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そっとセレを促してソファに座らせ、ゴルトはその前にしゃがみ、セレの顔を見上げる。
セレはおそらく見たことすらないのだろうが、泣きじゃくる子供を宥めようとする大人の行動を、そのままゴルトは実践した。
今のセレは、まるで迷子の子供なのだ。
「何が怖い? お前は、何をそんなに怖がるんだ?」
実のところ、今現在でもセレはこの船の客人の立場で、船から降りてしまえばまったくの他人になるのだから、セレにとっては、この場所で今後の人間関係などまったく気にする必要は無い。
バリスが言い当てたらしい過去についても、トーナという前例がある以上、放心するほどの秘密であるとは思えない。
それに、今が幸せならそれで良い、と自分で言っているのだ。
セレという人に惚れ、その人を助けたいと思い始めたゴルトができるのは、彼自身が言ったその台詞に頼ることだけだった。
「今お前を脅かすものなんか、何も無いだろう? 何が怖い?」
問いかけられて、セレはただ、首を振るだけだった。
すべてのものを拒否するように、しっかりと目を閉じ、頭を抱えるのと共に耳を塞ぎ、手足を縮めて震えるだけ。
その姿がまるで幼い子供そのもので、ゴルトは目を見張った。
それはつまり、幼い頃から今まで、そうして他を切り捨てて自分自身に閉じこもり、そうすることで生きる力を自分の内側から引きずり出してきた、そうして十七年間生き延びてきた証に他ならない。
非常識に強い武力を持ち、他人に守られることを知らず、生意気だが自己主張に乏しい。
それらすべてが、他者に愛されることもなく、奪われるだけで与えられることもなく、自身の力だけで生きてきた彼が覚えた処世術に他ならないのだろう。
「なぁ。やっぱり、国に帰るのはやめろよ。
お前の姉を助けるまでは手伝う。だから、終わったらこの船に残れ。俺のそばにいろよ。そうしたら、俺が一生お前を守ってやる。誰にも触れさせねぇし、お前が嫌なら俺も触らねぇから」
耳を塞ぎ、頭を振って、ゴルトの言葉を振り払おうとするセレに、返事を強要することもなく、ゴルトはその小さな頭に手を載せて、グリグリと撫で付ける。
もらった髪留めで緩く纏められていた髪が、くしゃくしゃに乱れた。
元気な時なら、何をするか、と怒るところだが、そのセレがまったく反応を示さないので、代わりにゴルトがその髪留めをはずした。
じっとしていろ、と命じて、その背後に回り、手櫛ですんなり直ってしまう長い黒髪を手に取る。
「忘れろ、とは言わねぇよ。それができるなら、とっくにしてるだろうしな。
けど、それはもう過去のことだ。今が幸せならそれで良いんだろ? だったら、お前も今を幸せに生きるべきさ。
過去にとらわれてたら、いつまでも苦しいままだぞ。自分から一歩踏み出せ。俺で良ければ、いくらでも協力する。好きなように利用すると良い」
口と一緒に手も動かして、あっという間に解けにくそうな複雑な結び髪を作ってしまう。
トサックのお墨付きは本物だったらしい。
仕上げに頭をふわりと叩かれて、セレは放心した状態でも聞いてはいたらしく、弱々しく首を振った。
「……じゃ、ない」
蚊の鳴くような細い声の切れ端が聞こえて、ゴルトは耳を寄せた。
「何だって?」
「……過去じゃ、ないから……」
声を出したことによって、思考力が戻ってきたのか。
弱々しいながらも、声にも目にも生気が戻っていた。
ゴルトと目を合わせることもなく、だが、はっきりと答える。
その言葉に、ゴルトは眉を寄せた。
「抵抗しないのか? お前に勝てる奴なんて、そうそういないぞ」
「できない。身体が強張って、身動き一つ自由にならない」
「……トラウマ、か。もう、長いのか?」
「忘れた。たぶん、物心つく前から」
「はぁ?」
セレに、落ち着いて話をさせるために、努めて優しく問いかけていたゴルトだったが、驚いて思わず聞き返してしまった。
普通、一般的に、物心がつくという年齢は、三歳前後を指す。遅くても五歳までだろう。
子供どころか、幼児だ。性の区別もまだないような年頃の子を相手にするその感覚が、まったく理解できない。
だが、それ以前に、箱庭に閉じ込められていたセレにそんな無体を働くことができる人間の正体が気になった。
セレに会うことのできた人物と言えば、メイド、学問の先生、武術の先生の三人のみ。
セレに性的虐待を繰り返しながら、武術をここまで教え込む命知らずはそういないはずなので、武術の先生はありえない。
メイドは女だと聞いているから、これも違う。
閉じ込められていたはずのセレが一般常識を随分知っていることから、学問の先生も対象外だ。
となると、後は、セレを閉じ込めた人物当人しか考えられないのだ。
国王や近しい王族、もしくは、神殿関係者。
「相手を、聞いても良いか?」
その相手が誰であろうと、驚くべき人物であることは間違いない。
それを聞くだけの覚悟を決めて、問いかける。
セレは、しばらく迷って、俯いた。
「神殿長様だ」
「……よりによって、坊主かよ」
信仰する神は違っても、ゴルトの生まれた国にも神がいて、神殿が存在し、そこには僧侶がいた。
大体において、僧侶は煩悩を捨て、清廉かつ潔白な生活に身を置き、ひたすら信仰に生きるべき生き物のはず。
もちろんそこは人間なので、権力を持てば欲が出るものだ。
だが、幼児を相手に性的虐待を繰り返す例はそう多くない。
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