七夕 1
その日は、朝から雨だった。
前日夜遅くから降り出した雨は、しとしとと肌を濡らし、一向に止む気配を見せない。
忠等は、憂鬱そうにため息をついた。
京都に来て二年目の夏である。学校は試験週間で、この日も午前中と午後一番に試験があった。とはいえ、基本的に試験勉強をしない忠等である。翌日に向けて復習をすることもない。
この日、晴れていれば、忠等はきっとウキウキ気分で一日を過ごしていただろう。だが、降り続く雨は、忠等の心にまで影を落とす。
忠等は、その時、京都駅にいた。黒く大きめの傘を持って、携帯電話を手に、周りをきょろきょろと見回している。
しばらくして、携帯電話が流行の曲を流しだした。
「はい」
『もしもし。お待たせ〜』
「どこ?」
『目の前』
え? 携帯電話を手に、はっと顔を上げる。人の波の向こう側に、ひらひらと手を振る愛しい人の姿を見つけた。そばには、友達らしい集団もある。
7月の初め。今日は七夕である。本来なら、彼もその友人たちも、学校がある日だ。そんな日に、彼らの地元とは遠くはなれたこの京都で会うには、それなりの理由がある。
実は、高校三年生な彼らは、京都に修学旅行中なのである。今日は、夕飯も含めて夜の8時まで自由行動日なのだそうだ。でなければ、いくら恋人が修学旅行で来ているとはいえ、こんなところで待ち合わせなど、するはずが無い。
その友人たちは、よく見ると、忠等も良く知った子たちだった。サッカー部の面々だ。全員でこちらへ近づいてきて、一斉に頭を下げる。
「すくちゃん先輩。おひさしぶりで〜す」
彼らを代表して、相沢が挨拶の声を上げた。全部で8名のグループらしいが、全員が顔見知りというのも、びっくりだ。サッカー部員だけでグループが作れてしまうとは、今年のクラス分けは、意外と粋なことをしてくれる。
そこには、久しぶりに会う、実の弟の姿もあった。そして、その恋人も。
弟が、偉そうに口を開く。
「ひろは兄貴に預けるけど、ちゃんと明日の朝飯までに返してよ。ひろの不在を誤魔化すのは、夜の点呼までだからね」
どうやら、彼らは二人の逢瀬に全面的に協力してくれるらしい。何しろ、彼らの前で結婚式まで挙げた二人である。今更誤魔化すものでもない。
「じゃあ、借りるよ」
「返却期限厳守ですよ」
「わかった」
相沢までが突っ込んでくるので、忠等は苦笑を浮かべ、神妙に頷いた。近くで、宏紀は恥ずかしそうに笑っている。
早く二人きりにしてあげよう、という思いやりなのか、彼らはひとしきり二人をからかうと、早々にその場を後にした。次の目的地も決まっているらしく、タクシーで行こうかバスで行こうか、と話し合いながら離れて行く彼らを、二人は揃って見送った。
「さて、どうする?」
「観光はパスだなぁ。もう、飽きた」
「じゃ、どっかしけこむか。雨だし」
「賛成」
賛成、したのは良いものの、はい、と差し出された手に、宏紀は一瞬ためらう。なにしろ、場所は京都駅である。いくらなんでも、こんな往来で、堂々といちゃいちゃできるほど、度胸は無い。そのうえ、一応、一部の知らない相手に顔を知られている立場なのである。ここで、この人の手を取っていいのか。
そんな宏紀に、忠等は困ったように目尻を落とした。差し出した手を、宏紀の頭に乗せる。
「どこに行こうか。今泊まってる旅館って、どこ?」
「え? 高くつかない?」
「遅刻する心配がないだろ?」
そりゃそうだけど、と渋る宏紀の、顔を覗き込む。
「せっかく久しぶりに会えたのに。宏紀は俺と一緒じゃいや?」
なんだか、今日の宏紀はいつもと違う。
それは、最近では大型の休みにしか顔を合わせないし、電話や手紙もあまりやり取りをしない二人だが、それでも相手を良く知っていると自負があるから、忠等には少し心配に感じた。雨による憂鬱も、吹き飛んでしまう。
そんな、不安というよりも心配そうな表情を見せる恋人に、宏紀は自分が心配をかけたことがわかったらしく、慌てて首を振った。
「違うの。そうじゃなくて……」
本当に、久しぶりの逢瀬だ。嬉しくないわけが無い。だが、それ以上に、宏紀の胸を苛むものがあるのだ。
修学旅行が京都と知って、だったら会おう、と約束しあった。日程が決まって、待ち合わせの時間と場所も決めて、この日のこの時間が来るのを指折り数えて待ちわびていた。ちょうど、七夕を待つ織姫のように。
でも、それにもかかわらず、今の宏紀の頭は罪悪感でいっぱいなのだ。
学校に対するものでも、協力してくれる友人に対するものでもない。反対に、心を砕いて協力してくれる友人たちに報いるためにも、自分は忠等といちゃいちゃするべきだと思う。
思うが、その気持ちすらも凌駕する罪悪感に、押しつぶされる。
ふと、駅の時計に目をやった。その仕草で、時間を気にしているのがわかった。
「どうしたの?」
誤魔化されても、そう簡単には納得しない忠等だ。それは、宏紀の目を見れば、誤魔化そうとしていることなど一目瞭然なのだし、二人の間に秘密を作りたくないためでもある。
じっと答えを求めて見つめられて、宏紀はやがて、抵抗を諦め、深いため息をついた。
「実はね。今日、本当は、朝日文学芸術賞新人賞の授賞式があって。修学旅行だからって出席を断ったんだけど」
「それ、こないだ宏紀が取った賞じゃないの?」
「うん。その、授賞式」
それは、忠等には寝耳に水だった。宏紀はおそらく、忠等に心配させまいとして、今まで黙っていたのだろうが。それにしても、宏紀にとっても大切な式典のはずである。
学校行事という名目はあるものの、一般的に考えても一人の作家の人生から見ても、授賞式を取るべきだろうに。
「いつ? どこで?」
「16時から。京都クリスタルガーデンホテル」
「え? 間に合うじゃん」
道理で、時計を見上げたわけだ。今、15時になったばかりである。そして、言われたそのホテルは、京都駅から目と鼻の先の、今も雨に煙るこの町並みを背負って、目の前にそびえているそれだった。
もうすでに、物理的に出席不可能だというのなら、宏紀とてとっくに諦めているだろう。なまじ間に合ってしまうから、罪悪感にさいなまれるのだ。だったら。
「行こう。その授賞式、ちゃんと出なくちゃ。宏紀のこれからの作家人生を左右するんだろ?」
「でも、せっかく忠等と会ってるのに……」
宏紀にとって、作家という仕事は、人が言うほど重要な意味を持っていない。始めたきっかけがきっかけだけに、それで収入も得られるのならめっけもん、という程度の価値でしかないのだ。
だから、授賞式に出席するか、恋人との時間を大事にするか、と比較すれば、恋人を取ってしまう。
だが、理性の部分で、それで良いのか、自分を選んでくれた人や支えてくれている人を裏切ることにならないか、と問いかける部分もある。そんな、本音と理性のせめぎ合いが、今の宏紀の態度に表れていたらしい。
そんな宏紀を、忠等は何故かほほえましい表情で見つめ、こつんと軽く小突いた。
「俺となんて、いつだって会えるだろ? 明日の朝まで、手放す気はないしね。新人賞の授賞式なんて、一生に一度のことだろ? これで、大御所作家との顔つなぎもしなきゃいけないんだろ? じゃあ、行かなくちゃ。そんなことくらいで、俺はいなくならないし、天秤にかけるなら、授賞式の勝ちのはずだぞ」
ほら、行くぞ。そんな風に宏紀を励まして、忠等はその背を押した。促されて、宏紀は忠等を見上げ、情けない表情を見せる。
「ごめんね。せっかく時間作ってもらったのに」
「何言ってんだ。物事には、優先順位ってもんがあるだろ? 今回は、授賞式の方が優先順位が上なんだから、仕方がないの。宏紀の文学賞受賞は、俺にとっても大事な一大イベントなんだから、宏紀がそんな風に気にすることはないんだよ」
それは、ある意味では運命共同体宣言に近い言葉で、宏紀はそれに、実に嬉しそうに笑うのだった。
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