電話
その日、小谷は新橋にいた。
六月の第一木曜日。
大学のゼミで世話になった恩師の退官記念パーティに出席し、当時のゼミの仲間たちで連れ立っての飲み会に繰り出したわけである。
そもそもパーティ自体が夕方には終わったものだったので、目当ての居酒屋に開店一番に入って、まだ一時間。
通常通り業務についていれば、ちょうどようやく定時というところだろう。
平日なので仕事は有給休暇を取っている。
それは、周りの全員が同様だ。
おかげで、なんとなく不思議な開放感があって、妙に酒が進む。
「それにしても、小谷はやっぱすげぇなぁ。この歳で係長だぜ、係長」
くぅ、うらやましいっ!と、まるで自分の身内のことのように喜んで一気にジョッキを煽るのが、小谷の一番の友人だった池尻だ。
同調してうんうん頷いているのは、その隣に座る竹下。
竹下の向かいは池尻の行動こそ面白いと笑っている水野。
そして、残りが小谷だ。
同じゼミの同期男性陣はこの四人だけで、卒論のあの修羅場を助け合って潜り抜けただけあって、連帯感もある仲間だった。
全然うらやましくないよ、と小谷は憮然としているのだけれど。
「それにしても、小谷。システム屋はやらないんじゃなかったのか?」
有名大学の情報学科卒である四人はそれぞれに別の企業に就職して、皆同じようにシステムエンジニアの道を歩んでいる。
在学中から、システム屋にはなりたくないと話していた小谷の現状が、三人には不思議だったが。
「うん。やらないつもりだったんだけど。社長にどうしてもって泣きつかれてさ。断るのも面倒だったし、好きな業種ではあるし、社内開発だから気楽な立場だし、まぁいいやと思って」
「まぁいいや、で係長には普通なれねぇよな」
つい先ごろ昇進したばかりだったため、思わず口を滑らせたのが運の付きだ。
さきほどから、小谷の係長昇進の話から離れてくれない。
小谷自身は、やれやれ、と思ってはいるのだけれど。
「係長なんて良いことは何もないぜ? 上からはどやされるし下からは文句ばかり上がってくるし給料は管理職手当がつく代わりに残業代なしの固定給だろ。踏んだり蹴ったりさ」
さらに上を目指していなければ、望んでなりたい立場ではない。
恋人が自分を望むから、係長昇進も受け入れたが、そうでなければ固辞していたに違いないのだ。
「でもさ、それだけ認められてるってことだろ? すげぇよ、それ」
友人に手放しで誉められるのは、確かに嬉しいけれど、なんだかくすぐったい。
そんなに誉めても奢らないぞ、と釘を刺して周りのブーイングを誘い、小谷は適当に笑った。
ちょうど、そこへ携帯の着信音が鳴る。
どうやら、小谷のカバンからのようだが。
「ちょっとごめん」
「なんだよ、彼女かぁ?」
「そんなとこ」
否定はせず、店の外へ出て行く小谷の背中を、友人たちの驚きの声が追いかけてきた。
店の前の引き戸を開け、看板の隅に立ち止まって通話ボタンを押す。すでに騒がしくなった店内よりは、まだ外の喧騒の方がマシだ。
液晶画面に表示された名前は、戸上課長、だった。
「もしもし?」
『おう、俺だ。楽しんでるか?』
「まぁね。係長昇進したって話したら大騒ぎだよ」
『そりゃそうだろ、お前のその歳で係長は早いって、一般的には』
ははっ、と笑う恋人の声は、なんだか響いて聞こえている。
携帯電話を通した声だからというのもあるだろうが、それ以前に、こんな風に声が反響する場所に心当たりがあった。
会社の喫煙室だ。
「何? 休憩中?」
『いや、お前の声が聞きたくなってな』
「何かあったわけか」
『相変わらず鋭いな、小谷係長は』
軽口を叩く彼の声に焦りは聞き取れず、緊急には緊急なのだろうが切羽詰っているわけではないらしいと判断した。
わざと呆れたため息を聞かせる。
「何?」
『航空課の案件なんだけどな、あれの決算書をサーバに入れておいてくれって頼んだよな?』
「うん、入れたよ。一昨年の実施物件の航空課フォルダの中」
『うわ、一昨年か、あれ。去年を探してたよ、見つからないわけだ。それと、木下が在庫管理の今年のカスタマイズ案件の仕様書を探してたけど』
「それはまだ、俺のパソコンの中だわ。勝手に起動して。Dドライブのプロジェクトフォルダに案件ごとに分けて入れてあるから」
『おう、サンキュ。悪いね、お楽しみ中に』
「良いよ。惣一の声が聞けたから、チャラにしてあげる」
『そいつは嬉しいね。ゆっくり楽しんでおいで。家で待ってる』
「ダメだよ、惣一。待ってるなんて言われたら、すぐに帰りたくなっちゃうじゃない」
仕事の話から一変して睦言を囁きあう。
二人の間には、仕事も恋愛も同レベルで存在する。
何しろ、仕事の相棒としても人生の伴侶としても、唯一無二の間柄なのだから。
じゃあ、また後で、と挨拶を交わして、あっさりと通話を切ってしまう。
名残も何もない。
どうせ、同棲している間柄。
家に帰れば顔を突き合わせるのだ。
それに、恋人には冗談のように軽く言ったけれど、本当に友人を放り出してもすぐに帰りたくなってしまいそうで。
恋人が気に入って集めている食玩の写真が待ち受けになっているその画面を見つめ、小谷は改めて肩をすくめた。
恋人にどっぷり嵌っている自分が信じられない。
それと同時に、くすぐったいくらい幸せで。
すぐ隣を、サラリーマンの一団が通り過ぎていく。
いぶかしげな視線を小谷に向けながら。
それに気付いて、小谷は急いで携帯を閉じると、店の中に戻っていった。
戻ってきた小谷に気付いた友人たちの「遅いぞ〜」というからかい声に苦笑を返しながら。
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