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甲板下から上がってきた階段の目の前には、さらに上に続く階段があった。
これを上りきった目の前が戸になっていて、それを開くと、実に広い一室の中に出た。
大きな机に海図が広げられ、三人掛けほどの大きなソファが一つ。それに、大きな本棚が二つ、離れて置かれている。
その本棚に挟まれて、甲板の見える大きな窓と、その中央に外へと続く扉があった。
甲板側以外の三方向は、壁一面、といえるほどのガラス張りで、実に景色が良かった。
「ここは、船長室。俺の部屋だ。ここならどうだ?」
物珍しそうにきょろきょろと室内を見回すセレに、自分は唯一あるソファに腰を下ろしながら問いかける。
声の主を振り返って、セレは肩をすくめた。
「進行方向の窓が小さいのが難点だけど。何とかいける」
静かにしているように、と二人に言い置いて、セレはその場で進行方向を向いて跪いた。
両手を軽く左右に広げ、手のひらを前に向けて目を閉じる。
何か神聖なものをその身に受け入れる体勢だ。
入ってきた戸の前で佇んでしまったニノは、セレの不思議な行動に首を傾げ、ゆっくりゴルトに近づいた。
本人は十分に声を落としたつもりで、問いかける。
「船長。何事ですか?」
それに対し、ゴルトが返したのは、口元に人差し指を立てる仕草のみだった。
海だか空だかわからないが、何か目に見えないものの声に耳を傾けている人の邪魔はできない。
その行動を頼んだのはこちらなのだ。
ニノは、船長のその仕草で心得たようで、口を閉じてセレを見守った。
今まで見たことのない神聖な空気に圧倒される。
それは、時を追うごとに強くなっていった。
跪くセレの周囲を、水の粒子が飛び交うのが見え出すと、ゴルトとニノは揃って硬直した。
確かに、セレの持つ力を聞いていたゴルトだが、まさかこれほどとは思っていなかったのだ。
なるほど、これは確かに、神に愛された特別な人間に違いない。
他の誰がこんな技を持っているだろう。
やがて、セレを囲んでいた水の粒子が収まっていき、セレ自身も目を開いた。
「嵐の場所がわかったよ。海図の見方を教えてくれる?
……どうした?」
神懸った態度から一変し、現実に戻ったセレが、よっこらせ、と年寄りくさく声を上げつつ立ち上がり、中央のテーブルに置かれた海図に近づきながら問いかける。
そして、二人からまったく反応がないことに訝しんだ。
じっとセレを見つめているようで、どこにも焦点が合っていない。ゴルトもニノもそんな表情だった。
二人の意識が驚愕の彼方へ行ってしまっているので、セレは小さくため息を吐き、ゴルトの隣に腰を下ろす。
「嵐を避けるんじゃなかったのかよ、お二人さん。そろそろ現実に戻っておいで」
自分自身では、自分の身に起こった外見的な変化にまったく気づいていないセレだ。
二人が何に驚き呆然としているのか、いまいち理解していない。
この部屋に足を踏み入れたその時よりもずっと疲れた声で、それでも放心状態の二人をからかうようにそう言った。
セレの行動の一々から目を離せなかったゴルトが、その疲れた声にはっと我に返る。
そして、自分の間抜けぶりを誤魔化すように、まだ呆然としたままのニノの後頭部を、平手でスパンと引っ叩いた。
それはそれは良い音がした。
「うわ、痛そ」
「……ってか、船長っ! ちょっとは手加減してくださいよっ。俺の頭が悪くなったら困るでしょ!?」
「それだけ悪態が吐ければ十分だ」
悪びれた様子のないゴルトに、ニノはがくりと肩を落とし、セレは遠慮なく笑う。
それは、現実離れした現象を目の当たりにした彼らが、通常行動に戻るために必要な工程だった。
二人が放心状態にあったこと、その原因がどうやら自分であるらしいことを理解しているセレだからこそ、二人の脱線行動にも付き合う。
それから、セレはソファに座ったままで海図を指差し、ゴルトを促した。
「海図の見方がわからないんだけど」
セレが住んでいたアザーク王国は、周囲を海で囲まれた小さな島国だ。
そのため、島に住む民の大半は、海に出て漁をしたり、外国と貿易したりと、海図を欠かせない生活をしている。
本来、アザークの民で海図を読めない者は珍しいのだ。
けれど、セレの場合は少し、事情が特殊だった。
王族に生まれ、神子を双子の姉に持ち、神殿に常駐する騎士見習いとして生活していた彼にとって、海は生活に無縁だった。
アザーク王国に限らず、この大海に浮かぶ多数の島国で、民の大部分は海図に馴染んでいるのが普通だったから、ゴルトはそんなセレの言葉に、実に意外そうな表情を見せた。
「神子が姉ってことは、お前だって王族の一員だろう? 教育されないのか?」
「……うん、まぁ、俺の場合はちょっと状況が特殊でね……」
ゴルトの指摘は実に的を射たものだったが、それはセレにとっては弱みであったらしい。
困ったように誤魔化して見せるので、余計疑問が膨らむ。
が、誤魔化したいセレの方が、話題変換が早かった。
「俺のことは今はどうでも良いだろ。今の居場所とアザークの場所を教えてよ。じゃないと、距離感が掴めない」
海図が読めないと自己申告する人間の要求としては決しておかしなものではなく、ゴルトは渋々といった様子で立ち上がる。
海図を広げたテーブルの前まで進んで、まだ座ったままのセレを振り返った。
「おい。座ってたら見えねぇぞ。教わる気はあるのか?」
自分が呆けていたせいだということも棚に上げて文句を言いながら振り返り、少し目を見張った。
それは、立ち上がるために椅子に手をついたまま固まってしまっているセレの姿だった。
「……大丈夫か?」
うってかわって心配そうな声に、セレは顔を上げて情けなさそうに笑った。
「膝が笑っちゃって……」
「無理をさせたか」
「修行が足りないだけさ。神子としてはほとんど何もしてないからな」
まだ立ち上がるのは無理なようで、セレは立ち上がる努力すら諦めてしまった。
ふぅ、と大きなため息を吐く。
セレの言い分に納得したのか、ゴルトはそこに突っ立っていたニノに手招きすると、床に打ち付けられて動かないテーブルの上から海図を剥がし、セレの目の前に見せるように持たせて、自分はセレの隣に座った。
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