江戸茶房徒然日記 その弐 高宏 『BreakTime』
それは、宏紀の一言から始まった。
『そういえば、時代小説作家やっておきながら、東京の神社とかお寺って巡ってないんだよねぇ』
それならば、というわけだ。
これでも、船津家は神職の家系だ。実家は横須賀の神社で、祖父も父も兄も神主を勤めてきた。だから、寺はともかく、神社は任せろ、と言えるくらいには関東圏内の神社には詳しい。跡を継がなかったのは、ただ単に、次男だからだ。
回るのなら徹底的に、と、新宿から品川周りで三分の二周。靖国神社、明治神宮、氷川神社、芝増上寺、浅草寺と回ってきて、今は神田にいる。
御茶ノ水駅から歩いて、湯島聖堂に寄ってきた。そして、ここが神田神社。関東の大怨霊、平将門の御霊が祀られる社である。華やかな朱の御殿が、晴れた空に鮮やかだ。
ここまで来る間にいろいろと寺社を巡ってきたが、ここは敷地が狭いせいか、裏のビルが朱色の屋根の向こうにそびえていた。なんだか、異質だ。
神式の礼儀を守って、二礼二拍手一礼を行う。自分はただ挨拶に伺っただけとの意識があったのですぐに顔を上げたが、連れの三人はしばらく拝んでいた。
自分は、子供の頃からゲイである自覚があって、思春期を迎えた頃にはすでに、まともな恋愛も、ましてや子供なども、まったく期待していなかった。一度くらいはまともに相思相愛の恋ができたら良いな、というのが、唯一の憧れ。
そんな自分が、今は大事な旦那様とかわいい二人の子供をつれて家族旅行に来ている。それは、まるで奇跡のようで、幸せでつい頬が緩んでしまうのだ。
最初は、ミニバンでもレンタルして、四人でどこか遠くへ出かけようと計画していた。ちょうど、最後の一人だった忠等も免許を取得したことだし、交代要員は足りている。ちょっと足を伸ばしても問題ない。
だが、計画は計画のまま倒れてしまった。あてにしていた連休に、緊急の仕事が入ってしまって、お流れとなったのだ。ちなみに、予約していた宿はもったいないので、息子たちとその友達で行ってもらった。
仕事が再び落ち着いたら、それが悔しくて、またどこかに行こう、という話が持ち上がったわけだ。
今度は、近場で。日帰りで。突発で何か入っても構わないように。
そんな経緯で、東京旧跡巡りは実現したわけだ。これはこれで、意外と楽しい。
一番長く祈っていたのは、自分の恋人、貢の戸籍上の息子、宏紀の恋人である、忠等だった。なんとも遠い関係だが、家族なのだから構わない。
「何をそんなに熱心に祈ってたんだ?」
興味深々な様子で、貢がからかうように忠等に問いかける。それに対して、彼はすぐ隣にいる恋人の頭をポンポンと撫でた。
「宏紀の小説、今回の直木賞候補に残ってるじゃないですか。だから、選ばれますように、って」
この子は、何を置いても恋人最優先なところがある。たまには自分本位でも良いと思うのだけれど、自分のことはどうでも良いから宏紀を幸せにしたいらしい。
確かに、宏紀の心は子供の頃に十分な成長ができなかったせいか、すこし脆弱にできていて、自分で自分を愛してあげられない子だから、余計心配になるのかもしれない。
反対に、宏紀も恋人最優先で物事を考える癖を持っているから、互いに補い合ってちょうど良いのだが。
次の目的地である湯島天神へ行くために、裏の階段を下りていく。
時代小説作家などをする程度には歴史あるものに興味を持つ宏紀は、今日は一日中はしゃいでいて、楽しそうに先頭を歩いていく。時々道を外れかけて親に呼び止められる以外は、珍しく自分中心の行動をしていた。
そんな彼が、階段を一番に降りきって、そこに立ち止まっていた。熱心に一点を見つめている。
彼の視線の先にあったのは、一軒の喫茶店だった。
「へぇ。お茶専門か。珍しいな」
「少し休んでいくか?」
宏紀がコーヒーを苦手としているので、いつもは喫茶店を敬遠していたのだが、これなら彼を誘っても大丈夫だ。尋ねた俺を振り返って、宏紀は嬉しそうに頷いた。
ドアを押すと、心地良いドアベルの音が客を誘った。
閑古鳥の鳴いている喫茶店だ。客が一人もいない上に、店員がカウンターに腰掛けて休んでいる。
休んでいた二人しかいない店員が、ドアベルに促されてそれぞれ仕事に戻っていく。一人はカウンターへ、一人は接客に。
「いらっしゃいませ。お好きなお席へどうぞ」
客が少ない割りに、店員の仕草は洗練されているし、テーブルも椅子も使い込まれた家具の良さを持ち合わせている。
席に着くとすぐに、店員が四杯の冷水とメニューを持ってやってきた。
どうやら、同じ疑問を持っていたらしい。忠等が、その店員に声をかけた。
「いつも、こんなもんなんですか? お客さん」
ちょっと、忠等。そう、小声で宏紀が隣から咎める。だが、店員は気を悪くした様子もなく、軽く肩をすくめた。
「この時間帯は、いつもこんなものです。夕方にもなれば、いっぱいになりますよ。それに、今日はつい先ほどまで私どもも出かけていまして、今開けたばかりなんです。お客さんたち、運が良いですね」
なるほど、納得の理由。どうもすみません、と宏紀が謝るのに、彼はいえいえと笑って返した。
「お決まりの頃、またお伺いします」
飲食店の決まり文句を言って、彼は立ち去っていく。思わず後姿を見送った。
二人しかいない店員は、どちらも特徴的な外見をしていた。
カウンターにいるのは、親の贔屓目を抜きにしても美人な宏紀と比べて、まったく遜色ない美貌を持ち、頭の後ろに髪を結い上げていることから、子犬の尻尾のような宏紀の髪よりずっと長いことが見て取れる。
もう一人は、忠等や貢に共通する男の色香を纏った色男だった。さぞかし女性にもてるだろう。その優しい雰囲気は、そこにいるだけで人を安心させる。最愛の恋人を得て、その人間を守るためだけに生きようとする人間の、あたたかな雰囲気を持っている。
なるほど、あの二人は間違いなく、恋人同士だ。同じ性癖を持っているから、簡単に予測がつく。
そちらで、店員同士が何かこそこそと話し合い、互いに笑いあっていた。それは、こちらを見てのものであるから、自分たちについてなのだろうが、男四人という不自然を笑ったものでも、この歳になってまで愛だの恋だのにうつつを抜かす自分たちをあざ笑ったものでもないらしく、その視線に優しさが満ちていた。
「高宏は?」
「……え?」
店員観察にいつの間にか夢中になっていたらしい。名前を呼ばれてそちらを向くと、三人に一斉に見つめられていた。
「高宏。俺を横に置いておきながら、他の男に目移りするのやめろって」
「……そんなんじゃないよ」
もう七年も前に、実は、俺と貢は破局寸前までこじれた事があった。これは、宏紀や忠等も知らないことだ。宏紀と同居を始める前だったから。
アレのおかげで、貢は少し、俺を疑っている。自分が悪いとわかっているから、俺もそれに言い返す事ができない。それだけは、貢がイニシアチブを握っている。
でも、それで良いと思う。俺は、元々ゲイで、本当の愛情を全く諦めていた過去があるから、倫理観が少しおかしいのだ。その俺の手綱を、貢にしっかり握っていて欲しいと思う。俺が、ふらふらしてしまわないように。
「そうだな。鉄観音茶が良いかな?」
メニューの中から、目を引いたものを上げる。メニューの全てに目を通したわけではないが、なんとなく、それで良いと思った。俺の判断はたいてい第一印象で決まる。
人に対する判断も、第一印象で決めてしまうところがある。貢だけだ。しばらく付き合って、しみじみと恋を自覚したのは。でなければ、ここまで長くは続いて来れなかっただろう。そういう意味では、きっと運命の相手だ。
貢が何と言うかは、わからないけれど。
貢が俺を愛してくれていることは、俺はちっとも疑っていない。この歳になってまで、週に一度は切羽詰っているくらいに抱きしめられるから。俺の弱い耳元で、色っぽく囁いてくれるから。
でも、俺は貢を愛しているのか、そう問われたら、俺には無条件でイエスと言うことができない。
他にいないから。
これが、介在してしまう限り、自信が無い。俺を愛してくれたのは、五十年以上生きてきて、貢だけなのだから。こんなに心の温かくなる恋をした相手も、貢だけなのだから。
比較対象が無い。これが、不安の要因だ。
恋人を、ではなくて、自分を疑ってしまうのだから、処置の施しようが無い。
今はただ、これできっと良いんだ、と自分に言い聞かせ、貢がくれる愛情に浸っている。これからもずっと、その予定だ。どちらかが、この世を去るまで。
願わくば、貢が俺を残して逝ってしまわないように。自分に自分を裏切られるのは辛いから。貢だけを愛してると、その気持ちだけを持って、あの世へ旅立てたら、良いと思う。
「お待たせしました」
声をかけて、注文の品を持ってきたのは、二人揃ってだった。二度に分けるよりは、二人で一度に運んでしまおう、ということだったらしい。それぞれに手分けしている。
仲が良いんだなぁ。
それを、俺は少し羨ましそうに見つめてしまった。
突然、美貌の彼がくすくすと笑った。
「恐れ入ります。でも、そちら様の仲の良さには、かないません。いつまでも、仲良くいらしてくださいね」
どうやら、声に出していたらしい。途端に、貢が真っ赤になって俯いてしまった。宏紀と忠等は、顔を見合わせて笑いあう。恨めしそうな貢に、ごめん、と素直に謝った。まったく、他所事を考えていると、ろくなことにならない。
ティーカップを温めておいて、客席でポットからお茶を注ぐスタイルをとっているらしい。手際よく、二人がそれぞれにテーブルを用意する。それから、最後にテーブルの真ん中にクッキーの皿を置いた。
「今日は、ちょうど頂き物がありましたので。サービスです。召し上がってくださいね」
それが、この皿の説明。おいしそう、と宏紀が嬉しそうに目を細めた。
立ち去ろうとした二人を、貢がメニュー片手に呼び止める。
「すみません。ここに、『占い承ります』ってあるんだが、これは、どういう?」
へぇ。そんな事が書いてあったのか。メニューを普段から半分も目を通さない俺には、全く気付かなかった。ほらここ、と貢がその部分を指差す。
あぁ、と頷いたのは、男前のほうの店員。
「うちの相方が、得意なんですよ。占い」
答えて、先に戻ってしまっていたもう一人を呼び寄せてくれる。
「一番当たるのが、人相占い。後は、手相とか、姓名判断、占星術なんかもできますよ。占うものによって、こちらで見させていただきますけど。興味あるんですか?」
反対に問い返されて、貢はちらりと俺を見やる。なるほど、占いに頼りたいほどには、貢も不安を持っていたらしい。本当に、悪かった、と思う。反省している。地面にめり込みそうなくらい。
「相性を、占って欲しいんですが」
「お二人の? ……しのさん、どう?」
よほどその内容が意外だったのだろう。彼はびっくりした表情で問い返して、相棒を見返した。その相棒も、肩をすくめる。
「占うのは構いませんが、それ以前に私の見立てを言わせていただければ、運命には逆らっても無駄です。占いはあくまで占いで、当たるも八卦当たらぬも八卦と言います。せっかく運命でつなぎ合わされた仲を、不確実な占いで引き裂くわけにもいかない。やめておいたほうが良いと思いますよ」
運命でつなぎ合わされた仲?
それはそれは、はっきりと彼はそう断言してくださった。俺と貢の関係を。運命だ、と。それは、本当に信じても良いのだろうか。貢とのコトを、運命だと。
不思議に思ったのは、貢も同じだったらしい。驚いたようにただ彼を見つめている。
俺たちの視線を引き受けて、彼はにっこりと笑った。
「占いには、二つ種類があります。純粋な自分の未来に対する興味と、もっと深い、方針を確かめるもの。ただ、行く末に何らかの目標をおきたい人には、占いは有効だと思いますが、方針を確認するほどの重要な占いであれば、喫茶店で片手間にできるような簡単なものではなく、きちんと精進潔斎して、改めて厳かに占いに臨まなければなりません。貴方様の占いの目的は、どちらかと言えば後者でしょう? ならば、今はやめておいたほうが良い。どうしてもとおっしゃるなら、日を改めましょう。ですが、私の経験と勘を元に言わせていただくなら、お二人には運命が味方してますから、占う必要はないと思います」
「運命が……?」
「えぇ。赤い糸がしっかりと結ばれているのが見えますよ。そちらの若いお二人より、よっぽど太い糸」
それは、びっくり。この二人には、どう見ても、運命の神様が味方しているとしか思えないが、それが俺たちにもあるとは。いや、もっと強いとは。
そんな彼の答えに、なんと、宏紀と忠等までもが頷いたのだ。その通り、と言うように。
「いやだな、お父さん。まさか、そんなこと心配してるなんて、思わなかった」
「貢さんと高宏さんって、誰がどう見たって、疑いようも無い完璧な夫婦ですよ? まさか本人が疑ってるとはねぇ」
びっくりしたよな。そんなふうに、忠等が宏紀に同意を求め、宏紀はあっさりと頷いた。
「ちゃんと、一生添い遂げてくださいね。年長組がそばで幸せにしてくれてるから、俺たちも心配しないでいちゃいちゃできるんだから」
ねぇ、と二人で確認しあう。そんな若者組の反応に、占うまでもなく断言してくれた彼が、ニコニコと笑った。
「仲の良いご家族で、よろしいですね。羨ましいな」
それは、しみじみと感心してくれている声色で、断言してくれたことが自分の気持ちを後ろから押してくれていることを認識しつつ、ほっと胸を撫で下ろす。
心配することも、ないのかも知れない。全く見ず知らずの人まで、祝福してくれるくらいなのだから。
まさか、こんなところで今までの苦悩の結論が出てしまうとは思っていなくて、何だか照れくさくて俺は俯き、笑ってしまっていた。
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