III-3
布団をかぶって目を閉じて、宏紀はそっと左手首を見つめた。それから、それをそっと胸に抱いて、抱きしめた。
今まで無意識にいじめてきた左手。暇つぶしの道具にされて、それでもなんとか命を助けてくれた左手。そう思うと、涙があふれてきた。
今まで無意識がすべてを支配していたのに、今回は耳が支配されずに残ってくれた。SOSを脳まで届けてくれた。
きっと、忠等に会えたことが、幸せになれたことが、無意識にブレーキをかけてくれたのだ。
「チュウトさん……」
会いたい。宏紀はぼんやりそう思った。
どうすれば自傷癖が治るのかわかった。治るのではないだろうが、どうしたら誤魔化せるのかはちゃんとわかった。
いつのまにか、自分が好きになっていた。嫌いだった自分が。みんなが自分を好きでいてくれるから。助けてくれるから。守ってくれるから。今まで気が付かなかったのが馬鹿みたいだ。わかったから、だからこそ、もう死にたくはない。生きていたい。
でも、具体的にどうしたらいいのか、それがわからなかった。どうしたら暇がなくなるのか。何をしたらいいのか。まだまったくわからない。
ただ、それを考えているうちは自傷行為はしないということはわかっていた。それだけでもいいのかもしれない。そう思ったら、急に気が軽くなった。
もう寝よう、と宏紀はばさっと布団をかぶった。自分ではふっきれた気がしていたから、今のうちに。そう思って。
一週間、忠等は一歩も土方家に足を踏み入れなかった。部活にも出ないで、その間に生徒会の役員選挙もあった。
薄々宏紀と忠等の仲に勘付いている松実は宏紀が心配で仕方ない。最近宏紀が幸せそうなのはおそらく忠等の存在があってこそだと思ったからだ。
あながち見当はずれでもない。宏紀は何でもないようにいつも通り生活している。それがかえって松実の胸を痛めていた。
松実が忠等に会わなくなって七日目。会わないといっても見かけはするのだ。忠等は何か考え事があるらしく松実に気が付いていなかったが。
松実はいい加減耐え切れなくなって、弟の克等を図書室の司書がいる整理室という部屋に呼びだした。
この場所は、祝瀬兄弟と宏紀と松実が一緒に弁当を食べる部屋だった。部屋を借りる代わりに労働奉仕するのが司書との約束になっている。昼休み、いつものように弁当と克等を引き連れて、松実は整理室へ向かった。
克等は兄の最近の行動の原因を知らなかった。不審には思っていたらしい。
「いったい部活にも出ないで何やってんだ、って昨日聞いてみたんだ。はぐらかされてつい怒鳴っちゃったけど、結局わからずじまい。親もまあまあなんて呑気に言ってるし。何が何だかさっぱりだよ」
宏紀が音も立てずに部屋に入ってきて閲覧室の方へ通り過ぎていった。部屋の中を覗き込むと、そこに司書と忠等が並んで立っていた。本棚を見上げて何やら相談ごとらしい。
司書を呼ぶと、二人は同時に振り返った。宏紀が持っていた二つの弁当箱を持ち上げる。忠等は時計を見上げて、宏紀に近づいていった。司書は軽く頷いてまた本棚に視線を戻す。
忠等に弁当箱を一つ渡してやって宏紀が笑うと、忠等はサンキュ、と頬にキスをした。
「どう? できそう?」
「うん、何とかね。後は頭の中身をうまく組み立てて文章にするだけ。基本は頭のなかにあったからね」
良かったね、と宏紀は笑った。空いている場所に座って、いただきますと手を合わせる。松実と克等は顔を見合わせてしまった。松実がぽけーっと宏紀を見ている。
「何でまた、すくちゃん先輩のお弁当まで作ってきてるの?」
「ずっと俺が作ってるのは知ってるでしょう? 昨日電話もらったんだ。久しぶりに俺の弁当食いたいって」
ふーん、電話ねえ、と苦笑気味に松実が納得して言う。
克等は何故忠等が滅多に家から弁当を持って行かないかがわかっただけでも大収穫、という感じだった。いつも一緒に食べる弁当は一体どこから湧いて出るものなのか、常々不思議に思っていたのだ。何故宏紀なのかはまだわかっていない。
でも、と松実は不思議そうに忠等の顔を見つめる。どうやら宏紀と忠等の間には話が通っていたらしいことはわかったが、一体何をしているのか、真剣に興味を持ってしまったようだ。何?と忠等が卵焼きを頬張りながら首を傾げた。
「一体何をやってらっしゃるんですか?」
「論文をね。書いてるんだ。高校生自由論文コンクールっていうのがあるらしくてね。理科の立山先生に捕まっちゃってさ、やってみようかな、という気になったわけ」
そう言って、忠等は笑った。始めたらはまってしまったのだという。小学生の頃、勉強を遊びの一貫としてとらえる事ができた忠等である。それも当然の事なのだろう。
「一段落ついたから、恋人に甘えちゃおう、と思ったわけ。了解?」
「恋人…って…まさか、ひろ!?」
妙に納得した松実の隣で、克等はびっくりして思わず叫んでいた。
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