?
その身体で、俺みたいな筋肉の塊を、拳一つで倒したんだ。適わねぇ、って実感してね。
そこで凹むだけじゃなくて、だったらその技術を学べねぇかと、気がついたのは、船長と師匠が出て行ってから大分経ってからだったんですけどね。だから、追いつけてマジでほっとして……」
へへ、と照れくさそうに笑って、デンバーが空を見上げていた顔をセレに向ける。
「えっ! 師匠っ!?」
見やったセレは、うめき声も上げずに、自分の身体を抱きしめてうずくまっていた。
あまりに苦しそうで、慌てて近づき、その肩に手を乗せる。
「ひっ……」
喉を引きつらせたような悲鳴に、ただ事ではないことは一目瞭然だった。
そっと手を離し、だが、どうしたら良いのか、デンバーには原因もわからなければ、対応法も見当がつかない。
困っておろおろするだけのデンバーを片目だけで見上げ、セレはようやっと搾り出した声で告げた。
「ゴルト……」
「船長? 船長ですね!? ちょっと待ってください、今呼びますから」
方針がわかれば行動は早い。デンバーはその大きな身体を起こして大きな足音をドシドシ立てながら梯子へ戻って行き、飛び降りた。
その振動を身に受けるたびに、セレが悲鳴を上げているのだが、気がつかないらしい。
デンバーの血相を変えた様子で異常事態を悟ったゴルトは、すぐに現れた。
セレが真っ赤な顔で自分の身体を抱きしめて震えている様子で、ゴルトにはいくつかの可能性を導き出せたのだろう。
一緒にいたらしいデンバーを、険しい表情で見やった。
「セレに何をした?」
「いやいや、俺は何も。モーサンからもらったジュースを渡したくらいですよ。ほら、これ」
まだ持っていた瓶をゴルトに見せる。それで、事態を把握できた。
ゴルトは、自分を落ち着けるように大きくため息をつき、梯子の下でゴルトを見上げるデンバーを足蹴にした。
「馬鹿野郎! そりゃ、催淫剤だろーが。ったく、モーサンの野郎っ」
「えぇっ!? 惚れ薬じゃなくて!?」
「おま……」
意外と、世間知らずだ。
惚れ薬と称して催淫剤を使うのは、荒くれモノどもの間では常識の範疇だ。
箱入りだったセレが知らないのは仕方がないが、諸国を渡り歩いたであろう用心棒をしていたこの男が知らないというのは、あまり考えられない。
よほど平穏な人生を送ってきたのだろう。
しかし、催淫剤と知らなかったとはいえ、惚れ薬を受け取って使ってしまったデンバーの、セレに対する想いとは、一体どんなものだったのか。
セレに弟子にしてくれと口説いたあの瞬間は、明確に恋愛感情を否定していただけに、疑わしい。
「バリスに正直に事情を話せ。モーサンを捕らえて牢に入れとけって伝言を忘れるなよ」
行け、と命じる。
船長の指示には逆らえない、という常識は辛うじて知っていたらしいデンバーは、転がるように大慌てで甲板へ降りていった。
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