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「土方なら寝てるよ」

「あんだけ鬱陶しがられてて、よく飽きないよな、お前」

 ぼんやりとしたまどろみの中で、宏紀は小池と河坂の声を聞いていた。まだ目は開かない。どうやらこの声に起こされたらしいのだが。

「寝てるって、こんなところで? アホなこと言ってんじゃねぇよ。お前らには関係ねぇだろ。土方、呼んでくれりゃ良いんだよ」

 ん? 部室の入り口の方から聞こえる、嫌でも聞きなれてきた、聞きたくない声に、宏紀はぱちっと目を開けた。結構寝ていたらしい。宏紀と机をはさんだ向かい側に、後輩たちが3人、読みかけの本を手にして入り口を心配そうに見ている。

「だから、土方は寝てるって。もうすぐうち、ミーティングだし。今日は無理だって」

 特にその相手を嫌っていることはないようで、小池の声はすっかり落ち着いている。嫌っているわけではないが、宏紀の苦手な相手だという認識はあるらしい。宏紀に会わせようとはしていない。

 ふう、と一つため息をつくと、宏紀は自分の前に手をついた。そのまま、はいはいをする格好で入り口に近寄っていく。小池と河坂の背中の向こうに、その顔は見えた。水谷が怒って帰ってしまった、そもそもの原因。

「うるさいよ、お前ら」

 まだ眠気が抜けなくて、目が半開き状態になっている。宏紀が声をかけたことで、3人とも気づいたようだ。訪問者が嬉しそうな顔をする。

「土方。やっぱりいるじゃねぇか」

「だから、寝てたんだって。おはよう、土方」

「おはよ〜」

 ふわぁ〜、と大あくび。河坂が、そんな宏紀の仕草にくすくすと笑う。よほどほほえましい姿だったらしい。寝ぼけているせいか、宏紀の仕草があまりに子供っぽくて、他人の微笑を誘うのだ。

「お前が一番うるさいよ、中野。おかげで起こされた。今何時? 何だよ、まだ30分もあるじゃん。寝よ」

 寝ぼけている割には一気にまくし立てて、おやすみぃと言いながら、また這って同じ場所へ戻っていく。後ろで河坂が楽しそうに笑っている。おやすみ、と返したのは小池だった。
 いつもの宏紀ならばまず見られない行動だが、二人とも特に違和感を感じてはいないようだ。中野だけが、一人でとまどっている。

 まだそれでも帰ろうとしない中野を入り口に置き去りにして、河坂と小池が宏紀のそばに戻ってきた、ちょうどその時だった。遠くから近づいてきていた、人の走る音がすぐそばで止まり、唯一アルミ製の扉が、バンッと激しい音を立てる。

「大変だ! 誰か助けてくれ!」

 それは、宏紀たちの1学年下のこのサークルの後輩で会計を務めている、西村の声だった。靴を脱ぐのも面倒なようで、膝立ちで姿を見せる。

「吉川がガラの悪い男に絡まれてるんだ。今、黒崎が守ってるんだけど…」

 言いながら、周りを見回して、声が尻すぼみになっていく。水谷がいれば、少しは頼りになるのかもしれないが、ここにいる人は全員小柄で、いかにも非力そうに見えたのだ。他を当たった方が良いかもしれない。そう思ったのだろう。だが。

「どこ?」

 むくっと起き上がり、声をかけたのはその中でももっとも頼りなさそうな宏紀だった。

「え…。土方先輩じゃ…」

「ためらってる場合かよ。どこ?」

 外見を見て戸惑ってしまうのは、おそらく常識で考えれば正しい判断なのだろう。畳み掛けられて、しぶしぶ西村が指差したのは、この建物の玄関に当たる方向。指の先を追いかけて、宏紀は部室を飛び出していく。出たところで中野に出くわしたのか、邪魔っ!という叫び声が間髪いれずに聞こえてきた。
 河坂と小池は顔を見合わせ、ずっと先を行く宏紀を追って部室を出た。もう玄関の近くまで行っている宏紀がずっと先に見え、その後ろを中野が走っている。




 バシッと盛大な音を立て、建物の入り口のガラス戸を勢いよく開けると、3段ある階段のすぐ横に、その光景は広がっていた。
 建物の壁を背に、黒崎の背後に隠れる吉川と、震えながらも手を広げて吉川を守ろうとする黒崎。その前には、いかにもガラの悪そうな男が3人、取り囲むように立っている。
 男ばかりの戦国史研究会で数少ない女性である吉川は、見た目にもかなりかわいい部類に入っていて、むさくるしい中に舞い降りた掃き溜めの鶴のような存在で、それだけではないのだろうが、黒崎はそんなアイドルを懸命に守っている。

 たどり着いて状況を確認するだけの時間を置いて、それにもかかわらず、宏紀はすっかり落ちいた様子を見せていた。

「何やってんだよ。部外者は学内立ち入り禁止だけど?」

 こんな緊迫したムードを、まるっきり無視している。状況と宏紀の態度とのギャップに驚いたのか、どちらからも反応がない。しばらく経って、吉川のかすれた声が出てきた。

「…土方先輩」

 どう聞いても、助けに来てくれて嬉しい、というような声ではない。そんなことは期待もしていなかった宏紀には、特に気にした様子もないが。

 対して、チンピラの反応はやはり王道にのっとったものだった。

「んだぁ? てめぇ」

「チビガキの出る幕じゃねぇんだよ。すっこんでろ」

 別にこれといった個性も感じられない台詞に肩をすくめ、黒崎とチンピラたちの間に歩み寄る。

「悪いんだけど、今、寝不足がひどくてね。手加減できないから、喧嘩売るなら病院行き覚悟しといた方がいいよ」

 これを、もしスポーツマンタイプのがっしりした体つきの人が言ったのなら、少しは効果があったのかもしれない。しかし、この場合、鼻で笑い飛ばされるのが落ちだ。宏紀にそんな迫力はない。

 そうこう無駄話をしている間に、河坂と小池が追いついてきたらしい。中野はとっくに着いていたはずだが、なぜか二人が着いたとき、物陰に隠れて事の成り行きを見守っていた。情けない姿である。

「で、吉川さん。こういう人に絡まれるなんて、何やったの?」

「そのアマぁ、うちの金持ち逃げしようとしやがった悪党なんだ。邪魔すんじゃねぇ」

「っるっせぇっ! てめぇらには聞いてねぇんだよ」

 昔取った杵柄と言っていいのかどうか。いつも温厚な宏紀が、軽く凄んで見せただけなのに、全員が黙ってしまった。宏紀の正面にいる男たちにいたっては、びくっと身体を揺らす。

「この人たちは、とりあえず追っ払う方向で決定。異存はないね?」

 尋ねる相手はあくまでも吉川らしい。宏紀は彼女を振り返ってそう言った。吉川も黒崎も、こくこくと何度も縦に首を振る。その二人ににこっと笑ってみせると、改めて、侵入者に向き直った。

「今日のところは大人しく引き下がってくれる? 学外でどうなろうと別にどうだっていいけど、ここ、とりあえず私有地なんだよね」

「うるせぇ。てめぇにゃ関係ねぇだろ」

 先ほどまでの威勢は、どうやらなりをひそめたが、それでも自分のメンツのためか、そう反撃してくる。宏紀もそれは予想していたようで、はぁ、とこれ見よがしにため息をついた。

「さっきも言ったけど、俺、今日はちょうど、かなりの寝不足なんだよね。貴重な昼寝時間を邪魔されたんだから、それなりの報復に力づくで訴えても、それは当然の権利だと思わない?」

 あくまでゆっくり話す宏紀に、先ほどまでの不思議な迫力が感じられなかったからか、はぁ?と、多少馬鹿にしたようにチンピラたちが聞き返して見せた。

「喧嘩しなくなって、結構ブランクあるんだよね。知らないよ、手加減できなくても。病院代は自分で出してね」

 さらっと出された宏紀の捨て台詞に、男たちは顔を見合わせ、ぷっと吹き出した。

 が、次の瞬間。

 一番前で偉そうに胸の前で腕を組んでいた、茶髪を通り越して金髪に近い男が最後に見たのは、顔を見合わせた仲間の笑い顔ではなく、スニーカーの靴紐だった。口から、折れた前歯と血を撒き散らし、5メートルは軽く、横に吹っ飛んでいく。

「だ〜から言ったじゃない。手加減できないよって」

「…や、ヤローッ!」

 さすがに喧嘩は場慣れしているらしく、吹っ飛んだ仲間を見送ってしばし呆然としたものの、立ち直りも早かった。猛然と立ち向かってくる。その、少しは勇気があるというのか、それともただ単に無謀なのか、すぐには判断のつきにくい反応に、宏紀はなぜか楽しそうに笑う。

「あんたらでかなう相手かどうかくらい、見極めなよ。命縮めちゃうよ〜」

 小柄な宏紀一人を相手に、二人同時に左右から殴りかかってくる。正面から攻撃されていて、それに気づかないわけはないだろうに、宏紀は軽口を叩いてさらに相手を煽っている。普通に考えれば、今の宏紀のセリフは宏紀に対してこそ言いたいものなのだが。

 ひょいっ、と特にあわてた様子でもなく攻撃を避けて、左側の男を軸にくるりと一回転、背後に回って膝の後ろを軽く小突く。関節を無理やり曲げられて体制を崩したその男の、今度は背中を強く蹴り飛ばし、地に手が突いたところで左肩を思い切り踏みつけた。この間、わずか1.5秒。バキッという派手な音と同時に、男がギャーっと悲鳴を上げた。音から察するに、肩の骨は折れたかもしれない。だが、宏紀は踏みつけた時点で興味をなくしたらしく、次の男に向かっていた。悲鳴が聞こえなかったことはないだろうが、表情一つ変えないのだ。

 もう一人の男には、もう少し動きが簡単だった。二、三歩走って近くに寄り、鳩尾に膝蹴りを一発。腹を抱えてかがんだところで、あごに見事命中する蹴り上げをかまし、さらにそのまま首の後ろに踵をかけて地に叩き伏せる。

 まったくもって、あっという間の出来事で、使ってもいない手をわざとらしくはたいてみせる宏紀以外に、動ける人はいなかった。いつの間に集まっていたのか、野次馬たちですら呆然としてしまっている。最初に蹴り飛ばされた男を含め、不法侵入者は3人とものびてしまっていて、しばらくは意識を戻しそうにない。
 改めて男たちを見回し、宏紀は軽く肩をすくめた。

「イキがって見せる割には打たれ弱いなぁ。意地で起き上がって、お決まりの捨て台詞の一つも吐いて逃げ帰るくらいの根性見せろよ」

 ぶつぶつと自分勝手な文句をつぶやきながら、最初に蹴り飛ばした男に近寄っていく。つま先で小突いて、まったく反応がないのを確かめると、一つ大きなため息をつき、かなり多く集まった観客に向き直った。

「誰か、救急車を1台呼んでもらえませんか? 一人、骨いっちゃってる」

 加害者は自分だろうに、他人事のようにそう言って、宏紀は彼らに背を向けた。

「吉川さん」

 背を向けたのは、吉川に声をかけるためだったらしい。つい先ほどまで軽く笑っていた宏紀が、急に真面目な顔をする。

「は、はいっ!?」

「自分の始末、自分でつけてね。これは放っておいていいから。次は助けてあげないよ」

 これとは、もちろん宏紀の足元に転がっている3人のチンピラのこと。こんなすごい暴れっぷりを見せられた後で、滅多に見せない真面目顔をするものだから、吉川はおびえてしまったらしい。おそるおそる、うなづいた。
 それでやっと、宏紀がいつもの落ち着いた笑みを見せる。ふわ〜、とあくびを一つ。

「暴れたら眠くなっちゃった。あと10分あるし、もう一眠りしよ」

 ぶつぶつ呟いて、玄関口をふさいでいた中野、河坂、小池の3人を何気なく避けて、部室へ戻っていく。宏紀の姿が見えなくなったら、とたんに辺りが騒がしくなった。
 それはそうだろう。小柄で吹けば倒れそうな美人の男が、標準よりもずっと大柄で喧嘩も強そうな男を一度に3人も、一瞬で伸してしまったのだ。その現場を目撃してしまっては、平静でいられるほうがよっぽど不思議だ。

「なるほどねぇ…」

 開いた口が塞げなかった宏紀の知り合いと呼べる人の中で、一番に我に返ったのが小池だった。呟いて、腕を組む。その声で正気に戻ったらしい河坂が、まだ呆けたまま小池を見やる。

「土方宏紀、かぁ。すごい人と友達になっちゃったなぁ、俺」

 この一言で、中野もやっと我に返ったらしい。何だ?といった表情で小池を見やる。

「何だよ。まだあるのか? お前が握ってる土方の秘密」

「秘密って事はないと思うけど? これはかなり有名だから。俺みたいな真面目一直線だったのでさえ知ってるんだから、当時のS市周辺の中坊には常識って奴?」

 はぁ? 何だかもったいぶる小池に、河坂も中野も怪訝な様子で首をかしげる。小池は答えも出さずに、部室に向かって歩き出した。二人があわてて追いかける。

「何だよ。もったいぶらずに教えろよ」

 いよいよ痺れを切らせたか、中野が追いかけながらいらついたように問いかける。それに対して、小池は軽く肩をすくめた。

「俺もついさっきまで同姓同名の別人だと思ってた」

「だから、何だって言うんだよ。土方がどうかしたのか?」

「隣町まで伝わる有名人だよ。S市立M中の番長にして、S市内の全中学校を従える総番、土方宏紀。本物のやくざすらその姿を見たらこそこそ逃げ出す、とか、いろんな伝説を作った人。中学卒業したら話聞かなくなったから、足を洗ったんだろうって噂だった」

「…あの、土方が?」

「だから、同姓同名の別人だと思ってたって言ったろう? 俺だっていまだに信じられないよ。この目で見た今でもね」

 あれは夢かねぇ。いくら何でもあの体格差では無理があるだろうよ。そう呟いている小池に、衝撃の事実を教えられて声も出ない二人が追いかけていく。玄関先においてきた吉川と黒崎のことは、小池も河坂もすっかり忘れているらしい。





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