風邪
鬼の撹乱とでもいうべきか。
小谷はその日、会社を体調不良を理由に休んで近所の診療所を訪ねた。
普段から健康な二人の家には満足な医薬品も体温計もなく、食品保存用のポリ袋を三重にして氷水を入れ、タオルでくるんで氷嚢にするくらいが関の山だ。
心配した戸上は、昼休みに様子を見に戻るから大人しく寝ていろ、と指示をして仕事に出かけて行った。
が、熱が少し落ち着いたのか多少楽になったので、薬をもらうために通勤路の途中にあって存在を知っていた診療所に向かったのだ。
今は風邪が流行っているようで、診療所は随分と混んでいた。
「スミマセン。はじめてなんですけど」
「はい。保険証をお預かりします。今日はどうなさいました?」
「風邪だと思うんですけど、熱っぽくて……」
「お熱を測りますので、体温計を脇の下に挟んでください。コチラ問診票になりますので、わかる範囲でご記入ください」
何度も同じやりとりをしていて慣れているのだろう。
小谷の顔色を観察しながら、説明が立て板に水だ。
筆記具立てに何本も立てられている体温計から一本を無造作に引き抜いて問診票をはさんだバインダーの上に置き、小谷の目の前に差し出された。
座って記入してください、と背後のちょうど空いたソファを指差されて、小谷は素直にそちらへ移動した。
問診票の質問は氏名や住所などの基本的な個人情報と今回の来院理由、病歴、既往症などだった。
隠す内容ではないが、熱からくる寒気でペンがうまく使えず震えた文字をやっとのことで記入する。
書いている間に体温計が終了を知らせ、簡単な問診票にこれだけ時間をかけることで心配してくれたらしく看護師がやって来た。
「大丈夫ですか? 診察を待つ間、横になっていることもできますよ」
体温計は39℃を示していた。
その体温を書き終えたばかりの問診票に書き写し、顔を覗きこんでそう声をかけてくれる。
滅多に熱など出さない分辛いのは確かだが、横にならないといられないほどでもなく、小谷は首を振って断った。
なるべく早めにお呼びしますから、とやはり気遣う声に苦笑で返して、小谷はようやく背もたれに身体を預けた。
待合室は子供も多いわりに静かで、空気清浄器のモーター音が離れていても聞こえるくらいだった。時折雑誌を捲る音がする。
明るいが眩しくはないほどの照明も、体調の悪い人に対する刺激に配慮したものだろう。
勤務先のシステム開発室は、モニターに映し出された小さな文字を追う仕事なだけに眩しほどの光量を確保しているが、偏頭痛持ちの小谷にはこれがなかなかきついのだ。
少し待っていると、診察室から人が出てきた。それを追うように、スピーカーを通したくぐもった男性の声が聞こえる。
『戸上さん、お入りください』
彼氏と同じ苗字が珍しい、とぼんやり思う。
そんなに奇抜な苗字ではないが、今のところ家族以外に聞いたことがなかったのだ。
「戸上さん。先生がお呼びですよ。立てますか?」
問診票の時も気遣って来てくれた看護師に声をかけられて、小谷は驚いて彼女を見上げてしまった。
言うまでもなく、先ほどから呼ばれている戸上さんは小谷のことだった。
そんなに早く呼ばれるとは思っていなかったのと、熱でぼんやりしているおかげで、自分のことだと思わなかった。
普段旧姓で過ごしているせいとも言うが。
「スミマセン。大丈夫です」
立ち上がるのを手伝って手を貸してくれる彼女に恐縮しながら立ち上がって、小谷は少し恥ずかしそうに診察室に逃げ込んだのだった。
診療所から薬の処方箋をもらって近くの調剤薬局を出たところで、昼休みで出てきた戸上と偶然会った。
薬局も通勤路の途中にあるので、薬が準備されるのを待っていた小谷を発見したのだそうだ。
診療所で点滴を受けて随分楽になっていた小谷は、戸上が心配してくれるのが嬉しくて満面の笑みを見せた。
「病院行ってたのか」
「うん。点滴してもらった。扁桃腺が腫れてるくらいで、時に大きな病気ではないよってさ」
ついでに体温計買ってきた、と言って薬局のビニール袋を見せてくれる。
子供っぽい仕草は熱で朦朧としているせいだろう。
情事の最中にしか見せてくれない甘えた態度は、それだけで色っぽく感じてしまう。
熱のおかげで目が潤んでいるからだろうか。
小谷に合わせて戸上がゆっくり歩いてくれるのに、後ろから来て追い越して行った人のカバンが肩に当たったことで気付く。
「午後、間に合う?」
「社長には病気の奥さんをほったらかすなと怒られて、ハナさんには早く帰れって追い出された。だから、今日は午後休」
今日中の仕事は片付けてきた、と胸を張る行動に笑わされ。
「なんか、いろんな人に迷惑かけちゃったね」
「いつもお前が迷惑かけられてんだ。たまには良いさ」
「迷惑なんかかけられてないよ?」
「その感想はお前が持っている基礎能力のおかげ。端から見れば、自分のことの他に他人のサポートまでして頑張りすぎだぞ。たまにはサボっても誰も文句は言わねぇさ」
そうかなぁ、と小谷自身は不思議そうだが。
自分にも厳しいが他人にも厳しいあの社長が病気の本人だけでなくその伴侶まで叱りつけて追い返したのだから、かなり心配されていると言って良い。
それは、小谷自身がこれまで培ってきた信頼の証だ。
「早く良くなって会社に行こうな。みんな心配してくれてるんだぞ」
子供に言い聞かせるような台詞だが、小谷はやはり朦朧としているためか反発もせず。
むしろ子供っぽい仕草でコクリと頷いたのだった。
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