恋人
「まったく、あのバカ。何考えてんだ」
そんな風に文句を言いながら、小谷はそのアルミ戸を押し開けた。
通りに面する壁はガラス作りだが、中は少しもやっていて、アルミ戸についたプラスチック板には『喫煙室』とあった。
つまり、ここは社内の愛煙家を一箇所に集めた休憩室というところだろう。
室内には先客があった。
「小谷。カルシウムが足りないだろ、お前」
パイプ椅子に悠然と腰掛けて、偉そうに膝まで組んで、先客はイラついて発した小谷の言葉に笑って返す。
それを受けて、小谷は胸ポケットからタバコとライターを取り出しながら、憮然として言い返した。
「誰かさんが明け方まで寝かしてくれないから、寝不足なんだよ、俺は」
「そりゃ悪かったな。ま、今日は金曜だし、適当に片付けてゆっくり休めよ」
それを、首からストラップでかけた名札に『課長』と肩書きがついている人が言う台詞ではないだろうと思うわけだが。
脱力したように小谷は肩を落とし、すとん、と彼の隣に腰を降ろした。
彼の名札には、『戸上惣一』と書かれてあった。
肩書きは、情報管理課課長。小谷は同じ課の主任なので、直属の上司に当たる。
タバコを咥えて、火をつけようとライターを持ち直した小谷の目の前に、隣から、火がついたジッポーが差し出された。
ほどよく使い込まれたそれは、それなりの味を醸し出している。
遠慮なくその火を貰ってタバコに火をつけて、火をくれた人を見返した。
「使ってるんだ?」
「使うために貰ったんだからな。タバコを吸うたびにお前を想う。なかなか良いぞ」
「じゃ、俺にも何かくれ」
「やれるようなモンは持ってねぇなぁ」
うまそうにタバコの煙をぷかっと吐き出して、戸上は苦笑を浮かべてそう答える。
ちっと舌打ちして、小谷は彼から視線を背けた。
しばらく、二人の間に沈黙が下りる。
それは、別に居心地の悪いものではなく、どちらかというと二人には、まったりとした贅沢な時間に感じられていた。
「あのな、小谷」
「ん〜?」
プライベートな場なら、親しげに名前を呼ぶ彼も、社内だと少し気を使うのか、ちゃんと苗字を呼んでくる。
そもそも、同性の恋人と社内恋愛などと知られたら、肩書き剥奪の上、下手をすると左遷もしくは解雇の恐れもあるのだから、仕方がないと言えば仕方がないが、それにしてもその使い分け方はさすがだ。
社内でも異例と言われたスピード出世の彼は、現在32歳だそうで、システム部の二つしかない課の一つをすっかり任されていた。
団塊世代の部長は、パソコンにまだ慣れていないようなガチガチの堅物で、おかげでシステム部は戸上の独擅場だったりする。
その中の開発保守チームの一グループの主任が、小谷だった。
小谷の上に係長が一人。
あまり使えない人材で、小谷はその係長を連れて戸上に直接相談に行くことが多い。
まぁ、付き合い始めたのはもっと古くて、小谷が新入社員としてやってきた時からなのだが。
「あんまり年上のヤツ怒るなよ。出来ないのは個人の能力なんだから、仕方がないだろ」
「できないのと、やる気がないのは違うだろ。あいつと仕事してると、頑張ってる自分がバカバカしくなるんだけど」
「まぁまぁ。お前が出来るのは俺がよく知ってるさ。来年は、小谷係長になってるから。太鼓判押してやる」
「肩書きいらない〜。その分仕事増えるし収入減るし〜」
「残業で生きてるもんなぁ、お前」
「しょうがないだろ。自分の仕事だけで良かったら毎日定時退勤するさ。それじゃチームが終わらないんだから、手伝うしかない」
普通、職位があがれば収入も上がるはずで、それを嫌だと言ってのける小谷に、戸上はその内情がわかるからこそ、くっくっと楽しそうに笑った。
管理職になると残業代がつかなくなるので、普段から残業時間が多い職場では、管理職になるメリットがわからなくなるらしい。
この会社ほど大きな企業での管理職の肩書きは、あらゆる場面で実に有益なのだが、まだ27歳の彼には実感がわかないのだろう。
「良いから、レールに乗っとけ。いずれ、俺の片腕になってもらうんだからな。こんなところで足踏みされちゃ困る」
「それは、戸上課長の都合でしょ?」
5歳年上の野心家の彼氏に、そんな風に実力を認められて望まれて、少しくすぐったく感じて小谷は肩をすくめた。
短くなったタバコを灰皿に押し付けて、呆れて笑う恋人の頭を撫で、戸上が立ち上がる。
「今日も残業か?」
「早く帰りたいけどね。田岡さんの進捗次第」
「じゃ、今日は定時退社。たまには田岡に苦労させろよ。夕飯食いに行こう」
「おごり?」
「俺より金持ちのくせに」
「じゃ、割り勘。どこが良い? 予約しとく」
「飛び入りで良いだろ。こないだ気になるってお前が言ってたパスタ屋はどうだ?」
「良いね。楽しみだ」
「じゃ、怒らないで仕事片付けてくれ」
「りょうかーい」
結局、怒り狂っていた小谷の気分を上向かせるためのお誘いだったのか、はたまたその後のお楽しみを狙ってのお誘いなのか。
どちらとも取れる締め方をされて、小谷は降参を示すように両手を挙げ、喫煙室を出て行く彼氏の後姿を見送った。
いつ見ても、カッコイイ背中だよなぁ、と思ったのは、本人には絶対に秘密だ。
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[mokuji]
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