寝不足狂騒曲 1
「本当にすみません。印刷屋がこの不況で潰れましてね。ええ、突然。それで、別の印刷屋を急遽手配したんですが、発売日を守るには締め切りを3日手前に持ってこないと間に合わないんですよ。土方先生でしたら大丈夫ですよね? よろしくお願いします」
そう言って一方的に切られた電話を受けたのが、ちょうど30分前だった。
いつの間にか、担当氏は宏紀の大学の時間割を把握していたらしい。10分しかない休憩時間ぴったりに電話をかけてくるのがこれで3回目。1回目はまぐれ、2回目は偶然としても、3回続けば必然だろう。
大学の大講義室の前から3列目の真ん中に座って、ノートに向かって熱心に何かを書いている、首筋あたりで小さく結える程度に髪の長い小柄な青年が、土方宏紀である。
国立で一番の入学難易度を誇る、赤門で有名な東京大学の社会学部史学科3回生で、同時に現在ひそかに着実に売り上げ部数を伸ばしている、新進気鋭の時代小説作家でもある。
締め切りが近いからといっても滅多に講義をサボったりしないおかげで、学友たちにはこの二束のわらじ生活はバレてはいない。だが、それも今回までのことになるかもしれなかった。
あと1週間あった猶予が、あと4日に縮まってしまったのだ。まったく、土壇場の期限変更には困ったものだ。
そんな中で、まじめに勉強しているように見える宏紀は、ノートに一心不乱に文字を書いていた。
教壇上のホワイトボードに書かれている内容とは、明らかに違っている。人名と人物の紹介らしい文章と書き込みや矢印が少々。次の小説の構想を練っているのである。
別に余裕があるわけではない。授業中という、切羽詰った状態では無駄とも言える時間帯を、有意義に使っているつもりなのだ。現に、今までこういう態度で授業を受けてきて、優と良以外の評価を取ったことがない宏紀である。罪悪感は多少あるものの、自分のためという意味ではこの時間の使い方で良いらしい。
大学の始業終業の合図は、小中学校と同じく鐘の音である。実にのんびりとしたその音が聞こえてきて、ずっとうつむいていた宏紀がようやく顔を上げた。例のノートと1枚のルーズリーフの紙(授業のノートだったらしい)を手早く片付け、席を立つ。時刻は11時50分。2時限目が終わったところである。
講義棟から吐き出される蟻のような学生の群れに混じって外へ出た宏紀は、食堂へと流れていく集団から1歩外へ出たところで、誰かに軽く肩を叩かれた。
「土方。メシ、一緒に行かねぇ?」
名を呼ばれて、宏紀は仕方なく振り返った。
顔を見なくても声でわかるようになってしまった男である。不本意ながら。名前は中野武人。特に人を嫌うこともなかった宏紀が、珍しく苦手としている相手だった。
経済学部の同期生で、背は高く、今時風に茶髪にしたりしている、逆に東大生のイメージにはあまり合わない雰囲気の人間だ。経済史各論の講義で偶然隣に座ったときからの知り合いで、初対面でどうやら一目惚れをされてしまったらしい。が、宏紀にとっては迷惑な話だ。
「悪いけど、もう帰るから」
ひらひらと手を振って、表通りに向かってずかずかと歩き出す。後に残された中野が、後を追うべきか諦めるべきかを考えあぐねてその場に立ち尽くしていた。
土方家は、宏紀を含めて男ばかりの4人家族だ。年長組は、今日は別々に地方へ出張中。年下組の片割れ、祝瀬忠等は、今日は金曜日で明日は休みということもあって、同僚たちと飲みに行っている。帰りは遅くなるといっていたので、おそらくは日付の変わるころだろう。
誰もいないうちに仕事をできる限り済ませてしまうつもりらしく、宏紀は自室にこもってわき目も振らずワープロを打ち続けていた。昼食は帰りにコンビニで買ったおにぎり一つで、まだ夕飯も食べていない。ふと気がつくと11時を回っていた。
仕事がどんなに切羽詰っていても、周囲への気遣いを忘れたことはない宏紀である。時刻を確認すると、ワープロの電源を切り、立ち上がった。
階段を下りていって、まずは風呂の準備。湯張りしている間に、台所に立って米を研ぎ、明日の朝6時にタイマーをセットする。ついでに冷蔵庫にしまわれていた今朝の残りご飯とレトルトカレーを電子レンジで温め、自分の夕飯とする。食べ終わったころに、風呂も沸いた。
どうにも手際のよい宏紀だが、これも日ごろの主婦業の賜物だろう。何しろ、この家は男所帯で、宏紀を除いた全員が家事にはかなり疎いのである。ほかにやる人もいないのだから仕方がない。
風呂から上がって、すでに日課となっているコップ牛乳の一気飲みをしていると、玄関のチャイムが鳴った。時刻は0時5分を回ったところ。こんな時間に来客はないだろう。
「はあい」
インターフォンを使わずに玄関ホールへ出て声を返す。聞きなれた、聞くだけで幸せにしてくれる声が返ってきた。
「ただいま」
「おかえりなさぁい」
答えながら玄関を開けてやる。毎日見ているのにちっとも見飽きない顔が微笑んでいた。
帰宅する間の時間ですっかり酔いを醒ましてきた忠等を風呂に入れ、宏紀は脱衣室で忠等のスーツをハンガーにかけていた。すぐそばでは最近買い換えたばかりの洗濯機が小さな音を立てながら働いている。
「原稿の締め切りがね。来週の月曜日になっちゃったんだ」
「…木曜じゃなかったか?」
すりガラスの向こうで頭を洗いながら、忠等が反応する。そうなんだよねぇ、と宏紀はため息をついた。
「今回微妙に余裕ないから。今日明日あたり徹夜しないと終わらないよ」
ひたすらため息が混じる。忠等もガラスの向こうでため息をついたらしい。
「週末におあずけは辛いなぁ」
「3日と空けたことのない人に『週末に』なんて言われてもねぇ」
「何を言うか。この前はいつだったか思い返してみろ」
そろそろ我慢の限界だぁ、とぼやく恋人に促されて過去を振り返って、あれ?と宏紀は首をかしげる。
「ほんとだ。もう5日も空いてる。何で?」
「宏紀が原稿に付きっ切りだったからだろ」
そうだったかな、と宏紀は首をかしげた。自覚がなかったらしい。そういえば、先週末からご無沙汰だ。
一時期に比べて自分の性欲が淡白になっているのに、今更気がついた。昔は毎日抱き合っていたって足りなかったのに。
将来に不安がなくなったせいだろうか。それとも、昨年まで大学生で京都に住んでいた忠等が帰ってきて半年経って、いい加減落ち着いたからかもしれない。
「なぁ。徹夜は明日からにしようよ」
「ん〜。でもぉ…」
「俺、欲求不満が祟って死んじゃうかも」
「4年耐えたじゃない。大丈夫だよ」
「あの時はそばに宏紀がいなかっただろ。今の状態は、これは蛇の生殺しって言うんだ」
ぷっ。あまりに真に迫っているものだから、思わず宏紀が吹き出してしまった。笑ったのに気がついたらしく、何だよぉ、というふてくされた声が返ってくる。
「わかったよ。降参。忠等には勝てません」
やったっ、素直に喜ぶと、洗面器にためていた湯を頭からかぶった。結論が出て、宏紀は忠等のスーツを抱きかかえ、脱衣室を出て行く。まだ新しいスーツからは、タバコのにおいに混じって大好きな忠等の匂いがした。
[ 70/139 ][*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]戻る