10
海図上で、現在位置とアザーク王国の位置と目的地を示されて、セレはその海図を見つめ、口元に拳を当てた。
この一枚の紙の上では、アザーク王国と現在地の間の距離は、わずかに指の関節一つ分程度しかない。
そして、現在地から目的地までの距離は、親指と人差し指を広げたほどの長さがあった。
セレが母国の神殿内で気を失ってから、時間が巻き戻ったのでない限り、一晩を軽く越えている。
ということは、目的地までは、どんなに早く見積もっても、あと五日はかかるということだ。
「嵐は嵐でも、今目の前にあるのは大風だ。今現在の目の位置はここ。天候と風向きを考えると、このまま北西に流れていくと思う」
セレが指差し、海図上を移動していくその位置は、この船の前方を東から西へ横断していた。
つまり、北進しているこの航路上で、安全な行き先は後退しかなかった。
「こいつは困ったな。戻れ、ということか」
セレが大風を示して動かした指の先に、目的地も存在する。
つまり、嵐と共に移動するより他に選択肢はない。
もちろん、戻るなどもっての外だ。追っ手に自ら捕らえられに行くようなものだ。
「聞くだけ無駄だろうけど、戻る気は?」
「もちろん、ねぇ。だが、大風に突っ込んで行く気もねぇな。嵐の後ろに回り込もう。大回りにはなるが、前進するだけましだ」
船にとって、船長の決定は絶対だ。
海の上で意見を対立させては、遭難しようとしているようなものだ。
それは、海に囲まれて生きてきたセレにも容易に理解できる。
海を甘く見て飲み込まれた事件は世の中に溢れているのだ。
したがって、そうか、と頷くだけで、反論しようとは考えなかった。
嵐を目の前にして、自分の都合は二の次だ。
それに、セレにはもう一つ、気にかかっていることがあるのだ。
これが解決しない限り、この船から下りるわけにはいかない、と断言できるほどの。
セレが戻れと言わないことに、怪訝な表情を見せたゴルトだったが、それについてはひとまず置いておくことにしたらしい。
「ニノ。航路を計算しろ。嵐のケツに回るんだ」
「ここから北東のこの辺に島があるよ。海図に書かれていないってことは、無人島だろう。そこでやり過ごしたらどうだ?」
「……そんなところに島が、か?」
「信じるかどうかはあんた次第だが、信じる者は救われると思うね。神懸りな事なら特にな」
虚言にも近いことを相手に信じさせようと思うなら、相手の目を見るのが一番だ。
それは、実践的に知っていたセレは、じっとゴルトの目を見つめた。
対するゴルトもまた、セレの真意を探るように見つめ返す。
やがて、視線を外したのはゴルトが先だった。
「あんたの力を信じよう。でなきゃ、嵐の進路すら信じられなくなるからな。とりあえず、目的地はここだな」
ニノ、と改めて呼ばれて、海図を両手で吊るし、上から見下ろしていた彼は、その指令を聞く前に、アイサー、と答えて、海図を机に戻した。
その足で、階段に続く戸を出て行く。
ニノの行動が理解できず、その姿を目で追って首を傾げたセレに、隣で巻きタバコを弄りながら、ゴルトが説明してくれた。
「あいつはこの船で俺以外に唯一航海術を学問として学んでる奴だからな。船医と同じく、この船には唯一無二の重要メンバーと目されてるのさ。
で、祖父さんが棲みついてる医務室の一角が、奴のプライベートスペースだ。
進路を定めるにはまず現在の位置と進路を確認する必要があるからな。道具を取りに行ったんだろう」
オイルライターに火を灯し、咥えたタバコに火をつける。
その仕草が妙に様になっていて、セレはゴルトに目を奪われていた。
それから、吐き出した煙に気づいて、ゴルトから少し離れるように座り直す。
そもそも、セレがいた場所は神殿であり、酒もタバコもご法度だったから、そのキツイ匂いにも煙にも慣れていないのだ。
タバコという存在を知っていたことすら奇跡に近かった。
そのセレの行動に気づいたゴルトが、ニヤリと唇の端を吊り上げるように笑う。
「タバコは苦手か? 騎士殿」
「見習いだ、って言ってるだろ。悪かったな、苦手で」
「はは。いや、悪くはないさ。その優等生面でタバコも酒も一人前に知ってるなんて言われた日にゃ、俺自身が人間不信になるだろうよ」
楽しげに笑って、自分をかセレをかはわからないが茶化すような台詞を吐く。
そして、その指に挟んだ吸いかけのタバコをセレに差し出してみた。
「吸ってみるかい? 現実逃避にはもってこいだ」
「……けっこうだ」
このあたりの国で流通しているタバコには、軽度の幻覚作用をもたらす成分が含まれている。
ゴルトが、現実逃避に、という所以だ。
それを知っているからこそ、セレはそっけなく断った。
だろうな、とゴルトもまたあっさりとそれを自分の口に運ぶ。
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