III-2
その日。宏紀は一人で家に帰り、夕飯の支度を始めた。
忠等は部活の途中で生徒会の用事で呼ばれていってしまった。来るか来ないかわからないため、とりあえず四人分用意している。
帰ってくるはずの時間になっても、父貢とその恋人高宏は帰ってこない。が、いつものことなので、この時はあまり気にしなかった。
ふと見上げた時計は七時をさしている。どうやら忠等は今夜は来ないらしい。いっぱい作ったんだけどな、と鍋を覗き込む。
煮物が良く煮あがって、飯も炊けて、後は魚を焼くだけ、にしてから、宏紀は家中の戸締まりをして風呂に入ることにした。
どうせやることはもうなにもない。長風呂の好きな宏紀は、パジャマを抱えてバスルームへ向かった。るんるん、と楽しそうに。宏紀が跳ねるように歩くと、ふわふわの髪も一緒に跳ねる。静かな家の中にいるという気が宏紀にはあまりしなかった。
宏紀は風呂上がりの牛乳も好きである。牛乳ビンでないところが少々つまらないのだが、グラスに注いだ牛乳を、腰に手を当てて一気に飲み干す。これがまた、格別のうまさなのだ。
あーっとオヤジのように息を吐いて、宏紀はまた時計を見上げる。九時を少し過ぎたところだった。遅いなあ、と呟いて、宏紀はまた風呂場の方へ行く。洗濯物を全自動洗濯機に入れて、居間に戻りTVをつけた。
洗濯物を乾し終えると、十時になっていた。まだ大人たちは帰ってこない。電話すらかかってこない。することがなくなって、TVも見たいものがなくなって消してしまうと、急に家の中が静かになった。
静けさが宏紀に重くのしかかってきた。つぶされそうで、宏紀はソファの上に足を乗せてうずくまる。
暇すぎる。やることがない。することが何もないという状況は、宏紀はもともと堪えられないのだ。
しばらくぼぉっとしていて、宏紀は突然立ち上がった。
「カッター、どこだっけ…?」
口が何事かを勝手に呟いた。耳がその、おそらく自分のであるその声をつかまえて脳に送る。探そうと身体が動きだした頃に、ようやく脳がその言葉を理解し、一拍おいてびっくりした。
カッターなど、何に使うつもりなのか。周りの切れるものといったら、ソファーの布、クッション、自分の身体……。
おそらく、自分の身体、要するに左手首を切ろうとしていたのだ。
また死のうとした。無意識に。忠等に会って、あんなに優しくしてもらって。それでも死にたいのか。もう、自分の心が自分で支配できなくなっているのだろうか。
今回は、耳が起きていてくれて、本当に良かったと思う。
もし、いつものように耳まで無意識の支配下にあったなら。
そう考えると、恐ろしくなった。さあ、と血の気が引いた。恐怖に震え、宏紀はまたソファの上にうずくまる。
どうやら眠ってしまっていたらしい。話し声が聞こえて顔を上げると、横からぬっと高宏が顔を覗き込んだ。
「目が覚めた? ダメだよ、こんなとこで寝ちゃ。風邪ひくよ」
「あ、お帰りなさい、高宏さん」
ぼんやりしたまま言って、背伸びしながら欠伸をする。情けない貢の声が宏紀の耳に入ってきた。
「おいおい、パパにはお帰りなさいはなしかい?」
「あ、いたんですか。お帰りなさい」
いたんですか、などと言われて貢がしゅんとうなだれる。くすくすと高宏が楽しそうに笑った。いつものようににぎやかだ。宏紀は、そんな当たり前のことに、ほっとしていた。のんびりと立ち上がって、二人に言う。
「お夕飯は?」
「宏紀が作ってるだろうから、って食わないで帰ってきた。今魚焼いてる。宏紀はもう食ったんだろ?」
「まだ」
げっ、二つっきゃ焼いてないっ、とあわてて貢が冷蔵庫をあける。あははっと宏紀が笑った。
「いいですよ、俺の分は。一匹残すよりは二匹あったほうが後々困りませんからね。後は俺がやりますから、座っていてください。ビール冷えてますよ」
「じゃ、そーする」
言って、魚の代わりにビールを二缶取り出すと、宏紀と入れ替わって貢は居間へ行った。台所に立って魚の焼け具合を確かめ、宏紀は煮物の鍋を火にかける。
「今日は遅かったんですね」
ふと時計を見ると、なんと十二時を回っていた。ああ、と貢が答えを返してくる。
「さて帰ろうか、って言ってた時に事件の通報があってね。電話できなくて悪かったな。あんまり慌ただしくって、そこまで気が回らなかった」
どうやら貢の気になった事件らしく、それから食事中ずっとその事件の話をしていた。宏紀は、真面目な顔で話し合う二人を見ていて、良いカップルだな、と感心していた。
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