II-5
珍しい事もあるものだ。宏紀と忠等が帰りついたとき、貢と高宏はすでに家にいた。台所の方からは良い匂いがしている。
お帰り、という貢でも高宏でもない太い声に、宏紀はわあいっと喜んで台所へかけていった。マキが久しぶりに夕飯を作りに来てくれたのだ。最後に来たのが忠等と再会した日だから、マキは初めて高宏と会ったことになる。
聞くところによると、マキは貢にも会ったことがなかったらしい。合鍵で中に入って料理を始めたところへ、鍵を開けて入ってきた音がして、宏紀だろうと思って包丁を持ったまま迎えに出たマキは、見知らぬ二人組を目撃した、ということだった。
名乗りあったことで大きな騒ぎにはならなかったものの、危なかった、とマキは苦笑混じりで言った。突然二人分増えて、あわてて買物に出掛けたのだという。料理人見習いだというマキの料理の腕は、明らかに上達していた。
初めて口にした料理が気に入ったらしく、宏紀は熱心にマキからレシピを聞きだしている。忠等は中年二人と一緒に日本酒をちびちびとやっていた。
良い機会なので、相談してみることにする。
「ねぇ、貢さん」
「ん? 何だい、チュウトくん」
彼らの間には、すでにそれで良い関係が出来上がっていた。舅に気に入られた婿のようだ。
忠等は深く溜息をつく。何やら悩んでいるようだ、と貢と高宏は顔を見合わせた。
「おれ、京都大学に進学しようと思うんです。でも、宏紀と離れなきゃいけないかと思うと辛くって……」
「宏紀はそうでもなさそうだぞ?」
「そうなんですけど……」
また溜息。貢は軽く苦笑する。
気持ちはわかる。あれだけ一緒にいれば、とも思う。ただ、甘えがあるのも否めない。どう答えてやれば良いのだろうか、と貢は頭を悩ませた。悩んでいるうちに高宏が言う。
「愛し合ってるんだろう? 何か不安?」
「自信がないんです。一度、愛し合ったままで別れてますから、俺たち。そのせいで宏紀に精神的な傷をいっぱい負わせてしまって。またそうならないという自信がないんです。俺自身が淋しいのは、甘えているだけだとわかっていますから、それについては俺の問題なので自分でなんとかできますけど……」
一度別れていると知って、二人はびっくりしてしまった。最近の仲だと思っていたらしい。
貢が息子を見やって、なるほどね、と呟いた。宏紀は、マキと一緒に楽しそうに料理の勉強をしている。いつごろ付き合っていていつごろ別れたのかは知らないが……
「でも、今回は状況が違うだろう? あの子は以前より一人でいる時間が少なくなったし、もうしっかりした大人だ。俺たちもついている。友達もたくさんいるみたいだし。俺としては、君の方が心配だよ。右も左もわからないところに一人で住むことになるんだからな。大丈夫かい?」
え?と忠等は首を傾げてしまった。自分のことはこの際どうでもいいと思っていたのだ。しかし、宏紀も言っていたとおり、淋しくなるのは自分の方なのである。うーん、と悩んでしまった。
意地悪なんだから、と高宏が貢を睨んでいる。
「長期休暇は帰ってくるんだろう?」
優しい声で高宏が言った。もちろん、と強く頷く忠等に高宏は笑ってみせる。
「なら大丈夫だ。ずっと離れているわけじゃないからな。遠距離恋愛もたまにはいいぞ」
まるでやったことがあるような口振りだが、実際、この二人はしょっちゅう遠距離の立場に置かれていた。いつもいつもコンビを組んでいるわけではなく、片方が突然長期出張に行くことはままあるのだ。警視の仕事も、決して楽ではない。
はあ、と忠等はまた溜息をつく。仕方ないなあ、と貢は忠等の顔を覗き込んだ。
「恋は盲目って言うけど、こういうことにも使えるのかね。逆から考えてみたら? チュウトくんは、京大にいきたいんだよね?」
はい、と力強く答えて不思議そうな顔をする忠等に笑ってみせて、貢は言葉を続ける。
「京大じゃなきゃだめなのかい?」
「だめってことはないですけど、でも、京大がいいんです」
「じゃあ、悩むことないじゃない」
軽く言われて、忠等はびっくりして顔をあげた。貢は笑っている。
「悩むことないだろ? 道は一本道なんだから。大学は一生を決めるものだからね。行きたいところに行かなきゃいけない。宏紀は逃げていかないよ。ちゃんと君を待ってる。そうだろう? 君が一番よく知ってるじゃないか。なるようになる。なるようにしかならないさ。くよくよ考えたって、行く道は一本しかないんだ。それとも、ここへきて別の道を探すかい?」
うつむいて、じっと聞いていた忠等は、やがて首を振って顔をあげた。目の前に宏紀の顔が見えて、びっくりして大げさにのけぞる。けたけたっと宏紀は笑った。まるで子供のように。
「そんなに悩んでばっかりいると、若いうちにおでこはげちゃうよ」
冗談めかしてそう言った宏紀の笑い顔に忠等は思わず苦笑する。貢も高宏も楽しそうに笑っていた。帰り支度をしていたマキが笑って声をかけてくる。
「じゃあ、宏紀ははげ決定だな」
えーっ、と、とりあえず抗議の声を返して、楽しそうに宏紀は笑っていた。
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